カテゴリー: Review

  • 9-11月に観た映画などなどなど

    9-11月に観た映画などなどなど

    日記を韓国のALLWRITEで買ったノートに書いている。そのノートの表紙がいかしてるから買った。古び切ったカビなども生えているだろう車のリアシート、ファブリックは破れまくって色褪せる、チリにと芥となってどこかに飛んでいったのだろうまさに「風化」といった様子のシート。その上に炭酸水の瓶が1ダース入るえんじ色のプラスチックケースが置かれている。えんじ色は早稲田大学を思い出す。あの変な熊と。一切思い入れがない大学というもの、ただそれによって今に続いている仕事についているという可能性は大きいが、面白くはないよなまったく。自分は人生を面白くしたいと思っているタイプだと思っていたが、実際は家でマンガを読んだりゲームしている時間が一番好きなのである。友達や外出したりすること、一人で酒を飲んだり、何か表現したりすることは、何か機会があれば…、くらいでよい。全く求められないと動きがない私。道に駐車場に停まっている車、その中にある炭酸水やシートの頭のところにプロレスマスクが被さっていたり、そのようなところをみたくなる気持ち。関係のない、全く関係のない家の中は覗けることは少ないが車の中は知らない・関係のないままに覗いてもOKだからOK。スティル・ウォーター、まるで湯沸かしポットの中に置かれている、一回お湯になって使われずそのままになっている、水に戻ったような状態。スイッチさえ入ればまた沸騰し殺菌されるが、全くそれは最初の湯とは無関係であるような。

    音沙汰のない友達に年末会おうと連絡してから、もう年末が来ている。重く怠いが会ってしまえばそれなりに。しかし彼は酒をあんまし飲まなくなったし、すぐに喫茶店に行こうというのだ、僕は年末なら酒を飲み続けていたいから、そういうところも重く怠い気持ちにつながる勝手に。


    9月に観た映画

    • ラナ・ゴゴペリゼ 『インタビュアー』『昼は夜よりも長い』
    • サロメ・アレクシ 『幸福』
    • フリッツ・ラング 『処刑人もまた死す!』
    • 山中瑶子 『ナミビアの泉』
    • 五十嵐耕平 『SUPER HAPPY FOREVER』

    10月に観た映画

    • アンダース・エンブレム 『HUMAN POSITION』
    • 石井裕也 『愛にイナズマ』
    • 沖田 修一 『横道世之介』『おらおらでひとりいぐも』『モヒカン故郷に帰る』
    • 空音央 『HAPPYEND』
    • 佐藤真 『エドワード・サイード OUT OF PLACE』
    • リアム・ファーマガー 『スージーQ』
    • アレクサンダー・ペイン 『ホールド・オーヴァーズ』

    11月に観た映画

    • 金川晋吾(西澤諭志) 『father 2011-2013』『father 2015.05.18』『father 2008.12.08』
    • ピーター・ウィアー 『ピクニックatハンギング・ロック』
    • ホン・サンス 『リスト』
    • ジャファール・パナヒ 『人生タクシー』
    • 滝田洋二郎 『コミック雑誌なんかいらない!』

    全然観れてないというのも19時からの仕事が2週間続いたり、定期的かつ連続的な仕事が入っているのだ最近は。そのおかげで感情があんまし動かんし、なんといっても毎朝エアロビしてるから外に出なくても平気。毎日とある駅に夜いかないといけない仕事があったんだけど、立ち食い蕎麦屋で今日は何蕎麦にしようか、卵を追加しようか、天丼・カレーにいくのもあり、と考えるだけで私は幸せになれるから。こんなことがあった、明日はゲソ天蕎麦に追加で生卵だとずーっと考え続けた結果それを注文したんだけど、ゲソ天蕎麦には初めから卵がついていて、追加の卵をあわせて私は二つも夜に卵を食べたんだ。別皿で来たから溶かしてつけ麺的に食った一回だけ、でもそれはそれほど楽しい経験ではなかったので、結局丼に放り込んだ。非常に記憶に残る出来事。そのままの短歌も詠んだ。こういうことばかり人生で感じていたい。そして帰り道その店をグーグルマップで調べてあげられているゲソ天蕎麦の写真を確認する、そこには卵は付いていなかった…!毎日通うことへのサービスが発生したのか?????あんなに愛想がないのに?????と更に興奮したわけである。ただしその三日後いった時に頼んだ春菊天蕎麦には何もつかない。

    本当に自分の価値観と合わない洒落ている、綺麗なだけの映画を観たとき、私は憤慨する。そこには何もないから。何もないことを美しいと思っているのか。それぞれの形態において、向き・不向きというものがあるだろう、という話だ。

    『横道世之介』はとっても良かった。吉高由里子も、高良健吾も普段とは違う人物になっているだろう、そういう人がいる感じがちゃんと感じて、しっかり感動した。JAIHOでみた『コミック雑誌なんかいらない!』も内田裕也に初めて興味を持った、カッコいいのかもしれない…!と。何にも内田裕也のこと知らないし何にも言えないけど、声がめっちゃ小さかったり、ただその時代の新宿とかみれるだけでいいし、あと最後にビートたけしがかなりイケてる。


    【ナイスシングス】

    • ポーラテック アルファダイレクト90使用のミッドレイヤーパーカー:これはいい。25000円は価値あり。軽すぎるしあったかすぎるので、これを脱ぎ着すれば、アウターは薄めのナイロンジャケットで十分である。重いジャケットも良いが、電車とかで暑すぎるのがマジで嫌いだから。
    • 伊勢原のジンギスカン伊勢原:モクモク系焼肉屋。とにかく幸福になる。良い服で行ってはいけないよ。
    • 会津 下郷郡 塔のへつり:友達と旅行に行った。初めて紅葉が美しいと思った。本当に。
  • 2024年7-8月(観た映画など)

    2024年7-8月(観た映画など)

    酒飲む前後に五苓散という有名な漢方を飲むようにしていたんだけど、最近飲んだ日の夜、どれだけ入眠系のヨガやストレッチをしてみても寝れない時がある、4時とか6時とかまで寝れず(そういう時は満月のせいだと思い月の大きさをスマホでみるも、めっちゃ新月だったりする)、9時まで寝て起きるとそれはそうだが体調が悪い。気分も併せて体調が、ただし運動をして午前やり過ごして昼飯後に昼寝すればそんなに問題ない。その漢方のせいだと思って飲むのをやめてみたんだけどやはり眠れず、だから五苓散のせいではない。理由はなんだと、空腹だろうと思い至った。冷蔵庫にあった水ようかんを4時に部屋に持っていき食べると全身が安心して眠れたのである。

    飲みが進むとすぐに空腹を忘れるタイプである僕は、家に帰る道で「腹減ったなあ」と思いつつ酔っぱらっているので風呂入って、シートマスクしたり歯磨きしたり軽くストレッチもする。するとすっかり腹減ったなあとなるのだがそこでまた食べて歯磨くのがめんどくさいから本読んで眠気を作って寝ようとする。が寝れない。だからシンプルに、一杯食べてから飲もうと思った次第。これからはそうする。食べて食べて食べて飲む。これまでは飲んで飲んで食べて飲む、だったので。

    夏の終わりかけに気付いたのが、エアコンのカビ。エアコン内部のファンの部分(専門用語ではシロッコファン、と呼ぶらしい。シロッコファン、自分的には一瞬で覚えられる系の名前。)の羽にびっしり!とカビが生えてこすると真っ黒になる。それに気づいてから冷房を使えずなんか体調も悪いので、AMAZONでセルフで内部を洗浄するキット(”カビッシュトレール”なるもの。カビをシュッとしてとれる小林製薬メソッドのネーミング)を買ってトライした。汚水漏れが心配だったが、しっかりと付属のビニール袋を固定した。すすぎ液が全然足りずベランダに置いてあった強力な加圧式の霧吹きでブシャーっとやる。すると盲点であった右下左下の何か空間から液がぽたぽた。まあ完璧にできないくらいがセルフ〇〇にはちょうど良い。80点。75点。65点。50点。クリーンな空気で再出発である。マジで謎の体調不良が続いている(くしゃみ、せき、だるさなど)場合はエアコンを疑うべし。


    7月に観た映画

    • ホン・サンス 『WALK UP』
    • ブリュノ・デュモン 『フランス』
    • 小栗康平 『死の棘』
    • 佐井大紀 『イエスの箱舟』
    • 武田一成 『のぞき』(”ちょっと冒険してみない?「ORGASM」的偏愛ロマンポルノ”特集)
    • 鈴木潤一 『女教師狩り』(”ちょっと冒険してみない?「ORGASM」的偏愛ロマンポルノ”特集)
    • キム・ボラ 『リコーダーのテスト』
    • 斎藤久志 『フレンチドレッシング』
    • 奥間勝也 『骨を掘る男』
    • 『古代の美』『ドラムと少年』『港をつくる』(”日本映画と音楽1950年代から1960年代の作曲家たち”特集 矢代秋雄/佐藤慶次郎 作品集)
    • 青山真治 『サッド ヴァケイション』
    • 仁同 正明 『コーポ・ア・コーポ』
    • 小栗康平 『泥の河』
    • アリーチェ・ロルヴァケル『墓泥棒と失われた女神』
    • 井口奈己 『犬猫(8mm)』
    • レイチェル・ランバート 『時々、私は考える』
    • 曽根 中生、 Leiji Matsumoto 『元祖大四畳半大物語』

    8月に観た映画

    • 三間旭浩 山田咲 草野なつか 遠藤幹大 『広島を上映する』
    • 黒沢清 『Chime』
    • 斎藤玲児 Aプログラム(SCOOLシネマテーク Vol.4 斎藤玲児レトロスペクティブ)
    • たかはしそうた 『移動する記憶装置展』
    • ヴィム・ヴェンダース 『アメリカの友達』
    • リラ・アヴィルス 『夏の終わりに願うこと』
    • 西村匡史 『“死刑囚”に会い続ける男』

    比較的日本人監督の映画を多く観ているようだ。小栗康平の作品はもっと観たい、かなり面白い。『泥の河』の蟹焼きのシーンは観てしまった…感がある。『のぞき』、『元祖大四畳半大物語』は本当に良かった。下らないことをやり続ける、だらしない魅力に溢れている。こういう笑いを生み出せるムードの人になりたい。『サッド ヴァケイション』はやっぱり何回観てもいい。いつも発見がある。ああ、なるほど、とあれこんなんだっけ、といっつも九州弁慣れないな、とか。母親、父親、兄弟、プライド…。『フレンチドレッシング』(正確には各文字の間に中黒が入る?)はみんなで観た。観終わって居酒屋と東京ドーム前で飲んだのは夏の思い出。観覧車は今度乗りたい。斎藤玲児さんの作品集と『広島を上映する』内、山田咲『ヒロエさんと広島を上映する』を観ているとあらゆる映像記録の意味について、一度ある意味リセットしたように観る体験ができた。あらゆる映像に意味があるとも思えるし、意味などなく、記憶もそれぞれの無限のパターンがありえるし、編集についてもそうだと思える、いつもの自分がいかに便宜的に、上滑りしているのか、とも思える。『Chime』は気分的にはまれない、究極の無意味に乾燥しているように、無駄に思えてしまう。何を求めているのか知らんが。『移動する記憶装置展』、最近『他なる映画と 1』を読んでいて、身体は嘘をつかない、という言葉が出てくるが、実際にいる人の動き、歩き、所作、語り方をみてきいて、これかと体感できたのが嬉しい。そしてそれを再現し、フィードバックする(緩く)、こういうプロジェクト、アーカイブ性をゆるりと実現する姿に憧れる。緩さと真摯さが現在だ。かげやまさんが出てきたのも嬉しかった。斜めに身体を傾けつつ、なんとなく伺う。半分くらい。『リコーダーのテスト』の父親の頭に触れられない気持ち。


    【ナイスプレイス】

    • 『番兵』@仙川駅:ばんべい、と読む。もつ煮込みが、牛モツで、野菜とか入っていない、シンプル。新鮮。新鮮なアブラがめちゃうまい。素晴らしい。店主が鷹狩の服のブランドもやっている。事業の一個として立ち飲み屋をやる。たくさん話してくれる。安い、うまい、中華も本場で学んできた腕前。まな板と包丁でわかる。パチ屋の入口の真向かいから入る路地にあるのでパチ屋のチーム客が休憩がてら飲んでいた。良い。
    • 『和田堀公園プール』@永福町:屋外で、なぜか50m・長水。でかくて雑い。7月の真っ最中の太陽で焼け痛い。シャワーもプールゾーンの境にある大型の一基のみ。去年は受付や中で怠そうな大学生男女バイト達が青春してたが今年はなんか違った風。隣の幼稚園からクラクション音が断続的に続き、事件かと思ったら、車に乗る体験教室が開催されていた。サイドで焼いてるおじさんたちと「危ないやつかと思ったよねえ~」と話した。帰り道の長浜ラーメン世田谷店もうまかった。

  • 2024年の5-6月に観た映画のこと

    2024年の5-6月に観た映画のこと

    毎日元気じゃなくてもいいが、元気じゃないと色々と不必要な妄想に囚われがちになるから、やっぱり元気な方が良いのかも。結構考えることこそ自分だ、とずーっと思ってきていたが、親とか占いに、あまり自分の中に留まって考えすぎない方が良いと何回も言われていて、昔はそうは思えなかったが最近はほんとそうだなと思える。ほんとそうだと思えるまでは、何回聞いてもやっぱり意味がないと思う。しかし「違うんだな」と思いつつ過ごしてきた時間こそがこの「ほんとそうだと思える」に必要なことでもあるからカウンターにも意味がある。

    そもそもそういった「違うんだな」と思うことに出会っている時点で、それを自分が含んでいる。ベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』に関する対話の本の中で、「ある対象に対して憧れや尊敬を向けることができる条件は、その対象を憧れ・尊敬する要素が自分自身に含まれていること」である、というようなことが書かれていた。憧れ・尊敬、あるいは単に「いいなあ」とか、おそらく「違うんだよなあ…」も、あらゆる自分にとって何かしらの引っかかるものたちについては、それらに「関心をもてる」というだけで既にしてそれらを身につけているのだ。そしてそれらを発揮するに至るか至らないかの差であり、ある・ないの人工知能的なものではない。だからあらゆることはメッセージなのであるのだろう。そういうスピリチュアルな方向にも感じられるが、もっと単純に、できるだけ多くを感じて、できるだけ多くを考えないであれ。といったことでもあるのか。

    『ペーパーマリオRPG』のリメイク版を最近クリアしたんだけど、あるキャラクターに「夢をあきらめないで」と言われるシーンがある(ちなみに全然ストーリーには関係ない)。夢と可能性はけっこう近い。叶える・実現するとそうなるはかなり遠い。「要素を含みつつも発揮していない」状態が夢であり、可能性であると思うから、その夢と可能性を叶え実現することは矛盾する。常にネガティブに、「諦めないで」というのは「夢を叶えないで、実現しないで。(微睡みのままでいて)」というおとぎ話的な眠りへの脱力に思えた。

    夢を諦める、というのが一般的にはフルタイムで真面目に働き、お酒をたまに飲んだり、夢を趣味にして懐かしく思う、など切り替えていくことだとする。しかし夢は主体的に諦めたり、諦めるのをやめたりできるものではなく、夢から「諦めないで」「覚めないで」いることしか存在することができないはずなのだ。だからおそらく僕は死ぬほど努力したり、超努力したりできない。きっとなんとかその範疇でうまくやるから誰かピックアップしてくれ、と常に思っている。映画をお金を出して観にいってもほとんど微睡んでいる時間の方が多いのではないか。

    5月と6月(26日まで)に観たのは、『悪は存在しない』、『ゴッドランド/GODLAND』、『ブレインウォッシュ セックス・カメラ・パワー』、『マグダレーナ・ヴィラガ』、『ラジオ下神白 ―あのとき あのまちの音楽から いまここへ』、『関心領域』、『ユニコーン・ウォーズ』、『美しき仕事』、『左手に気をつけろ』・『だれかが歌ってる』、『江梨子』、『エンジェル・アット・マイ・テーブル』、『蛇の道』(リメイクの方)、『ほかげ』。

    特によかったのは『ゴッドランド/GODLAND』、『左手に気をつけろ』、『エンジェル・アット・マイ・テーブル』、『ほかげ』。

    • 『ゴッドランド/GODLAND』:めちゃくちゃかっこよかった。時間をかけて遠くに連れて行かれたから外に出た時青学生がたくさんいて男っぽい話し方、女っぽい話し方をそれぞれみんながしていて愚かだと思った。私もそうだったとか、そういう似ている部分や似ていない部分、相似形を常に探してしまうことが人間らしさだと思って。さっきの話、憧れを自分に近づけすぎたり、そのために必死に努力すると覚めちゃう。気づかない、キャンセルしない、できるだけその方向にありたい。そのあと最寄り駅の蕎麦屋でじいさんたちと同じくそばを啜ってるとき心地よかった、席的にも向かい合わず、視線は全く交わされない。

    • 『左手に気をつけろ』:めちゃくちゃかっこよかった。救われた気がして心が軽くなって、見られ方とか見た目とか気にならなくなって渋谷も自由に歩けた。ほんとうのユートピアは心持ちにあると思った。併映の『だれかが歌ってる』もそうだが、世田谷区のいろんな好きな公園、好きな店、好きな映画館が出てきてそこを選んで撮って作品にしている人がいるというだけでそれだけで救われる。自分をそこに観るようで嬉しい。内面化したくないが、どうしても知っている場所はエモい。私は愚かである。全く知らない場所や人も当然出てくるわけで、子どもが頑張っていて、素顔ではないが素顔に近い。それをバッと写し取る、景色も素顔をバッと選んで写し取る、編集で選ぶ、切り方・つなぎ方を選ぶ、それを感じられるのはとっても嬉しいことだ。マダムロスというバンドを知れたのも嬉しい。心の中でガッツポーズ、は嘘だが、よっしゃいけ、という感慨に久々になる。足取りにくる、街での立ち居振る舞いが変わる。

    • 『エンジェル・アット・マイ・テーブル』:当時のリアルな女性の生きづらさが伝わってくるストーリーもそうだが、どこかに加担しない主人公と、監督自身の思想がフレームに表れている。やっぱりストーリー自体の外にあるものを撮っている、それは町にいる人の素顔、倫理的に撮っていいと思えるものを撮っているはず。スペインの人々、その時に居た人の顔、その時にあった子どもの遊び方や声に、その時をみられるから嬉しい。

    • 『ほかげ』:ずっと観ようと思っていても、その印象の暗さに避けていた。観はじめればいいのだけどね。やっぱ観たら、ずっと面白いというか、強い。全然違うな。趣里の声と顔、漫画的と言えるほどのこんな顔はみたことなくて、声もすっごい本能に響く声。配信で観たから何回も観ようと思ったけど、それはなんかしなかった。あのシーンはすごい。そしてそれをぼうや役の塚尾桜雅がよくぞ受け、反応している。全くスゴイ。そして相変わらず空が青くて青すぎる。野火の影、男性の弱さの発露と、それをなぜに女性が引き受けなければならんのか。
  • 共振・共鳴する板 太田達成『石がある』

    共振・共鳴する板 太田達成『石がある』

    太田さんとはコロナの流行が全体的に広まっていた2020年の5月に、和田堀公園でのピクニックで初めて会った。それ以来会っていなかったが、先日FILMEXの会場で久々に挨拶できた。『石がある』という映画の構想はそのピクニックの際になんとなく聞いていた。お酒もたっぷり飲んで、さらに二年以上前ということで、FILMEXで声をかけた瞬間に、「あの時言ってた映画だよ~」と教えてくれた太田さん、その一言で友人と何もすることがなく川辺で石拾いをしたこと、石積みをしたこと、良い石があったこと、などを聞いたことを思い出してはいない、これは映画を観て、トークを聞いたから、改めて思い出したことだ、なんとなく聞いたな。

    遊びで木に引っかかったバドミントンのシャトルをラケットを垂直に投げて、何度もトライして、落してくれた太田さんの姿は明確に覚えている。垂直は僕のイメージかもしれない、背の高い太田さん。

    背が高く、かといって特に筋肉質ではなく、細長い、そして笑顔が優しく、よく話を聞いてくれる、そういう人が太田さん以外にももう一人好きな人がいる。自然がよく似合う人、木とか水とか、海というよりも、山とか霧とか森とか川とか、そちらにいることがイメージしやすい人がいる。

    ピクニックの後、人のまばらな駅前の居酒屋に行き、いろいろと話したが、ほとんど覚えていないが、インスタント写真や、ケータイの写真をみると、よく自分が太田さんの横で楽しそう、もっというと懐いている、といった感じで、安心しきっている様子。何か変なことや厚かましいことを言っていないと良いが、とても楽しそうである。映画の話をしたのだと思うが、覚えていない。

    『ブンデスリーガ』をその数日後、まだ下目黒に住んでいたころの自宅でオンラインで観ることができ、その時の感想をフィルマークスに書いて太田さんに送った。やや私は躁状態であったと思う、そのフィルマークスもアカウントを消してしまい、何を書いたか全く覚えていない何か失礼であったり調子に乗っているような文章でなかったことを祈る、自然光の体育館で卓球をしている映像が、今は思い浮かぶ。子どもが印象的、だった気がする。とても素敵な映画、普段観ている映画の良い映画ではなく、自分が好きだと面と向かって世界に言える映画であり、それは太田さんという人間に対しての懐きからもある。個人的な付き合いのある人の映画、芸術作品をその人の印象やその人への感情を抜きにして観ることはできないし、映画を観ている間は監督のことは忘れてしまうだろうが、そのあとには評価の中に必ずその人間性が入ってくるし、それはそういうものとして映画を観ているし期待もしている自分の中では自然なこと、だから人間性と作品は切り離せ、というのは理解はできるが無理がある。

    作品を作る前に、人間であることは間違いないからだ。そこにロマンは、今の私はない、純粋なる芸術への奉仕、自己滅却まではいかなくとも、やや共通の無意識やイデア的なピースには作り手の人間性は薄まるもの、というのも理論的にはわかるが不自然だ。やはり作り手、関わっている人たちがいなかったら作品は生まれない。頭や身体を動かして、協力しながら作られていくもの、圧倒的に実際に「手を動かす」人へのリスペクトが足りなくなるのが資本主義社会であるとしたら、僕は圧倒的に手を動かし、それを主張する人間でありたい。その痕跡をべたべたと塗りたくりつつ、営みを続けていきたい。

    太田さんへの印象、太田さんからの僕への印象、あるいは太田さんの周辺にいるたくさんの人たちから太田さんへの印象、太田さんからその周囲にいるたくさんの人への印象、太田さんからあの川にいたことがあるであろう知らない人達への印象、川への印象、資生堂ギャラリーで最近観た目 [mé]の展示。河川敷から遠くの橋を渡る車の光の移動の映像に、盲目の写真家の人、この人はモノと話せるらしいのだが、の独白がぽつりぽつりと響き渡る。虫の声とかね、一つの車のエンジンの音がどこまで聞こえるかを追ったりしてるとね、など、魂がどんどん自己から離れていくような、そんなことはその人は言っていないが、そういうまっすぐな思いを言葉にできる人だから目の人が依頼したらしいんだけど、そういう普段会社でとか、あまり親しくはない友人とか、若干話をあわせてしまう関係性とかだと言えない、まあ深いとこ、スピってると言われてしまうことをそのまま言えたり、もちろん思うことは自由だけど、実際にそれを誰に向けてか、もちろん聞いてくれて反応があると嬉しいし、もっと深くなれるかもしれないけど、そういう場所として川があるのかもしれない。『石がある』を観た後に飲んだ金子くんもお金もなく、何もすることもないときに川に行っていた時期がある。と言っていた。

    最近よく考えるイメージとして、我々は内に音源も持つスピーカーかつ共振・共鳴装置なのではないかということだ。それは初めて落語を見に行ったとき、人情噺をするおじいさんをみていて、これはとてつもない時間、それは歴史的にもそうだし、なんども繰り返されてきたこのおじいさんの肉体もそうだし、今はいない師匠とか、そこらへんの思いやその人からの期待とかも今現時点でこのおじいさんを通して、そういうものを発生させるものとしてこの人情噺があり、ストーリーとはそのスピーカーに共鳴を起こし、時や場所を超えて何か善いもの、進化とか進歩とは関係のない、ごちゃまぜの網目の中で善いものを起こすものであるのだと理解した瞬間を思い出すのだ。だから、いろいろなものをみたりよんだりきいたりしていくなかで通じ合う、シンクロニシティを感じる、あこれは前にみたこれとつながり、だからこれを今読んでいるのかもな、とそれは共鳴・共振が起こっている。だから引き寄せの法則とかクソだと思うんだけど、決めつけない、自分を規定しすぎないで、ある程度流されてやってくるのを待ちつつ、主体でも客体でもない、中道的な存在として、共鳴・共振したところの、必要性に駆られて何かを書いたり、仕事をしたり、それこそ音楽として表現することを理想としているのだ。それは唯一善い、と言えることかもしれないなとも思う。

    『石がある』は若い女性と中年男性が川で出会い、日が落ちるまで遊び、別れ、またそれぞれの個の生活に帰っていくまでの話だ。アフタートークでただカメラを動かし、ただ川の中で撮っていったというその単純な行動、きっかけも単純で撮りたい、という中に、観る人は全てストーリーを必死に予想し、それぞれの人生の中で獲得された判断材料のもとにこの映画が伝えようとしていることを、その後の飲み会やSNSなどへの書き込みに向けて準備する。滑稽でもあり愛おしくもある我々。

    やはり「なにがしたいんですか?」の問いかけである。あとは日があるうちは平和、夜になると怖いし、終わりは大体つまらない、何か意味やゴールを見出さないと終えられない、いったい全体誰もが誰も何がしたいのかわからないのだ。朝、犬の背中をなでたくなる。下高井戸シネマでみたダミアン・マニヴェルの『日曜日の朝』と『パーク』に強く共鳴した。

    そこに何かが、石があったから何かがはじまり、一つの形として、多くの人が協力、この協力という言葉にはやわらかで朗らかなイメージ、漠然とした良さみたいなものが付きまとうが、そうではないと思うが、それぞれの個がそれぞれの善いと思うことを何故かやり遂げた、過程と結果、過程を重視するということでもなく、その実際の意味するところとかストーリーはやはり後から、そこに共感とかは全くいらないと思っていて、それぞれが共鳴し共振する体験としてあったという記憶、さらに記憶は振るえ続けるから、また別のところ、全く関係のない想いとか、だれかへの優しさだとか、自分がいられる世界を作りたいとか、意外に人は信頼できるとか、意味のない探り合いや人を試すようなことはしたくないよねとか、それぐらいの教訓めいたことでもいい気がする。

    いい映画を観た。これからも観たい。

  • 遠近法のやさしさ マチュー・アマルリック『彼女のいない部屋』

    遠近法のやさしさ マチュー・アマルリック『彼女のいない部屋』

    存在がなくなることは、すぐに、イコールで、即ち、という勢いで「悲しい」こととして思われる。これは主観的にも客観的にも、自分のことでも他人のことでも、誰かが誰かを失った、知っている人が今日死んだ、という文字を驚きをもってみるとき、知人が亡くなった、家族やペットが、というとき、それが自分のことでも他人のことでも、主観と客観が混じっているような、どこか中間で感情が動いているような気がする。傷ついた、怒り、喜び、一般的な悲しさとも違って、どこかが浮いている気がする。

    マチュー・アマルリックは僕の中では、アルノー・デプレシャン『クリスマス・ストーリー』のダメ弟の人である。家族はどれだけ離れていようが事実として家族であり、そこからは逃れられないからこそ、減っていく、失っていくことの事実性もことさらなのだ。どれだけダメな弟でも、家族に対する思いは斜に構えようが、どれだけわかりやすく反発しようが、家族への思いはとても大きい。 

    というところで、なくなったということは、「ありえたかもしれないこと」が無限になるということで、それは産みの喜びが存在・事実、陽であり、失う悲しみが想像・虚構、陰・影の面が強く感じられることと等しい。

    父親に「遠近法の書き方を教えてよ」というセリフが幻想であるとしたら、遠近法とは、単一平面に奥行きを錯覚させ、近くのものを遠くに感じさせる、まさに家族やパートナー、ペット、子ども、昔のパートナーたち、今はいないあの人やその人と、遠近法という錯覚を逆に利用してやれば、「遠いと思っていても実際は近い」ということになる。『LOVE LIFE』でも同様です。快快『コーリング・ユー』も同様です。ここにいないものへ、一方的な問いかけ、断定、自分勝手な全面的享受。 

    想像の爆心地は、もちろん、残された私、である。想像の爆心地は、その勢いゆえに、狂気や具体的な叫びとして、自らのこれまでの安心安全ゾーンのガラスを破り、あたり一面尖った先端の床、そこを一歩、二歩、と歩み出る、そんなときに私がその人をみて、やべえな、とか言わないようにしたい。とてもそう思うのだ。

    想像の爆心地では何もかもが無限の「ありえたかもしれない」の海底の裂け目の熱とそこにしか住めない生物の緩慢で着実な動きとともに動き出すため、マジックが発生する。普通に生きていては見えない聞こえない、触れない、途中でかかるストッパーは故障して下りない。ただし、持続はせず、合間に『無理がある』とこぼす。

    この映画は段々わかってくるんだけど、わからないふりをして、ふりをしつつ本当にわからない、事実はやはり面白くはない、わからないままの曖昧なままの映像の美しさに目をくぎ付けにするといいと思った。事実はやはり面白くない。『もう終わりにしよう。』と同様、最後は事実パートになるが面白くはない。やはり、事実とされるパートは当然ひとつの可能性しかないため、面白くはない。閉じていかざるを得ない映画。

    Rhye – The Fall (Official Video)

    色々問題が出ているらしいライだけど、この感じである。とても好きなMVだ。ここにいない人たちをいつも召喚している人たちもいることだろう。

    誰かを失った人に、想像の爆心地のエネルギーによって、無限の解答が訪れ、その人自身が失われるまでの間、少しでも傷が少なくなると良い。勝手な願いと、勝手な確信と、勝手な断定と、勝手な享受などによって。

  • 理由のなさ VS 近寄りたさ 深田晃司『LOVE LIFE』

    理由のなさ VS 近寄りたさ 深田晃司『LOVE LIFE』

    イタリアに行ったことがない僕にはイタリアに存在したことがない分、イタリアには愛がない、とハッキリ言える。イタリアにはすぐに行けないし、文化も知らない。もしイタリアンカルチャーに精通していてもそれがイタリアへの愛があることには決してならない。実際に歩き、何にも頼らず、情報、それも特別な『旅』要するに『貴重な経験』、要するに『高価なもの』や『ここではない経験』にはスリルやスピードはあれこそ、愛はなし。

    距離が遠いほどに、愛することも理解も難しくなる。

    LOVE LIFEという言葉は「愛すべき人生」とか「人生は驚きと悲しみ、そして愛に満ち溢れている」といった安易なものではないだろう。深田晃司は、ダサい家庭、ダサい人間関係、最近はやっている「どうしようもない人間のありのままを描く」からも、一つ底が抜けてしまったような「しょーもない人間の死に物狂いという地獄を描く」をやる、そして逆照射のように、いきなりパッと、ほんとうに映画らしいというか、ラストが輝くのだ。いきなりパッとは嘘である、あれ、あれれ、おお、おおおお、とかなり漸次的な開かれ方。

    ラブ・ライフはラブ/ライフであり、愛と人生である。切っても切れないコインの表と裏。最近よく思うんだけど、2枚のコインの表同士がピタリと重なっていて、その裏の無限空間に気づかないまま、一生を終える、みたいな人生はすごく悲しい気がする。そのせまーい何にもない空間を『切っても切れない関係』のように思ってしまったり。

    あるいは1枚の紙の夢の話。手に取ると『裏に書いてあることは本当ではない。』と書いてある。裏をみると『裏に書いてあることは本当ではない。』と書いてある。という夢。

    ラブ/ライフの重ならないけど重なる部分、それは理由がない、ということだ。愛も人生も、理由がない。理由があるとそれは単なる差異のための差異となり、他による代替可能なものとなる。その一回性、人生はわかりやすいが、愛も、一回一回の一回性こそが愛である。「かけがえのない」ということはエモーショナルな雰囲気を排したときに、ようやく本当の姿を現す。

    理由のない、不幸としかいえない出来事、それはほとんど呪いのように思えるし、実際その呪詛の告白もあった。かつ理由もなく「なんとなくですけどね」の光がある事件を作ったり。

    光は障害がなければどこまでも飛んでいく。そこに意思があろうとなかろうとそうなってしまう。目線はどうか?見なければ見えないのだ。音はどうか?聞かなくても聞こえてくるし、目の光を確認せずとも、意識があろうとなかろうと「思いもしない言葉」「音によって、別の音が聞こえなくなる」など不確定が多い。

    そんな不安定さの中で、ギリギリ動き合って影響しあっている我々。自分対世界、世界が悪い!と狭いコインの隙間から自分の顔ばかり見て、あるいは、不確定、カオスの方向に全振りするような、あるいは皮肉をオルタナと取り違えるか。

    相手や生活という対象の諸条件やセンス、過去、属性などに因らない、なぜこうなのか?という状態のまま「知らない」相手や人生と過ごすことを受け入れること。受け入れるだけではなく、「どうしても近づきたい」として、「こっちみて、よし」。そこからの散歩!

    そのかけがえのなさを経験し、体感することは、何か二重否定による真実に似ている。

    改めて、韓国の終わっている結婚式のダンスは、ひとつのパーティの理想形である。これは見もの、そのあとの流れも、これは見もの。好きだぜ深田さん、メーテレさん。

    あとトモロヲさん。

    『名建築で昼食を』で各建築への池田エライザのアドリブコメントを「うん…」「そうだね…」、あるいは「ッ…」のような返答で私の心をざわつかせてくれる。この人はかなり透明だ。

  • 実は誰もが間違えるはずはない 多和田葉子『地球にちりばめられて』

    実は誰もが間違えるはずはない 多和田葉子『地球にちりばめられて』

    小さいころからあまり話すことが苦手というか、特に話したくない人と話すことが思いつかないのが、今も変わらずである。コミュニケーション能力は、話したいとき、話すことがあるとき、どうしてもあふれ出すことを止められず、ドロッと、ビシャッと、ふんわりと、あらゆる形と、その思いに適切な形を選んで、瞬発的に出ることをさす。

    それ以外の場合は、普遍的な社会的なコミュニケーション、不特定多数とのコミュニケーション、実は全員が、周到に準備をしている、実は全員が言いたくもないことを、ほとんどの人は性格が良く、そのため正確を期するため、実は全員が準備しすぎて疲れている。あるいは真逆に、何も言わないことを強いられる空間で、「ツッコミ」すらできず、息の行き場を失い窒息している。

    疲れているか、窒息しているか。実はそうなのである。

    とってもいいことが思いついたりして、あれしてみようか、こうしてみようか、ちょっとクリエイティブな気持ちになったりして、そういうときにおばさんにプールで話しかけられたりして、「はい?ああ、確かに、不思議な泳ぎ方してますねえ」と好青年をしてなんとなくいい気分になったり、しかしそのおばさんはあらゆる人に話しかけていたのだ、実のところ。それもちょっと迷惑そうな感じで…。

    hirukoとsusanoo、どちらも追放された人たちである。ひらがなでもカタカナでも漢字でもないアルファベット表記の二人は失われた日の国、大和の国出身。偶然と絶対を生まれつきそなえる異形・奇形と、従うことのできないまま行先を探すリビドー。

    小さいころに読み聞かせられ、テレビでみたり、大人になってからも好奇心のわく、昔話・物語はなんのためにあるのか?というところにとても喜ばされた。誰もが間違えるはずがないのだ。どこかで会った気のする人とは勝手に話が進んでいくはずなのだ。

    共通する知人がいない、「あいつ、元気にしてるかねえ」ができない場合の解決策は真理をついている。あと嘘は嘘をつかれる時点では嘘ではない、未来がある限り嘘は嘘になれないというのも真理である。

    対称性、集合的無意識、感性の網目の中で、親友はいつも全ての自分たちを受け入れ続けている。それが可能性とか未来というものである。

  • 気持ちのよろしい『リコリス・ピザ』

    気持ちのよろしい『リコリス・ピザ』

    最近は仕事も落ち着いている日が多く、仕事とはなんぞやと思う。休みと平日の境目をなくしていくことでダイエットを継続することが可能だ。

    やっぱりこの日も暇で、昨日は新宿で『わたしは最悪。』という、何もないスレッカラシの映画を観た、この映画は一体なんなのか、瀬戸内寂聴物語、失楽園ブームの再来なのか、スレッカラシであった、好き放題ふるまうのも好き好きだか、節操ねえバカはどうしようもない。

    なので今日は日比谷だ、とシネシャンテに朝から向かう。日比谷はいいね、地下鉄からシャンテに直結、しかし、わかってはいるものの、シャンテにシネシャンテはないのだ。しかし、もしかして?という気持ちからシャンテから出る、晴れている、ビルの間に雲と太陽。晴れてる。

    シネシャンテの平日朝の会は年齢層が高い、居心地がいい、PTAの映画はコメディだ、際物たちの人間性、破綻した人間性の、主に悲しみを描くコメディだから、おじいさんと一緒に、ツボが一緒のおじいさんと一緒に笑った、同じ個所で。

    ハイムである。この人達のバンドはめちゃくちゃ有名らしいが、なぜなのか。いつも不思議だ。立ち振る舞いだろうか。クラフトジンを作る三姉妹もいる、クローバージンは要チェックである。クラフトジンのHAIMである。

    ハイムの三女が主役で、フィリップ・シーモア・ホフマンの息子クーパー・ホフマンも主役。このクーパー演じる主人公が、PTA特有の”カリスマ”である。私はカリスマ的な人と出会ったことはまだないが、PTAの映画で、”カリスマ”とはこういう雰囲気、なんでもやっちゃう雰囲気とどうしようもなさを100%体現する人だと感じる。最近好きなジェシー・プレモンス(『もう終わりにしよう』のハマり度が最高)のもつ朴訥さと鷹揚さを持っている、曲者クーパー・ホフマン。

    ハイムの人も良かった、セレブリティとは思えない感じ、セレブリティってなんだよ、とか思ってそうな感じもある。インタビューもちょっと抜けてる感じだ。「次は『ワイルド・スピード』かしら。」みたいな。

    ハイムのアラナ・ハイム、リアルファミリーネームをバンド名にするのめちゃくちゃいい。両親も出演、誇らしくてたまらないだろう。アラナがトラックをバックで操縦するシーンが格別、新しい、新鮮、みたことない、示唆的、滑らかな曲芸、ハードコアだ!と主人公のカリスマバカが喜ぶが、そこでもういやだってなるのが最高。

    PTAの芸能人、セレブは狂っている、ギンギンな勃起的狂気を演じるけど、それに対して、空気の抜けたようなカーアクション、いなし、流れを読み、方向性だけ与える力、いったん坂の踊り場でぐっと方向転換するときの気持ちよさ、これを『女性的な力』と仮に置こう(性別の女性とは無関係)。踊り場に乗り上げ、さらにエンジンで坂を登り詰め、ギンギンするのではなく、ひゅるりと流し、正しい位置に停まるための。

    なんだか気持ちがいいのだ、時代も駄目さもすべて置いておこう、おそらく長くは続かないであろう、いろいろな恋愛の『失敗』を思い出し、よかったのだ、と一方的に思える。

  • 意味から存在へ、眠る方法 『プティ・カンカン2:/クワンクワンと人間でないモノたち』、『MEMORIA』、『名付けようのない踊り』

    意味から存在へ、眠る方法 『プティ・カンカン2:/クワンクワンと人間でないモノたち』、『MEMORIA』、『名付けようのない踊り』

    好きな映画監督、本当に好きな監督はそうそういなくていい。ブリュノ・デュモンとチャン・リュルと何度も言おう。好きだから応援することで次回作が生きている間に観れるから何度も言うべきだ。とても慎重に、だらだらと観れる映画が好き。非常に他とは違うことを、違うことを大事にする。もう絶対にそうする。同じことはつまらないから、辺境に存在する。辺境の意味を考えない。

    牛糞のようなべとべとが落ちてくる映画、”くそったれ”の空の映画である。

    目黒シネマでこの前観た、『名付けようのない踊り』の中で使われる、田中泯が歌う『皆殺しの青空』である。

    いい曲である。空があったら、必ず雲や鳥がいる。水鳥、カモメなど。それは想像の記憶の、場の記憶というものだ。座るだけでなんかいろんな気分になる椅子がある。石がある。

    空からベトベトが降ってきて、他人が増殖する、自分がもう一人存在し行動しているのを目の前にしたら、それは世界の終わりを感じるだろう。

    何が好きかというと、破綻しているから、当たり前を疑う、普通って何?、と書くと、言葉にするとすべて陳腐なものになるが、当たり前って何?なのだ。昼間から映画を観るのが当たり前ではない。お金を稼ぐために、生活するためには、破綻は許されない。

    うまくしゃべることから逃げてきた人生である。フリューエントな喋り、大体信用しなくていい。破綻したこと、ここでいう破綻は、ただ破綻という言葉の持つイメージではない、カオスがカオスでないように、もうどうにでもなれ、というものではなく、埋もれた土。階段の隅の日が当たらないところに身体をうずくめる踊りだ。

    皆殺しの青空、パンチがあるな。笑いそうになるが笑わない。『MEMORIA』も観たがとてもいい雰囲気の続く映画だ。怖かったが。いつくるのか?という意識の持続はとてもリアルで、実際の体験としてそうなっているところがアートとしてわかりやすく体感できる。舞台、再現システムとしてのアート映画。アート映画て。となりに来たカップル、丁寧におれは『大阪』を読んでいた予告前。「ここに座らせてもらおうか」と内側にふたり、足元の水筒が倒れないか一瞬思ったが、それとなくカップルは普通に入っていった。その男。音の映画の、音の原因?ネタバレである部分、たしかにあそこは笑いそうになるが、笑わない。その証拠に男以外誰も笑っていないだろう、その笑いはなんだ?怖かったんだろうな。たぶんそう、その証拠に彼は二回も笑った、ふふん、と二回も。俺は忘れないぞ、笑いは超越、カオスから規律への回収、日常への軽い取り込み。アートをものともしないタイプ。

    くそったれの空である。

    『MEMORIA』は小粒な自分を思った。無限回の半睡眠と映像の繰り返しでたどり着いた感想、ただの自分は、ただの人間は、ただの存在は、ひらがなの例えば「あ」でも「お」でもいいんですけど、なんでもいい、それくらいの音の印象くらいのものに代替できる気がする。ということ。かけがえのないものとして命が扱われすぎる、それは規律であり、気持ちがいい、とても正しいが、どうでもいい、もっと離れられないかとも思う。思わないとそれはかけがえのない命!とするだけでは、本当の意味では誰もが死にたくない、寿命を延ばし続けると思う。それはかなり間違っている。どれだけお金を稼いでも死ねないようになる。

    私というもの、正しいこと、間違っていないことに対する、確かな死。映画を観ている間、確かにほとんど死んでいた自分が。ひらがな、アルファベット、音楽のここがなぜか好き。響きとしての生命、仮にそれがひらがなの一文字であってもいいなと思えた。

    ブリュノ・デュモンの映画には障害を持つ、脳性マヒなのか、いろいろな動き、それぞれの個別の動きや話し方、ほとんど話せない人も何度もでてくる。主人公は鼻がつぶれている、補聴器らしいものもつけている。quin quinからCoin Coinに名前が変わる。車はまっすぐ走らないし、無駄しかない、無免許運転で、それはメジャーな映画を斜にみる。キスシーンはガムのくちゃくちゃと同期する。しかし、バカみたいに純粋な愛がでてきたり、とても大事なことが二つだけバカな警察、警察じゃないなんとか、国家公安のものから言われる。

    大事なことは代替可能であることである気がする。そこにしかかけがえのないことはあり得ない。他でもないこの話し方、この座り方、歩き方、運転、表現、伝え方、やるべきと思ってやること、どうしてもできないこと、それらが、一つの音や石や動き、田中泯のあっち側までいきそうになる、だけど幸せである、そのギリギリの状態でいることが生きること。当たり前のことであるが、全く素晴らしくも大事でもない、ただそれだけのこと以上の意味や分析はクソ。絶えず計り知れん動き、その次の意識などに曝露していること。

    不眠は自分を「かけがえのない自分」と思うことで、どうしても手放せないことから起こるとのこと。内田樹と三砂ちづるの往復書簡、「第10回 「ものすごく気持ちの良いこと」を経験した強さ」はとても面白い。

    寝る前はよくわからないがよくわかる本がいい。眠くなる。自分から離れ、どうでもいいことを言う、フェルナンド・ペソアを最近はよんでいる。

     理解するために、私は自分自身を破壊した。理解することは、愛することを忘れることだ。レオナルド・ダ・ヴィンチは「人は理解した後でしか、愛したり憎んだりはしない」と言ったが、この言葉ほど嘘であると同時に意義深い言葉を私は知らない。
    
     孤独は私を絶望に追いやるが、他人といるのは気が重い。他人の存在は私の考えをそらしてしまう。私は、特別な気晴らしを感じながら他人の存在を夢見るが、その仕方は分析的に定義することはできない。
    
    (フェルナンド・ペソア,『【新編】不穏の書、断章』,平凡社ライブラリー,2013,217ページ)
  • ブリュノ・デュモンの徹底的な信頼と実験

    ブリュノ・デュモンの徹底的な信頼と実験

    日記によると、2021/12/17、18にユーロスペースにて『ジャネット』と『ジャンヌ』を観ている。その時の感想、17日「『ジャネット』の良さよ。キメ。真顔でふざける。いつだって。」18日「『ジャンヌ』の苦しさよ。空しさよ。」この日は原宿のキンセラとTOXGOにも行ったみたいだ。

    ブリュノ・デュモンはとても好き。ジャネットを観て、すぐに好きパンフを読んでもっと好きに。真面目だから。

    JAIHOで『プティ・カンカン』と『スラック・ベイ』も追って観た。人物が良い。人物の良さを、笑える範囲で誇張、誇張ではない、たぶんそのまま出す演出をする。たまに誇張する。それが、人を嘲笑うような奇妙な露悪であるのでなく、シニカルでもなく、ただその姿や志向、その個人にしかない、「どうしてもそうなってしまう」というところ。もっとも完璧にあるためには、ただ存在すればいい。というようなもの。信頼というと輝かしいが、そんなものではない、信頼と実験、面白がることは何も悪くない、相手がいる世界では当たり前に発露されるべき行為である。

    どんな人間も、面白い。ある意味、こちらの酒の飲み方にかかっている。

    歌声、話す声、身体の、筋肉の動きは、その人にしかなく、一回しか同じ動きはない、その意味でまったく、自然と同じであり、同じく、神の表現の一つの形態であることは頭では理解できる。

    歌声は死んでも忘れないし、電話の声は死ぬまで変わらない。

    6/5にマキ、マリカ、吉岡さんと下高井戸シネマにて、『ジャネット』を観る。二回観るもんではないな、と思いながら、これ、面白いかな?みんな楽しんでいるかな?と不安なまま観ていた。

    みんなそれなりに面白くみていたみたい。それでよかった。