実は誰もが間違えるはずはない 多和田葉子『地球にちりばめられて』

小さいころからあまり話すことが苦手というか、特に話したくない人と話すことが思いつかないのが、今も変わらずである。コミュニケーション能力は、話したいとき、話すことがあるとき、どうしてもあふれ出すことを止められず、ドロッと、ビシャッと、ふんわりと、あらゆる形と、その思いに適切な形を選んで、瞬発的に出ることをさす。

それ以外の場合は、普遍的な社会的なコミュニケーション、不特定多数とのコミュニケーション、実は全員が、周到に準備をしている、実は全員が言いたくもないことを、ほとんどの人は性格が良く、そのため正確を期するため、実は全員が準備しすぎて疲れている。あるいは真逆に、何も言わないことを強いられる空間で、「ツッコミ」すらできず、息の行き場を失い窒息している。

疲れているか、窒息しているか。実はそうなのである。

とってもいいことが思いついたりして、あれしてみようか、こうしてみようか、ちょっとクリエイティブな気持ちになったりして、そういうときにおばさんにプールで話しかけられたりして、「はい?ああ、確かに、不思議な泳ぎ方してますねえ」と好青年をしてなんとなくいい気分になったり、しかしそのおばさんはあらゆる人に話しかけていたのだ、実のところ。それもちょっと迷惑そうな感じで…。

hirukoとsusanoo、どちらも追放された人たちである。ひらがなでもカタカナでも漢字でもないアルファベット表記の二人は失われた日の国、大和の国出身。偶然と絶対を生まれつきそなえる異形・奇形と、従うことのできないまま行先を探すリビドー。

小さいころに読み聞かせられ、テレビでみたり、大人になってからも好奇心のわく、昔話・物語はなんのためにあるのか?というところにとても喜ばされた。誰もが間違えるはずがないのだ。どこかで会った気のする人とは勝手に話が進んでいくはずなのだ。

共通する知人がいない、「あいつ、元気にしてるかねえ」ができない場合の解決策は真理をついている。あと嘘は嘘をつかれる時点では嘘ではない、未来がある限り嘘は嘘になれないというのも真理である。

対称性、集合的無意識、感性の網目の中で、親友はいつも全ての自分たちを受け入れ続けている。それが可能性とか未来というものである。

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