投稿者: akiospirit

  • 飴を舐める

    飴を舐める

    苦労を知らない奴はダメ・成長しない、弱さを知らないと強くなれない、健全な精神は健全な肉体に宿る、このような〇〇という条件を満たさないと〇〇という(善い)状態にはなれない、という説教臭さがとっても嫌いだから、実際のところはとっても大好きなのだろう。昔から言われてきた統計だから、占いって統計だから、とか一年目はまずは失敗してもいいからやってみることから、とか自分でも言ってて「これは全く借りてきたような言葉だなぁ」としっかり認識しながらそれでも構わず話していることが時々、いや頻度はわからない、頻度というものもそれをどの期間で切るのかで変わってくるからその頻度を使うカテゴリの共通の認識がある場面や対象にしかこの頻度という言葉は前提として使えないものだ。その背負いを「頻度」にだけあげるのは可愛そうである。どの言葉だってそう、そんなこととは全く無縁である、といった「普遍」という言葉にもこの前提は気づかない程度に実は産まれてこの方あり続けている肩こりのようなものと同じようにその存在は忘れられている、というか「前提」という言葉自体にはこのフックはかかってこない、唯一の逃げ場を持っているのか。言葉は全て、その他の全ての言葉を背負って、自分自身からは唯一の逃げ場だけ確保して、いつもやっているのか。そうか。みんなすごく偉いと思う。そういう意味においては言葉は人間である。

    なぜ言葉は人間であるのか?ではなく、何が言葉であり人間なのか?という池田晶子的問いの立て方に倣えばみえてくることもある気がする。「何」というこの真空地点。真っ白かつ真っ黒で、伸び縮み自在な〇〇。存在したり、存在しなかったりを繰り返し、成長したり衰えたり、意味や概要を変え、しかし一定に保つ部分も持ち合わせている。仮にこれをひとつの「飴」としてみよう。何を隠そう、私は飴である。飴が飴を求めるのは畢竟、私を私で包み込む(口に含む)とそういう矛盾に落ち着きを感じたいからなのだろう。外側と内側、外側と外側で、内側と内側で、あらゆる向きと長さと強さとに引き裂かれつつある私個人としては、自分の内側で、自分という存在を舌でたしかに確かめつつ、味や香り、その感触などを愉しんでいる。最も良いのは「内側で小さくなっていくのを見届けられる」ことだ。唾液やその他気温やスピードなど、制御できること・制御できないことは様々絡み合うが、そんなことは自分の口の中くらい、置いておいていいと思う。自分なりのペースで、その終いのときまでカロカロカロカロとやっていられること。だからといって終わっても悲しさややるせなさ、取り戻しようもないという目から光が失われ、景色も音も椅子も食べ物もしっかりと感じられていながらも何も感じていない状態(それをあまりない状況として楽しんでいるかのよう、とも思える)には全然ならない。新幹線からの夕日、全く感傷的である。ナンニ・モレッティの『息子の部屋』はかなり良かった。その映画の遊園地のような状態になりたくないできるだけ。その後の棺桶はんだ付けもかなり面白かった。

    かといって飴が終わった瞬間のこと、その瞬間に何が起きているのか?ということに意識は向かったことはない。なくなりかけの角張りシャリシャリし始めた飴は意識するのは容易い。しかし消えたときには今まさに飴を舐めていて、今舐め終わったのだなぁと感慨に耽ることもなし、向かい合って座った人の目に私はどのように映りどのように感ぜられ、威圧感、その足の開き方は俺を威圧しているだろう…、とかなんやらに思考の面積(ガチエリア)を奪われ座を渡し席を譲る。私は思考のガチエリア確保の各要素ではなく、飴らしくありたいものだ。どこにも代替できないような確かな感触を与えた割には、そんなことあったっけ?とすっかり忘れて他へと受け渡すような在り方。舐められてナンボ、という一言でもいいくらいである。

    私の好きな飴

    • ロッテ のど飴:飴と言えばカリンののど飴。これは直方体の角の感触が本当に充実感がある。満たされる。カドケシという消しゴムの角感だけを味わえる消しゴムがあったが、それはないだろう、と思う。角はなくなるから角である良さがあるだろう。
    • 大正製薬ヴイックスのど飴󠄀プラス ハーバルミントパウダー:あんまし売ってない、ドラッグストアで見かけたら買うべし。ネットでわざわざ飴なんてもんは買うもんではないから。こいつもまた、舌触り、口腔あたりがとてもいい。ハーバルパウダーのサラサラ感は他では味わえず、さらにその下のつるつるが通常以上につるつるに感じられてよい。早く食べたい。たまに見かけたら買ってる。
    • UHA味覚糖 e-maのど飴:定番。ただし、すぐにカリッとなるのはいただけない。もう少しツルツルしていたいといつも思う。
    • UHA味覚糖 純露:UHAは強い。こちらは独特のダイヤの角錐形状でカロカロ系。ノーマルなべっこうに加え、紅茶味がまじで完璧。ちょっと文化系な香りがする。純喫茶が好きな人にあげたら絶対に喜ぶであろう。ずっと昔に紅茶味だけの純露を出して欲しいとツイートした。
    • Ricola レモンミントハーブキャンディー:カルディなど輸入食品系のお店などでどこでも買える。銀座エルメスの映画館で入場時にひとつもらえて最高だと思った。今も貰えるのだろうか。それをぱくってバンドのワンマンイベントでも入場時に配った。みんながこの飴を舐めれば過ごしやすくなるだろう。
    • ロマンス製菓 塩べっこう飴:KINOKUNIYAで最近購入。イタリア・シチリア島産の岩塩がべっこうの色の中にゴロゴロと入っている。錬金術である。ベストヒット。

    こういった飴を家から出る前に口に放り込み、各バッグのポケットにはだいたい飴が入っている。特に電車に乗るときは飴を舐めるのが良い。思考を飴に変えればよい。

  • 写真でその時を振り返る

    ホームページの見た目を変えたことで新しくやりたい事や書きたい事などが増える気がしている。名は体を表すというが、体は中身を作り名前すらも変えてしまうことがあるだろう、私はそのような思考の姿勢を保っていたいと思う。ひとつの権力がその後ろや下、この前や上の方が素敵、正しい、目指すべき方向、ということにずっと違和感を持っていたいと思うのだ。実際的な位置関係、ポジションというのは実際的にあると思う、上司・先輩、取引先の人、親、店長、初めて行く店の常連、過去の作品、アイデアをはじめにつくった人(これは微妙かも)など。ただしそれに追従しなければならないとか、そこから必ず学ばなければいけないとか、評価を受ける側として振る舞わなければいけないという緊張感を本当は全て取っ払うことができたらよい。本当のことを言うと、その権威的なポジションに事実・実際なっている人がそこのところを十全に意識するべきなのである。初心を忘れずとか、いつも新しい気持ちで向き合っています!とか、そんなのはきれいごとでしかないから、自分がもしそういう立場になるとしたらその取っ払いだけは約束したい、固い決意として今ここに刻む。心の粘土板、石板の一番上の層、ここでも上下がでてくるが石板や粘土板(粘土板は割れるからここではなかったことにしよう)、石板に刻まれた文字に上に書くとき削られていく、重さがゼロになって舞い飛んでいく、あるいはどこか別の場所に蓄積したり別と混ざり合い、全く気付かない内に「他のもの」として存在してしまっている(しまっている、と書いたがポジティブな意味で、ポジティブな意味で?)ような、あえてここでいうが、そのような権力でありたい。

    終わるまではすべてが永遠: 崩壊を巡るいくつかの欠片』を読み進めているのだが、私はなんとなーく反出生主義者である、というかそういう風に言われている人達が書いている言葉を読むとすごく静かに救われる気持ちになる、朝半身浴をしながら、夜眠る前に、そういう言葉、この本で引用される言葉やエピソード、作者の見解にふれることで、当然そこには自分自身の再確認も含まれるのだが、それにとどまらずこれまでにつながらなかったこと、考えが及ばなかったことについて触手が伸びていく気がする。伸びた分、リーチした先の動かせる範囲の暗い部分にあたるもの、それが「知らない」という世界の喜びであると思う。成長や生産性を求める(どうやら本気で求めているようだ)人々は確かにいるし、人間が人間になったのはこの飽くなき生産と消費のサイクルをやれるやつがやりまくっていいんだ!という快感から始まっているから当然そいつらは力を持つし権力ももつし、頭もよいし、金もある。人間が消えない限りこれは絶対に変わらない、とありきたりなことをもう一度思う。自分もこの一員として金を稼ぎ、金を使う楽しさを十分すぎるほどに享受している。晶文社スクラップブックの難波優輝『批判的日常美学について』の連載がとても面白い。2回まで今あるが、どちらもめちゃくちゃ面白い。

    というところでこのホームページが画像をぱっと見せない方向にしたので、こういう本文の中で今後撮った写真を使おうと思うのだ。アイキャッチは普通に表示されているみたいだが。

    これはこのホームページの下にも小さく載せているのだが、今思ったのだが、自分の空き地を作るようで、場所を作るようでホームページというのは非常に何らかの癒しにつながるということ。実際の場所を作り活動をしているアキサトはとてもいいことをしていると前から思う。酔っぱらってアキサトに電話をかけても最近は全くとってくれないが、取ってくれたところで実際に話すことは特にないだろうから、そもそも電話をかけるなよ、という話である。さて、この写真は近所の公園にある鉄棒のポールである。仕事の合間に長めの散歩をするのだが、その際にある場所。この近くには小さな商店街もあり、牛肉コロッケやリースを買ったりしたりするだけで私はとてもいい気分になる。商業的ではないところが本当に末永く、人類が終わりを迎えるまで残ってほしいと勝手に強く願う。願うことはとても勝手な行為であるから、あまり重きを置かないでおこうとも思う。柵越しに、これは夕方なのか曇りなのか、やや暗いのはフラッシュをたいたからであるな、普通に晴天の日だった記憶があるが定かではない、フラッシュはある種権力と搾取。写真を撮ることも同様。シマウマやレオパードの柄がみえるシマウマがレオパードを挟む、肉食と草食の記号を公園の遊具に巻くセンスがわからない、わからないことが写真を撮るひとつの理由になるはずだ。そしてこれは結構遠くから撮っていることもわかる、手前の柵の目の大きさからレンズを望遠に、柵に近づいてとったのだろう。この遊具で遊んだことはなく、ただただ見るだけになるので肉体的な感覚はなく、かなり表面的なふれあいだし遠い、遊具への遠さも感じる。自分は小さいころ母親と長い散歩をして川もわたり、野を通り抜け、川は渡っていないこれは単なる理想であった。砂場でブルドーザーのおもちゃを楽しむ記憶があるが、小さいころの自分の像がそこに対象としてあるからこれもまた写真を見ただけなんだろうなと、これは記憶ではなくイメージだ。

    この前、プール帰りに自転車でいつもの道を通っていると、住宅街の路地を歩く5歳くらいの男児がこちらを見ているので、なんとなくゆっくり走りながら僕も少年の方をみると少年は小さいころの僕であった。少年は口を蛸(イラストのタコ)の口のように窄めてこちらにアピールしてくる、その仕草は小さいころの僕がよくやっていた(今も体操としてやる)変顔である。自転車なのですぐに通り過ぎてしまったが僕は後ろ手にピースサインを送った。久々にプールでたらふく泳いで上陸したあと、たくさんの空気を浴びながら帰る春は気分が最高に爽快なのだ。

  • 2025/01/04

    年始初めて近所の神社にちゃんと初詣した。年が明ける前に家を出て歩いてすぐの神社、結構人が並ぶ神社なのでいつも三が日終盤に行くようにしていたが今年はなんとなく並んでみる、並ぶ時間が暇なので30分くらい前にコンビニで酒を買って並ぶ。ハイボールを買ったつもりが日本酒ハイボールだった、飲む瞬間にハイボールをイメージしていたから香りに違和感がすごくて面白かった、「これ日本酒だわ」。でも逆に日本酒と炭酸の方が縁起がいいかもなとかも思った。積極的に縁起に左右されたい年末年始は。並んでいる後ろには近所に住んでそうな高校生くらいの女の子が二人、仲が良さそうである、片方は彼氏がいて片方はいないようで彼氏欲しいと言い続けている、あと何秒、3秒!とそしてすぐに日を跨ぐ、列はあと20分くらいはかかりそう(お参りまで)。前後の人達とあけましておめでとうございます~、とやんわりやるのが楽しい、何人かは年越しの瞬間にジャンプしていた、跨ぐあるいはジャンプするリープする、でも時なんてものはただの目安だよなといつも思うが、区切りがないと人間はスライムみたいになりそう、あるいは擂鉢の中に擦られる胡麻のよう。私は今年36歳になる!36年も生きている。犬の寿命だと大体二回くらい生きているくらいになる。何のために長く生きるようになっているのか、医療とかそういうのを含めて、本当のところは誰も良くわからないながらやっている。姉の子が昨年の12月に産まれた、できるだけ傷つかないで、そういう場面や人を軽やかに避けていって、色々な意味などを自分自身で見つけて発見して捉えていっていくのだろう、それだけでスゴイと思う、とてつもないと思うが同じように生きている状態のその後、死んだあと、その前の死やあるいは生命、日常との疎遠をより現実味をもって近くに感じるときが必ずややってくる、と久々に行った早稲田松竹で観た『東京物語』で想う。5人くらいで観にいくイメージだったのがなぜか高校からの友人と二人になった。隣り合わせで観た。英語字幕があったから外国人の人も多くいて正月の早稲田松竹は満席の満席、原節子の顔、笑顔と発話はやっぱりめちゃくちゃ、きた…!となる。わさわさとする心が。あの熱海の翌朝のシーン、立ちくらみのところはリアル。

    その後馬場のマルハチの中二階の席で、わらわらと集まり飲む。馬場で飲むのはいいものよ、と思う。高校時代の昔の話やみんなの近況、今年の抱負、ありきたりであるが、どこにもないであろう会話の数々が年始を彩ってくれた。ミラグレーンをみんなに配り過ぎた、ミラグレーンを飲むとどこまでも飲んでやろう!となって、久々に大勢でスナックに向かう。神田川を渡っていまはなきPHASE店…。「夢の扉」といういい名前のスナックへ。カラオケ込々、ボトル二本、4500円セット料金、歌うまのバイトの子、よく歌い良く飲んだ。

  • 9-11月に観た映画などなどなど

    9-11月に観た映画などなどなど

    日記を韓国のALLWRITEで買ったノートに書いている。そのノートの表紙がいかしてるから買った。古び切ったカビなども生えているだろう車のリアシート、ファブリックは破れまくって色褪せる、チリにと芥となってどこかに飛んでいったのだろうまさに「風化」といった様子のシート。その上に炭酸水の瓶が1ダース入るえんじ色のプラスチックケースが置かれている。えんじ色は早稲田大学を思い出す。あの変な熊と。一切思い入れがない大学というもの、ただそれによって今に続いている仕事についているという可能性は大きいが、面白くはないよなまったく。自分は人生を面白くしたいと思っているタイプだと思っていたが、実際は家でマンガを読んだりゲームしている時間が一番好きなのである。友達や外出したりすること、一人で酒を飲んだり、何か表現したりすることは、何か機会があれば…、くらいでよい。全く求められないと動きがない私。道に駐車場に停まっている車、その中にある炭酸水やシートの頭のところにプロレスマスクが被さっていたり、そのようなところをみたくなる気持ち。関係のない、全く関係のない家の中は覗けることは少ないが車の中は知らない・関係のないままに覗いてもOKだからOK。スティル・ウォーター、まるで湯沸かしポットの中に置かれている、一回お湯になって使われずそのままになっている、水に戻ったような状態。スイッチさえ入ればまた沸騰し殺菌されるが、全くそれは最初の湯とは無関係であるような。

    音沙汰のない友達に年末会おうと連絡してから、もう年末が来ている。重く怠いが会ってしまえばそれなりに。しかし彼は酒をあんまし飲まなくなったし、すぐに喫茶店に行こうというのだ、僕は年末なら酒を飲み続けていたいから、そういうところも重く怠い気持ちにつながる勝手に。


    9月に観た映画

    • ラナ・ゴゴペリゼ 『インタビュアー』『昼は夜よりも長い』
    • サロメ・アレクシ 『幸福』
    • フリッツ・ラング 『処刑人もまた死す!』
    • 山中瑶子 『ナミビアの泉』
    • 五十嵐耕平 『SUPER HAPPY FOREVER』

    10月に観た映画

    • アンダース・エンブレム 『HUMAN POSITION』
    • 石井裕也 『愛にイナズマ』
    • 沖田 修一 『横道世之介』『おらおらでひとりいぐも』『モヒカン故郷に帰る』
    • 空音央 『HAPPYEND』
    • 佐藤真 『エドワード・サイード OUT OF PLACE』
    • リアム・ファーマガー 『スージーQ』
    • アレクサンダー・ペイン 『ホールド・オーヴァーズ』

    11月に観た映画

    • 金川晋吾(西澤諭志) 『father 2011-2013』『father 2015.05.18』『father 2008.12.08』
    • ピーター・ウィアー 『ピクニックatハンギング・ロック』
    • ホン・サンス 『リスト』
    • ジャファール・パナヒ 『人生タクシー』
    • 滝田洋二郎 『コミック雑誌なんかいらない!』

    全然観れてないというのも19時からの仕事が2週間続いたり、定期的かつ連続的な仕事が入っているのだ最近は。そのおかげで感情があんまし動かんし、なんといっても毎朝エアロビしてるから外に出なくても平気。毎日とある駅に夜いかないといけない仕事があったんだけど、立ち食い蕎麦屋で今日は何蕎麦にしようか、卵を追加しようか、天丼・カレーにいくのもあり、と考えるだけで私は幸せになれるから。こんなことがあった、明日はゲソ天蕎麦に追加で生卵だとずーっと考え続けた結果それを注文したんだけど、ゲソ天蕎麦には初めから卵がついていて、追加の卵をあわせて私は二つも夜に卵を食べたんだ。別皿で来たから溶かしてつけ麺的に食った一回だけ、でもそれはそれほど楽しい経験ではなかったので、結局丼に放り込んだ。非常に記憶に残る出来事。そのままの短歌も詠んだ。こういうことばかり人生で感じていたい。そして帰り道その店をグーグルマップで調べてあげられているゲソ天蕎麦の写真を確認する、そこには卵は付いていなかった…!毎日通うことへのサービスが発生したのか?????あんなに愛想がないのに?????と更に興奮したわけである。ただしその三日後いった時に頼んだ春菊天蕎麦には何もつかない。

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    (2025/02/07追記)

    この店のメニューには「○○天」と「○○天玉」があることが再訪により理解された。要するに「ゲソ天玉」に「玉子」を追加していただけだった。「勘違い」というものはかなりのエンタメ性がある。生まれて死ぬまで全ては勘違いや思い違いなのではないかとすら思える。

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    本当に自分の価値観と合わない洒落ている、綺麗なだけの映画を観たとき、私は憤慨する。そこには何もないから。何もないことを美しいと思っているのか。それぞれの形態において、向き・不向きというものがあるだろう、という話だ。

    『横道世之介』はとっても良かった。吉高由里子も、高良健吾も普段とは違う人物になっているだろう、そういう人がいる感じがちゃんと感じて、しっかり感動した。JAIHOでみた『コミック雑誌なんかいらない!』も内田裕也に初めて興味を持った、カッコいいのかもしれない…!と。何にも内田裕也のこと知らないし何にも言えないけど、声がめっちゃ小さかったり、ただその時代の新宿とかみれるだけでいいし、あと最後にビートたけしがかなりイケてる。


    【ナイスシングス】

    • ポーラテック アルファダイレクト90使用のミッドレイヤーパーカー:これはいい。25000円は価値あり。軽すぎるしあったかすぎるので、これを脱ぎ着すれば、アウターは薄めのナイロンジャケットで十分である。重いジャケットも良いが、電車とかで暑すぎるのがマジで嫌いだから。
    • 伊勢原のジンギスカン伊勢原:モクモク系焼肉屋。とにかく幸福になる。良い服で行ってはいけないよ。
    • 会津 下郷郡 塔のへつり:友達と旅行に行った。初めて紅葉が美しいと思った。本当に。
  • 私の使い方

    私の使い方

    田植えよりはやく蜻蛉の産卵の間隔乱す暴走の拍

    水中のサムネイルばかり貼り合わせ背中を丸め爪先を見る

    電球の位置から落ちる電球は時から外れた音を散らかす

    知らない洗剤の香りが届くベランダでわたしは何か強いていないか

    頭蓋骨左は野原で右は海海は白波野は風と雪

    桂馬、桂馬、桂馬、桂馬、ホームまで辿り着いたら水が必要

    これからの季節夕方の商店街惣菜買って歩きつつ浮く

    歯の全貌映るモニターの枠外に雷雨のマーク急ぎて帰る

    酒の後腹はまだらに染まり上がる余りに赤く弱い肉だな

    プール上がりインド・ネパールカレー屋でビーフン食いつつ見る甲子園


    今日干せばよかったものをと思いつつ陽の香りせぬ寝床をととのえ

    ぼくぼくと夜空を殴る音がしてもう間に合わぬ思い走らす

    勇敢になりたい何度も起きて食べて寝る何度も起きて当然のよに

    一緒にいるほどにタイトになりはせず伸びては縮む輪ゴムの香り

    磨り硝子越しの生活に滞空しふと切り返し着地するまで

    わたしだけ素面になりつつ在るような夏の終わりの夜の涼しさ

    翅揺する蛾の丸い目にハナクソを穿るわたしは映るだろうか

    ベランダの向かいの屋根の燐光が月の形を証明している

    よく見ればリミナルスペースを走る二輪の後輪少し浮いてる

    B面の素敵な曲を発見し、父と母との違いを想う


    伊勢丹でドバイ、出張、たまに日本、会計の間に自慢する人

    透明の漏斗漏斗に籠りたる香りを嗅いで何も買わない

    一度倒れても戻ってきては曲をかける彼の顔には何も映らず

    暗がりの壁に形を刻みいるゴーストライト緑の機械

    遂に我々は迷子の目覚ましもせず目覚ましもせずに

    糖度増すトマトは角を持ち合わさず頬擦り痩せて破れる将来

    置き去りのピルケースには四粒の墓石色の縦長の錐

    そうじゃない方の袖へと腕を出すいつから此処が私の居場所

    開かれることのなかった箱の中溢れ続ける音だけの砂

    四百の全校生徒が教室の窓より見下ろす立ち枯れの吾


    あーん風外側追越すだけじゃなく内側も撫で透かしておくれ

    誰のためでもない私の窓を開け風吹き抜ける制作の予感

    温もりは冷める物のみ与えらむ小さく弱れよ今も太陽

    告白は退けらるとも迸らむゆけゆるやかなポジティビティー

    理不尽がまかり通った残らないその跡を辿る腹を空かせて

    賭けに出よ世界に放てマルチラブ次回のことは誰も知らない

    まるで強い麻酔にかかったかのように眠気に揺られて過ぎた二時間

    感想が「酷い事だね」に尽きてしまう二人はこれから何を飲み食う

    このモールの売りは道玄坂へ着く新たな裏の道であること

    「普通にある不安を敢えて試さない」、ネーデルラントのその人は言う


    昼間止まった路線で帰る動けるものから一様に動きはじめる

    面よりも奥の景色は目の遣りがいがあってホントに助かってるよ

    迫害の後に広がる大草原いかにも自然という顔をして

    目を瞑り青い宇宙の目立たない端でただよわせてくれる曲

    突沸の拍手が幾つ鳴ろうとも私の手だけは誰も打てない

    親しげな会話余裕ある話し振り憧れと同じ程否定したい

    キャパシティと呼ばれるヒトの内側に満ち満ちている血と脂の量

    10、9、8、7号車に次ぐ10、9、8、7号車により8両を成す 

    水平線まで光の束が揺れ伸びる観客は皆それを観ている

    外出の際は心に冷えた桃産毛を擦って残る苦味を

  • 2024年7-8月(観た映画など)

    2024年7-8月(観た映画など)

    酒飲む前後に五苓散という有名な漢方を飲むようにしていたんだけど、最近飲んだ日の夜、どれだけ入眠系のヨガやストレッチをしてみても寝れない時がある、4時とか6時とかまで寝れず(そういう時は満月のせいだと思い月の大きさをスマホでみるも、めっちゃ新月だったりする)、9時まで寝て起きるとそれはそうだが体調が悪い。気分も併せて体調が、ただし運動をして午前やり過ごして昼飯後に昼寝すればそんなに問題ない。その漢方のせいだと思って飲むのをやめてみたんだけどやはり眠れず、だから五苓散のせいではない。理由はなんだと、空腹だろうと思い至った。冷蔵庫にあった水ようかんを4時に部屋に持っていき食べると全身が安心して眠れたのである。

    飲みが進むとすぐに空腹を忘れるタイプである僕は、家に帰る道で「腹減ったなあ」と思いつつ酔っぱらっているので風呂入って、シートマスクしたり歯磨きしたり軽くストレッチもする。するとすっかり腹減ったなあとなるのだがそこでまた食べて歯磨くのがめんどくさいから本読んで眠気を作って寝ようとする。が寝れない。だからシンプルに、一杯食べてから飲もうと思った次第。これからはそうする。食べて食べて食べて飲む。これまでは飲んで飲んで食べて飲む、だったので。

    夏の終わりかけに気付いたのが、エアコンのカビ。エアコン内部のファンの部分(専門用語ではシロッコファン、と呼ぶらしい。シロッコファン、自分的には一瞬で覚えられる系の名前。)の羽にびっしり!とカビが生えてこすると真っ黒になる。それに気づいてから冷房を使えずなんか体調も悪いので、AMAZONでセルフで内部を洗浄するキット(”カビッシュトレール”なるもの。カビをシュッとしてとれる小林製薬メソッドのネーミング)を買ってトライした。汚水漏れが心配だったが、しっかりと付属のビニール袋を固定した。すすぎ液が全然足りずベランダに置いてあった強力な加圧式の霧吹きでブシャーっとやる。すると盲点であった右下左下の何か空間から液がぽたぽた。まあ完璧にできないくらいがセルフ〇〇にはちょうど良い。80点。75点。65点。50点。クリーンな空気で再出発である。マジで謎の体調不良が続いている(くしゃみ、せき、だるさなど)場合はエアコンを疑うべし。


    7月に観た映画

    • ホン・サンス 『WALK UP』
    • ブリュノ・デュモン 『フランス』
    • 小栗康平 『死の棘』
    • 佐井大紀 『イエスの箱舟』
    • 武田一成 『のぞき』(”ちょっと冒険してみない?「ORGASM」的偏愛ロマンポルノ”特集)
    • 鈴木潤一 『女教師狩り』(”ちょっと冒険してみない?「ORGASM」的偏愛ロマンポルノ”特集)
    • キム・ボラ 『リコーダーのテスト』
    • 斎藤久志 『フレンチドレッシング』
    • 奥間勝也 『骨を掘る男』
    • 『古代の美』『ドラムと少年』『港をつくる』(”日本映画と音楽1950年代から1960年代の作曲家たち”特集 矢代秋雄/佐藤慶次郎 作品集)
    • 青山真治 『サッド ヴァケイション』
    • 仁同 正明 『コーポ・ア・コーポ』
    • 小栗康平 『泥の河』
    • アリーチェ・ロルヴァケル『墓泥棒と失われた女神』
    • 井口奈己 『犬猫(8mm)』
    • レイチェル・ランバート 『時々、私は考える』
    • 曽根 中生、 Leiji Matsumoto 『元祖大四畳半大物語』

    8月に観た映画

    • 三間旭浩 山田咲 草野なつか 遠藤幹大 『広島を上映する』
    • 黒沢清 『Chime』
    • 斎藤玲児 Aプログラム(SCOOLシネマテーク Vol.4 斎藤玲児レトロスペクティブ)
    • たかはしそうた 『移動する記憶装置展』
    • ヴィム・ヴェンダース 『アメリカの友達』
    • リラ・アヴィルス 『夏の終わりに願うこと』
    • 西村匡史 『“死刑囚”に会い続ける男』

    比較的日本人監督の映画を多く観ているようだ。小栗康平の作品はもっと観たい、かなり面白い。『泥の河』の蟹焼きのシーンは観てしまった…感がある。『のぞき』、『元祖大四畳半大物語』は本当に良かった。下らないことをやり続ける、だらしない魅力に溢れている。こういう笑いを生み出せるムードの人になりたい。『サッド ヴァケイション』はやっぱり何回観てもいい。いつも発見がある。ああ、なるほど、とあれこんなんだっけ、といっつも九州弁慣れないな、とか。母親、父親、兄弟、プライド…。『フレンチドレッシング』(正確には各文字の間に中黒が入る?)はみんなで観た。観終わって居酒屋と東京ドーム前で飲んだのは夏の思い出。観覧車は今度乗りたい。斎藤玲児さんの作品集と『広島を上映する』内、山田咲『ヒロエさんと広島を上映する』を観ているとあらゆる映像記録の意味について、一度ある意味リセットしたように観る体験ができた。あらゆる映像に意味があるとも思えるし、意味などなく、記憶もそれぞれの無限のパターンがありえるし、編集についてもそうだと思える、いつもの自分がいかに便宜的に、上滑りしているのか、とも思える。『Chime』は気分的にはまれない、究極の無意味に乾燥しているように、無駄に思えてしまう。何を求めているのか知らんが。『移動する記憶装置展』、最近『他なる映画と 1』を読んでいて、身体は嘘をつかない、という言葉が出てくるが、実際にいる人の動き、歩き、所作、語り方をみてきいて、これかと体感できたのが嬉しい。そしてそれを再現し、フィードバックする(緩く)、こういうプロジェクト、アーカイブ性をゆるりと実現する姿に憧れる。緩さと真摯さが現在だ。かげやまさんが出てきたのも嬉しかった。斜めに身体を傾けつつ、なんとなく伺う。半分くらい。『リコーダーのテスト』の父親の頭に触れられない気持ち。


    【ナイスプレイス】

    • 『番兵』@仙川駅:ばんべい、と読む。もつ煮込みが、牛モツで、野菜とか入っていない、シンプル。新鮮。新鮮なアブラがめちゃうまい。素晴らしい。店主が鷹狩の服のブランドもやっている。事業の一個として立ち飲み屋をやる。たくさん話してくれる。安い、うまい、中華も本場で学んできた腕前。まな板と包丁でわかる。パチ屋の入口の真向かいから入る路地にあるのでパチ屋のチーム客が休憩がてら飲んでいた。良い。
    • 『和田堀公園プール』@永福町:屋外で、なぜか50m・長水。でかくて雑い。7月の真っ最中の太陽で焼け痛い。シャワーもプールゾーンの境にある大型の一基のみ。去年は受付や中で怠そうな大学生男女バイト達が青春してたが今年はなんか違った風。隣の幼稚園からクラクション音が断続的に続き、事件かと思ったら、車に乗る体験教室が開催されていた。サイドで焼いてるおじさんたちと「危ないやつかと思ったよねえ~」と話した。帰り道の長浜ラーメン世田谷店もうまかった。

  • 2024年の5-6月に観た映画のこと

    2024年の5-6月に観た映画のこと

    毎日元気じゃなくてもいいが、元気じゃないと色々と不必要な妄想に囚われがちになるから、やっぱり元気な方が良いのかも。結構考えることこそ自分だ、とずーっと思ってきていたが、親とか占いに、あまり自分の中に留まって考えすぎない方が良いと何回も言われていて、昔はそうは思えなかったが最近はほんとそうだなと思える。ほんとそうだと思えるまでは、何回聞いてもやっぱり意味がないと思う。しかし「違うんだな」と思いつつ過ごしてきた時間こそがこの「ほんとそうだと思える」に必要なことでもあるからカウンターにも意味がある。

    そもそもそういった「違うんだな」と思うことに出会っている時点で、それを自分が含んでいる。ベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』に関する対話の本の中で、「ある対象に対して憧れや尊敬を向けることができる条件は、その対象を憧れ・尊敬する要素が自分自身に含まれていること」である、というようなことが書かれていた。憧れ・尊敬、あるいは単に「いいなあ」とか、おそらく「違うんだよなあ…」も、あらゆる自分にとって何かしらの引っかかるものたちについては、それらに「関心をもてる」というだけで既にしてそれらを身につけているのだ。そしてそれらを発揮するに至るか至らないかの差であり、ある・ないの人工知能的なものではない。だからあらゆることはメッセージなのであるのだろう。そういうスピリチュアルな方向にも感じられるが、もっと単純に、できるだけ多くを感じて、できるだけ多くを考えないであれ。といったことでもあるのか。

    『ペーパーマリオRPG』のリメイク版を最近クリアしたんだけど、あるキャラクターに「夢をあきらめないで」と言われるシーンがある(ちなみに全然ストーリーには関係ない)。夢と可能性はけっこう近い。叶える・実現するとそうなるはかなり遠い。「要素を含みつつも発揮していない」状態が夢であり、可能性であると思うから、その夢と可能性を叶え実現することは矛盾する。常にネガティブに、「諦めないで」というのは「夢を叶えないで、実現しないで。(微睡みのままでいて)」というおとぎ話的な眠りへの脱力に思えた。

    夢を諦める、というのが一般的にはフルタイムで真面目に働き、お酒をたまに飲んだり、夢を趣味にして懐かしく思う、など切り替えていくことだとする。しかし夢は主体的に諦めたり、諦めるのをやめたりできるものではなく、夢から「諦めないで」「覚めないで」いることしか存在することができないはずなのだ。だからおそらく僕は死ぬほど努力したり、超努力したりできない。きっとなんとかその範疇でうまくやるから誰かピックアップしてくれ、と常に思っている。映画をお金を出して観にいってもほとんど微睡んでいる時間の方が多いのではないか。

    5月と6月(26日まで)に観たのは、『悪は存在しない』、『ゴッドランド/GODLAND』、『ブレインウォッシュ セックス・カメラ・パワー』、『マグダレーナ・ヴィラガ』、『ラジオ下神白 ―あのとき あのまちの音楽から いまここへ』、『関心領域』、『ユニコーン・ウォーズ』、『美しき仕事』、『左手に気をつけろ』・『だれかが歌ってる』、『江梨子』、『エンジェル・アット・マイ・テーブル』、『蛇の道』(リメイクの方)、『ほかげ』。

    特によかったのは『ゴッドランド/GODLAND』、『左手に気をつけろ』、『エンジェル・アット・マイ・テーブル』、『ほかげ』。

    • 『ゴッドランド/GODLAND』:めちゃくちゃかっこよかった。時間をかけて遠くに連れて行かれたから外に出た時青学生がたくさんいて男っぽい話し方、女っぽい話し方をそれぞれみんながしていて愚かだと思った。私もそうだったとか、そういう似ている部分や似ていない部分、相似形を常に探してしまうことが人間らしさだと思って。さっきの話、憧れを自分に近づけすぎたり、そのために必死に努力すると覚めちゃう。気づかない、キャンセルしない、できるだけその方向にありたい。そのあと最寄り駅の蕎麦屋でじいさんたちと同じくそばを啜ってるとき心地よかった、席的にも向かい合わず、視線は全く交わされない。

    • 『左手に気をつけろ』:めちゃくちゃかっこよかった。救われた気がして心が軽くなって、見られ方とか見た目とか気にならなくなって渋谷も自由に歩けた。ほんとうのユートピアは心持ちにあると思った。併映の『だれかが歌ってる』もそうだが、世田谷区のいろんな好きな公園、好きな店、好きな映画館が出てきてそこを選んで撮って作品にしている人がいるというだけでそれだけで救われる。自分をそこに観るようで嬉しい。内面化したくないが、どうしても知っている場所はエモい。私は愚かである。全く知らない場所や人も当然出てくるわけで、子どもが頑張っていて、素顔ではないが素顔に近い。それをバッと写し取る、景色も素顔をバッと選んで写し取る、編集で選ぶ、切り方・つなぎ方を選ぶ、それを感じられるのはとっても嬉しいことだ。マダムロスというバンドを知れたのも嬉しい。心の中でガッツポーズ、は嘘だが、よっしゃいけ、という感慨に久々になる。足取りにくる、街での立ち居振る舞いが変わる。

    • 『エンジェル・アット・マイ・テーブル』:当時のリアルな女性の生きづらさが伝わってくるストーリーもそうだが、どこかに加担しない主人公と、監督自身の思想がフレームに表れている。やっぱりストーリー自体の外にあるものを撮っている、それは町にいる人の素顔、倫理的に撮っていいと思えるものを撮っているはず。スペインの人々、その時に居た人の顔、その時にあった子どもの遊び方や声に、その時をみられるから嬉しい。

    • 『ほかげ』:ずっと観ようと思っていても、その印象の暗さに避けていた。観はじめればいいのだけどね。やっぱ観たら、ずっと面白いというか、強い。全然違うな。趣里の声と顔、漫画的と言えるほどのこんな顔はみたことなくて、声もすっごい本能に響く声。配信で観たから何回も観ようと思ったけど、それはなんかしなかった。あのシーンはすごい。そしてそれをぼうや役の塚尾桜雅がよくぞ受け、反応している。全くスゴイ。そして相変わらず空が青くて青すぎる。野火の影、男性の弱さの発露と、それをなぜに女性が引き受けなければならんのか。
  • 2023/12/19

    今年は計画的かつ気のない振りで、早めに終わってしまった仕事。昼まで寝てられるし何なら夜までも可能。いつからなのか、最初からなのか、冬は気持ちが閉じる。

    父親が昔名古屋の万場でお店を開いていたときは毎年クリスマスあたりから晦日までお店の手伝いをするのが倣いであった。調子のいい日などないが朝から晩まで皿を洗い、配膳し、下げ、また洗う。前掛けをする、手拭きタオルを渡され「これ巻いとけ」と頭に巻く。手伝いをしてくれる父の姉やバイトの女性との会話がうまくいかない。あの頃の心持ちは既に思い出せないが、いつものあれ、会話ができなくなるのだ。これは会社でも起こる、調子が良いときはランチも仕事もうまくいく。仕事はなんとかなるのだが、きっついのがランチだよな。11:30から逃げるように一人であんまし人気のない店に行く。そそくさとかえってくる。店では汗だく、理由もなく、飯食うと汗かく。

    もちろん調子が良い時期は誰もが自分を好いていると推定でもなく確信のもと行動するので、自由。それは春キャベツが市場に出るあたりから始まる。今日(12/20)は甘い蕪を食べた。ネオ八百屋で買ったやつ。ピーチ蕪というのを細切りにしてビネガーとオリーブオイルとクレイジーソルトのハーブの塩で。細切りだとぬめっと感が里芋とかとろろ芋のようで、オイルとの絡みは良いがなんか蕪らしさがないと思った。今度からは蕪は必ずと言っていいほど、乱切りだ。

    そして昨日は昼から運動して、その前の日に下北の古着屋で買ったウール80%のボーダーロンティー(ピンク、黒、黄色、なんだかNANA感がある)を着て出かけるため、SNSで見かけた展示へ。前から行きたかった松濤美術館でやっている展示。

    「前衛」写真の精神: なんでもないものの変容

    ボーダーTの上にはこれまた下北の古着屋で買ったリバーシブルのベストを着る、その上に、これは三茶の古着屋で買ったコットンリネンの羽織り。この寒い中コットンリネンはないが、ベストを着ることで大丈夫、むしろ汗かきな俺にはちょうどよいのだ。ベストの方、ナイロン側のグレーの面しか着なかったけど、このボーダーのにはそっちではない、フリースのやや茶色っぽいグレーのが合うから嬉しかった。靴は黒い革靴、ターミガン、いまはPLAYGROUNDとなっているブランド。このブランドはNIKEの古いのとかオリジナルの靴とか全部いい。代々木公園駅からすぐ。

    松濤美術館は神泉駅からすぐ。渋谷まで行かなくていいのに救われた、それをグーグルMAPで確認しつつ、帰りは代々木八幡駅まで歩こう、そして古着屋もみようと思った。古着ばっかりの人生。

    展示は最初13:50くらいはガラガラだったのに、人がどんどん増えてく、このくらいの美術館なのだから人との距離感、作品を見ている先の人に追い付くようなマネは絶対するなと思う。強く。そしてもう少しみんな時間をかけて作品をみろよな。バシバシ視覚に収めていっても何も意味はない、来ただけでは意味はない、ただただ生きているだけでは意味はないのだ。

    はじめのフロアの真ん中の黒いソファがコの字に並ぶところで『牛腸茂雄全集 作品編』の存在を知る。ソファに腰かけ明るい光の下で全部読む。これは買っておこうと思った。8800円、税込。やっぱり時間の流れの中で受け継がれていくものと、先人にはできない表現、全く先人はやっぱり古いなあと思う人もいるが、その中でも作られたもの(女性の裸に、無関係な線や布などの配置)はつまらんなあ、くだらない美だなあ、むしろハッキリと嫌だなと思った。さらに印象的だったのは牛腸の『日々』を評した当時のお偉いさんの言葉、「牙のない若者たち」、これが一番印象に強い。そしてその後に発表される最後の作品集、『見慣れた街の中で』の震えるほどの良さ。ばっちりなのだ。狂うほどの熱とか、ありったけの個性とか、そういうのが牙だと思うんだけど(そこには中平の名前もあった。その後はともかく当時はそうだったのだろう)、牙という言葉で表すのがさすがだと思った。その点はすごくわかりやすいし、憧れを作りやすい。表現たるもの、牙を持たねばならぬ、というのと、裸の女性の顔を隠してその周りを囲んで色々やる、みたいなのは、どこが牙やねんと思うが、それが牙だから、そんな牙はいらん。人間に牙は不要だ、そもそもない。ありもしない夢を見るな。今では簡単な妄想となってしまった、昔の滾る興奮だ。

    帰り道、代々木八幡方面に歩くとき、突然目に入ってきた微動だにしない山鳩。道路標識の下にひっそりと佇む。うわっと小さく驚き近づくと、身体を大きく膨らませ息をしているが、嘴が尖っていなくなぜか平ら、下半分がギザギザにひしゃげていて、思わず目を逸らし、前へ。振り返り、「大丈夫か、」と声をかけつつ、立ち去る。どうしようもなかった。

  • 2023/09/16

    • 先週末から始まった仕事、調査が昨日報告書が提出できたので心が軽やかになる。期日は来週火曜であったが、韓国旅行なので特急にて完了。偉い。
    • 土日までかかるだろうな、と思っていたがスッキリと終わったため、映画を朝から観る。アルノー・デプレシャンの『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター』。またしても邦題問題。僕はこだわりたい。ブラザー&シスターで良い。私の大嫌いな弟へ、とつけることで動員数が変わるのか。しかしこれも誰かの仕事でそうなっている。
    • 私はその仕事をしたその人自体を問題視していないのは明らかで、問題は、邦題、ストーリーをキャッチーに一言で表さないと、失敗する。と思われていることだ。客が入らない。タイトルで映画を選ぶ人はいるのだろうか?
    • 私は映画を一般的な映画好きと言われるくらいの量をみていて、そういったタイトルへの自らの考え、センスのある感じを肯定できる、という自負があること自体に優越感を感じたいのだろうか。
    • 「私の大嫌いな弟へ、一枚お願いします」と今の時代券売所で買うことも少ないが、シンプルに言いたくないタイトルだよなと思う。恥ずかしくないか。『エドワード・ヤンの恋愛時代』もそう。タイトルは絶対、独立時代だろ!ストーリーも含め。
    • 姉が大嫌いな弟へ、何を伝えるというのか。そういう話ではない、実際。家族が規定する固定された関係性は、単なるルールとしてあるだけで、いかなるときも固定されていないし固定されていなくもない。そういうこと、関係性の確認の連続と放棄の可能性の豊かさ、あるいは疑いの映画であるのに、嫌いな弟へ、では一方向かつ固定的。残念。
    • それにしても暑いから、渋谷のハチ公口に降りるまでも汗だくの登り降り。マークシティのエスカレーターは混みまくるから避けるから右に行くんだけど登り降りがやばい。しかし良い運動。綿でさらっとタンクトップは全くサラッとしてくれない。
    • 文化村ル・シネマは最高の映画館。暗いし席が平らで前後間隔が広い。コーヒーが美味しい。吉祥寺のパルコの下のあそこはこの前初めて行ったんだけど換気が足りていない、トイレ臭と館内の湿気がやばく、だらしない友達んちみたいな臭いがしたんだ、実際に。そこでみるクローネンバーグの新作は、とても辛く感じられた。過剰でもなければ、ややカッコいい感じ。結構意識高い系で私は恥ずかしくなってしまう。ジンジャーシロップはうまかったが、トイレ臭に尽きる。この世で結構大事なのは風通しである、というのは比喩的にも真理。
    • 主に腹と背中の汗が大量に出る体質なので、一瞬でさらりとインナーがペトペトになる。映画中も不快感がありつつ。映画はとても良いのだけど、家族、兄弟姉妹って不思議で必然性はないけどお互いに影響が強い。訳の分からない喧嘩、勝手な思い込み、兄弟だからこそのすれ違い、ぶつかりあい。親の死を泣くとき、もはや少し気持ちがいいくらいのどうしようもなさで、自分がどんどんなくなっていく、自分の必然性とかが老いや家族の死によって減っていくから、人は歴史を求める。とか思いつつも、腹と背中のペタペタが終始。映画が終わったら下着を変えよう、しかし渋谷のどこで、と常に。
    • この状態、映画に集中していないと言えるのか?という考えも常に浮かび、それ以外にも色々多分考えている。映画のことだけを考える映画って、それはもう洗脳で、あり得ない。
    • 姉からの結婚式の招待状が来ている。映画をみて、父親の葬儀の時、姉と夜長い喧嘩をしたことを思い出す。姉と自分はバランスを崩さないようお互いうまい距離でやっているし、姉は曲がったことを許さないから、助かっていることが多い。おめでとう、姉。
  • 『ダサいのコワい』何を知って、何を安心したいのか、そして消えていきそうな自由

    『ダサいのコワい』何を知って、何を安心したいのか、そして消えていきそうな自由

    ファッション関連の固有名詞を検索欄にいれると「○○ ダサい」って予測入力の候補にぜったいで出てくるよなあ。「GIベルト ダサい」「セダークレスト スニーカー ダサい」、これは実際に見た例だ。セダークレストは近所のスーパーの二階にある靴流通センターが閉店セールをしていて、セダークレストのスニーカーが1500円くらいで買えてなかなかいいんじゃないか、としかし通常の料金はどれくらいかと見てみたら、「ダサい」と検索エンジンに、ということはたくさんの人が検索した履歴に、ダサいよ!やめておけば?と言われた気分だ。買ったが、蒸れたので何回か履いて捨てた。もったいない。もったいないとは?

    そうではなくこれはどういう現象なのだろうか?ダサいのが怖いのだみんな。自分の選択には、大多数がダサい、と思っていないかがまず重要なファクターとなっている。日本以外でもそうなのか?英語やその他の言語ではダサい、「〇〇 wack」とか候補がでるのだろうか?? 

    哲学とは?、あるいは思考力とは?、本当の意味での考えるとは?みたいなことで、「正しい問いを自ら立てられる力なのです。」みたいなことは実際正しいし、実際的でいいと思う。あとは「正しい検索ワードをいかに思いつけるか、検索力が現代を生きていくうえでの必須な力」みたいなことも言葉の広がりや曲解を抜きにすると真理だ。ただし前述のワザについて、正しいってところがあれなんだけど、あとは力だ、みたいな、全て生きること、今を生きること、うまくやっていくこと、出し抜いたり他者を置いていくこと、パワーや権力、誰かを従えること、を目的にしたら全部だめ。

    じゃあどうするのがいいのか、たぶんそれがやっぱし『二項対立をどうやって乗り越えるか』にあると思うんだけど。

    その正解を探る、どっちかは間違っていてどっちかが正しい、あるいはあるひとつの対象や概念が何かを意味していて(意味が確定していて)別の何かではない!ということを決めてもらって(誰にだ?検索エンジンに?あるいは上司とか目上のものに?まあ最初は親に?インフルエンサー?に?とかいうこと)、安心する。そこに座って動かないイメージ。が二項対立の人間。(動物や植物は二項対立していないという感覚)だから、固定した石像がぽんぽんと過去の自分として、それらが強固に、一個一個崩さない限りは蓄積されて、滞る人間たち。

    だから最近筋膜リリースにはまっているのか?? 毎晩やっている。一回30分くらいかかるんだけど。

    で、二項対立を抜け出すとは、シンプルに言うと「ダサいことを恐れていては、近いうちわたしたち窮地に追い込まれますぞ!」ということにある。いかにしてそれを実践すべきか。生きているうちに、いかにこの二項対立から抜ける努力や注意を払ったりできるか。「抜け出す」というのはまさにドツボにハマっている状態、それが当たり前になっている状態から抜け出すか、ということで意識はひとつの対象や視界、環境に依存したり崇拝したり熱狂したりすることで、スタイルを作っていく。

    そのスタイル、たぶんそれがカッコよさであったり自分らしさ、センス、クリエイティブまでいかなくてもなんかそういう性格なんだよね、とかそれくらいのことかもしれない。熱狂までいかない、それとは逆の諦めとか、埋没したルーティンについても。

    そこらへんの習慣については、良悪なんてものもたぶんない。幸せと不幸せという価値観から抜けた小説、保坂和志が気にしているところとして何かで読んだ、見つめなおしたり無理をしないが、やっぱり自分の価値観とか判断力をその都度判断したり、確認したり、検索して出てきておわり、ではなく、試してみて、だめだったらやめる、そこをとっても軽い気分で、一回一回をギュッと思いつめたりしない風で、自分はありたいと考えている。実際難しいが。

    これはダサいかも?と思ったものは、実際たぶんダサいんだろうね。(私の直感)その直感やネットの意見はたしかにあるが、それで考えることをストップしてしまったら、「それが気になった気持ち」は一体全体どこにたどりつけば良いのか?それは存在しなかったとしていいのか?視界が「ダサい」にズームして画面外に省かれた世界は、とっても平和でいい匂いがする、懐かしくもあったり、居心地がいいとは思わぬか。

    視界が狭くなったり、気持ちが狭くなったりしたらどんどんパンを振る。首を振る。ゴリゴリとローラーで流す。反復してるうちに何か流れそうだ。いらないつまり、固定された視方、配慮のない扱い。

    ただ寄り道をしろ、とか、息を抜いて、とか、違う道で職場に向かえ、とか、あるいは露悪的になる、ぐれる、悪ぶってみるとかでもなく、「効率的に戦略的に力強く楽しく正しく、生きる」ということから外れる思考を持つ。そういうふうに生きることだけが正しいと思うから、ダサいのコワいのだ。