月: 2022年9月

  • 遠近法のやさしさ マチュー・アマルリック『彼女のいない部屋』

    遠近法のやさしさ マチュー・アマルリック『彼女のいない部屋』

    存在がなくなることは、すぐに、イコールで、即ち、という勢いで「悲しい」こととして思われる。これは主観的にも客観的にも、自分のことでも他人のことでも、誰かが誰かを失った、知っている人が今日死んだ、という文字を驚きをもってみるとき、知人が亡くなった、家族やペットが、というとき、それが自分のことでも他人のことでも、主観と客観が混じっているような、どこか中間で感情が動いているような気がする。傷ついた、怒り、喜び、一般的な悲しさとも違って、どこかが浮いている気がする。

    マチュー・アマルリックは僕の中では、アルノー・デプレシャン『クリスマス・ストーリー』のダメ弟の人である。家族はどれだけ離れていようが事実として家族であり、そこからは逃れられないからこそ、減っていく、失っていくことの事実性もことさらなのだ。どれだけダメな弟でも、家族に対する思いは斜に構えようが、どれだけわかりやすく反発しようが、家族への思いはとても大きい。 

    というところで、なくなったということは、「ありえたかもしれないこと」が無限になるということで、それは産みの喜びが存在・事実、陽であり、失う悲しみが想像・虚構、陰・影の面が強く感じられることと等しい。

    父親に「遠近法の書き方を教えてよ」というセリフが幻想であるとしたら、遠近法とは、単一平面に奥行きを錯覚させ、近くのものを遠くに感じさせる、まさに家族やパートナー、ペット、子ども、昔のパートナーたち、今はいないあの人やその人と、遠近法という錯覚を逆に利用してやれば、「遠いと思っていても実際は近い」ということになる。『LOVE LIFE』でも同様です。快快『コーリング・ユー』も同様です。ここにいないものへ、一方的な問いかけ、断定、自分勝手な全面的享受。 

    想像の爆心地は、もちろん、残された私、である。想像の爆心地は、その勢いゆえに、狂気や具体的な叫びとして、自らのこれまでの安心安全ゾーンのガラスを破り、あたり一面尖った先端の床、そこを一歩、二歩、と歩み出る、そんなときに私がその人をみて、やべえな、とか言わないようにしたい。とてもそう思うのだ。

    想像の爆心地では何もかもが無限の「ありえたかもしれない」の海底の裂け目の熱とそこにしか住めない生物の緩慢で着実な動きとともに動き出すため、マジックが発生する。普通に生きていては見えない聞こえない、触れない、途中でかかるストッパーは故障して下りない。ただし、持続はせず、合間に『無理がある』とこぼす。

    この映画は段々わかってくるんだけど、わからないふりをして、ふりをしつつ本当にわからない、事実はやはり面白くはない、わからないままの曖昧なままの映像の美しさに目をくぎ付けにするといいと思った。事実はやはり面白くない。『もう終わりにしよう。』と同様、最後は事実パートになるが面白くはない。やはり、事実とされるパートは当然ひとつの可能性しかないため、面白くはない。閉じていかざるを得ない映画。

    Rhye – The Fall (Official Video)

    色々問題が出ているらしいライだけど、この感じである。とても好きなMVだ。ここにいない人たちをいつも召喚している人たちもいることだろう。

    誰かを失った人に、想像の爆心地のエネルギーによって、無限の解答が訪れ、その人自身が失われるまでの間、少しでも傷が少なくなると良い。勝手な願いと、勝手な確信と、勝手な断定と、勝手な享受などによって。

  • 理由のなさ VS 近寄りたさ 深田晃司『LOVE LIFE』

    理由のなさ VS 近寄りたさ 深田晃司『LOVE LIFE』

    イタリアに行ったことがない僕にはイタリアに存在したことがない分、イタリアには愛がない、とハッキリ言える。イタリアにはすぐに行けないし、文化も知らない。もしイタリアンカルチャーに精通していてもそれがイタリアへの愛があることには決してならない。実際に歩き、何にも頼らず、情報、それも特別な『旅』要するに『貴重な経験』、要するに『高価なもの』や『ここではない経験』にはスリルやスピードはあれこそ、愛はなし。

    距離が遠いほどに、愛することも理解も難しくなる。

    LOVE LIFEという言葉は「愛すべき人生」とか「人生は驚きと悲しみ、そして愛に満ち溢れている」といった安易なものではないだろう。深田晃司は、ダサい家庭、ダサい人間関係、最近はやっている「どうしようもない人間のありのままを描く」からも、一つ底が抜けてしまったような「しょーもない人間の死に物狂いという地獄を描く」をやる、そして逆照射のように、いきなりパッと、ほんとうに映画らしいというか、ラストが輝くのだ。いきなりパッとは嘘である、あれ、あれれ、おお、おおおお、とかなり漸次的な開かれ方。

    ラブ・ライフはラブ/ライフであり、愛と人生である。切っても切れないコインの表と裏。最近よく思うんだけど、2枚のコインの表同士がピタリと重なっていて、その裏の無限空間に気づかないまま、一生を終える、みたいな人生はすごく悲しい気がする。そのせまーい何にもない空間を『切っても切れない関係』のように思ってしまったり。

    あるいは1枚の紙の夢の話。手に取ると『裏に書いてあることは本当ではない。』と書いてある。裏をみると『裏に書いてあることは本当ではない。』と書いてある。という夢。

    ラブ/ライフの重ならないけど重なる部分、それは理由がない、ということだ。愛も人生も、理由がない。理由があるとそれは単なる差異のための差異となり、他による代替可能なものとなる。その一回性、人生はわかりやすいが、愛も、一回一回の一回性こそが愛である。「かけがえのない」ということはエモーショナルな雰囲気を排したときに、ようやく本当の姿を現す。

    理由のない、不幸としかいえない出来事、それはほとんど呪いのように思えるし、実際その呪詛の告白もあった。かつ理由もなく「なんとなくですけどね」の光がある事件を作ったり。

    光は障害がなければどこまでも飛んでいく。そこに意思があろうとなかろうとそうなってしまう。目線はどうか?見なければ見えないのだ。音はどうか?聞かなくても聞こえてくるし、目の光を確認せずとも、意識があろうとなかろうと「思いもしない言葉」「音によって、別の音が聞こえなくなる」など不確定が多い。

    そんな不安定さの中で、ギリギリ動き合って影響しあっている我々。自分対世界、世界が悪い!と狭いコインの隙間から自分の顔ばかり見て、あるいは、不確定、カオスの方向に全振りするような、あるいは皮肉をオルタナと取り違えるか。

    相手や生活という対象の諸条件やセンス、過去、属性などに因らない、なぜこうなのか?という状態のまま「知らない」相手や人生と過ごすことを受け入れること。受け入れるだけではなく、「どうしても近づきたい」として、「こっちみて、よし」。そこからの散歩!

    そのかけがえのなさを経験し、体感することは、何か二重否定による真実に似ている。

    改めて、韓国の終わっている結婚式のダンスは、ひとつのパーティの理想形である。これは見もの、そのあとの流れも、これは見もの。好きだぜ深田さん、メーテレさん。

    あとトモロヲさん。

    『名建築で昼食を』で各建築への池田エライザのアドリブコメントを「うん…」「そうだね…」、あるいは「ッ…」のような返答で私の心をざわつかせてくれる。この人はかなり透明だ。

  • 実は誰もが間違えるはずはない 多和田葉子『地球にちりばめられて』

    実は誰もが間違えるはずはない 多和田葉子『地球にちりばめられて』

    小さいころからあまり話すことが苦手というか、特に話したくない人と話すことが思いつかないのが、今も変わらずである。コミュニケーション能力は、話したいとき、話すことがあるとき、どうしてもあふれ出すことを止められず、ドロッと、ビシャッと、ふんわりと、あらゆる形と、その思いに適切な形を選んで、瞬発的に出ることをさす。

    それ以外の場合は、普遍的な社会的なコミュニケーション、不特定多数とのコミュニケーション、実は全員が、周到に準備をしている、実は全員が言いたくもないことを、ほとんどの人は性格が良く、そのため正確を期するため、実は全員が準備しすぎて疲れている。あるいは真逆に、何も言わないことを強いられる空間で、「ツッコミ」すらできず、息の行き場を失い窒息している。

    疲れているか、窒息しているか。実はそうなのである。

    とってもいいことが思いついたりして、あれしてみようか、こうしてみようか、ちょっとクリエイティブな気持ちになったりして、そういうときにおばさんにプールで話しかけられたりして、「はい?ああ、確かに、不思議な泳ぎ方してますねえ」と好青年をしてなんとなくいい気分になったり、しかしそのおばさんはあらゆる人に話しかけていたのだ、実のところ。それもちょっと迷惑そうな感じで…。

    hirukoとsusanoo、どちらも追放された人たちである。ひらがなでもカタカナでも漢字でもないアルファベット表記の二人は失われた日の国、大和の国出身。偶然と絶対を生まれつきそなえる異形・奇形と、従うことのできないまま行先を探すリビドー。

    小さいころに読み聞かせられ、テレビでみたり、大人になってからも好奇心のわく、昔話・物語はなんのためにあるのか?というところにとても喜ばされた。誰もが間違えるはずがないのだ。どこかで会った気のする人とは勝手に話が進んでいくはずなのだ。

    共通する知人がいない、「あいつ、元気にしてるかねえ」ができない場合の解決策は真理をついている。あと嘘は嘘をつかれる時点では嘘ではない、未来がある限り嘘は嘘になれないというのも真理である。

    対称性、集合的無意識、感性の網目の中で、親友はいつも全ての自分たちを受け入れ続けている。それが可能性とか未来というものである。