今年は計画的かつ気のない振りで、早めに終わってしまった仕事。昼まで寝てられるし何なら夜までも可能。いつからなのか、最初からなのか、冬は気持ちが閉じる。
父親が昔名古屋の万場でお店を開いていたときは毎年クリスマスあたりから晦日までお店の手伝いをするのが倣いであった。調子のいい日などないが朝から晩まで皿を洗い、配膳し、下げ、また洗う。前掛けをする、手拭きタオルを渡され「これ巻いとけ」と頭に巻く。手伝いをしてくれる父の姉やバイトの女性との会話がうまくいかない。あの頃の心持ちは既に思い出せないが、いつものあれ、会話ができなくなるのだ。これは会社でも起こる、調子が良いときはランチも仕事もうまくいく。仕事はなんとかなるのだが、きっついのがランチだよな。11:30から逃げるように一人であんまし人気のない店に行く。そそくさとかえってくる。店では汗だく、理由もなく、飯食うと汗かく。
もちろん調子が良い時期は誰もが自分を好いていると推定でもなく確信のもと行動するので、自由。それは春キャベツが市場に出るあたりから始まる。今日(12/20)は甘い蕪を食べた。ネオ八百屋で買ったやつ。ピーチ蕪というのを細切りにしてビネガーとオリーブオイルとクレイジーソルトのハーブの塩で。細切りだとぬめっと感が里芋とかとろろ芋のようで、オイルとの絡みは良いがなんか蕪らしさがないと思った。今度からは蕪は必ずと言っていいほど、乱切りだ。
そして昨日は昼から運動して、その前の日に下北の古着屋で買ったウール80%のボーダーロンティー(ピンク、黒、黄色、なんだかNANA感がある)を着て出かけるため、SNSで見かけた展示へ。前から行きたかった松濤美術館でやっている展示。
ボーダーTの上にはこれまた下北の古着屋で買ったリバーシブルのベストを着る、その上に、これは三茶の古着屋で買ったコットンリネンの羽織り。この寒い中コットンリネンはないが、ベストを着ることで大丈夫、むしろ汗かきな俺にはちょうどよいのだ。ベストの方、ナイロン側のグレーの面しか着なかったけど、このボーダーのにはそっちではない、フリースのやや茶色っぽいグレーのが合うから嬉しかった。靴は黒い革靴、ターミガン、いまはPLAYGROUNDとなっているブランド。このブランドはNIKEの古いのとかオリジナルの靴とか全部いい。代々木公園駅からすぐ。
松濤美術館は神泉駅からすぐ。渋谷まで行かなくていいのに救われた、それをグーグルMAPで確認しつつ、帰りは代々木八幡駅まで歩こう、そして古着屋もみようと思った。古着ばっかりの人生。
展示は最初13:50くらいはガラガラだったのに、人がどんどん増えてく、このくらいの美術館なのだから人との距離感、作品を見ている先の人に追い付くようなマネは絶対するなと思う。強く。そしてもう少しみんな時間をかけて作品をみろよな。バシバシ視覚に収めていっても何も意味はない、来ただけでは意味はない、ただただ生きているだけでは意味はないのだ。
はじめのフロアの真ん中の黒いソファがコの字に並ぶところで『牛腸茂雄全集 作品編』の存在を知る。ソファに腰かけ明るい光の下で全部読む。これは買っておこうと思った。8800円、税込。やっぱり時間の流れの中で受け継がれていくものと、先人にはできない表現、全く先人はやっぱり古いなあと思う人もいるが、その中でも作られたもの(女性の裸に、無関係な線や布などの配置)はつまらんなあ、くだらない美だなあ、むしろハッキリと嫌だなと思った。さらに印象的だったのは牛腸の『日々』を評した当時のお偉いさんの言葉、「牙のない若者たち」、これが一番印象に強い。そしてその後に発表される最後の作品集、『見慣れた街の中で』の震えるほどの良さ。ばっちりなのだ。狂うほどの熱とか、ありったけの個性とか、そういうのが牙だと思うんだけど(そこには中平の名前もあった。その後はともかく当時はそうだったのだろう)、牙という言葉で表すのがさすがだと思った。その点はすごくわかりやすいし、憧れを作りやすい。表現たるもの、牙を持たねばならぬ、というのと、裸の女性の顔を隠してその周りを囲んで色々やる、みたいなのは、どこが牙やねんと思うが、それが牙だから、そんな牙はいらん。人間に牙は不要だ、そもそもない。ありもしない夢を見るな。今では簡単な妄想となってしまった、昔の滾る興奮だ。
帰り道、代々木八幡方面に歩くとき、突然目に入ってきた微動だにしない山鳩。道路標識の下にひっそりと佇む。うわっと小さく驚き近づくと、身体を大きく膨らませ息をしているが、嘴が尖っていなくなぜか平ら、下半分がギザギザにひしゃげていて、思わず目を逸らし、前へ。振り返り、「大丈夫か、」と声をかけつつ、立ち去る。どうしようもなかった。