カテゴリー: Thinking

  • 習慣化する

    ひとつの決断がその後の行動、その後の自分を決める。当たり前にそうだ。いつから何をきっかけにして始めたのかわからないくらいのことで、今も続けていることなどはひとつもない。逆に言うと、やめようと思うことは明確にちゃんとやめることができる。最近、3か月前ほどから良く歩いている、一回に目標は6500歩として設定しiPhoneの歩数計アプリではなく、専用のアプリをダウンロードしてホーム画面に表示される設定をし、パッと確認できるようにしている。最近渋谷から自宅まで歩いてみて、こんなもんかと思って、やっぱり時間さえあれば歩き続ければどこまでも行けてしまうという事実は自分にとって完璧で嬉しいことなんだと改めて思う。急がず焦らず、疲れたら飯を食ってまた家に着くまで歩くだけ、途中で行きたい店があって休みだったり、汗かいてるからまた余計に汗かくだけだからやめようと思ったり、色々な考えをしたり。肘を曲げ胸の高さまで上げて肩甲骨を引き寄せるようにして、ザ・ウォーキング中、という姿勢で。向こうからくるウォーカーにも、ウォーカーだと認識されていると嬉しい。ウォーカーはウォーカーがわかる。自分と属性が同じ街の人がいると嬉しい。

    下呂に住んでいた頃に、大量の鈴虫・コオロギを二階の物干し場で飼っていた。家から歩いて30秒の放置された駐車場に雑草がコンクリートの脇から繁茂し、その奥には赤茶色に錆びたトタンのこれまた駐車場、こちらは使われているものでそこの笹に似た背の高い草たち、猫じゃらしなどと合流している場所。無限にいるからいくらとってもぴょんぴょんと跳ね、音は鳴りやまず、夕方のチャイムが鳴る前後から最後暗くなるまで取り続ける。姉はもうその頃は虫が触れないようになっていたのだったか。自分はまだまだ虫なんて全く怖くないと、そんなことも考えていなかった。ドクダミの香りが嫌いであった。ドクダミは陰気な場所に繁茂し踏むと、踏む前から、こちらの性格や能力を判断しているかのような冷静なる香り、または友達の家の奥暗く、老人の部屋独特の湿気と暗さ。そのほか、子どもの手や顔を簡単に超えるサイズのやけに大きく、これもまた臭う、産毛の生えた緑色の葉っぱ。これはやわらかく手触りもよく小石などの拾ったものを包むのに適している。オオバコ、という名前が思いつくが、今調べると全然違っている。オオバコは特に大きくない。これら周囲にある雑草、建物の脇や、建物同士の間には雑草が生えていて、私たちはいつも雑草に取り囲まれて遊んでいた。

    いつかの遊びとしてめちゃくちゃ流行った、誰かの家の青い大きなバケツ(今調べると恐らく20ℓ程度のサイズ感)を誰かが持ってきて、そこに水、これも誰かの家の水だろう、なんとなくであるが自分の家ではない気がする。自分はそういう他人と遊んだり喜ばすことに関して積極的ではないし、自分の家に他人の野外アイテムを持ち込む、ということを許されていない気がする今も。単純に汚いと思うし、玄関まではギリギリ良いがそれを水場までに運ぶ、それまでに何かミクロな細かいものが落ちてくることは間違いない。それで気が付いたときには既に自分の制御下ではない何かがしっかりと繁茂していることが恐ろしいのだと思う。だから僕は制御を求め、できる限り制御したい思いはありつつも、制御できない状態を求めている、という全ての人が甘えている自覚に至る。「言い訳」という言葉には「ひとまずの延長」という現況の保留以外に、意味や効果はどこにもない。

    玄関のたたきからの高さは50㎝ほどでしっかりと座れる高さで、今もそのくらいの高さがしっくりくる。高さがある程度ないと靴紐を結んでも歩いているうちにすぐに解けてしまうのはなぜか、今の家は2㎝程度の高さしかないため、ほとんど玄関とは言えないから、必然的に中腰で靴紐を結ぶか、腰骨あたりをついて体育座りの要領で靴紐を結ぶが、これは不自然な姿勢であるから中腰で立ち姿勢に近い形で結んだときよりも高確率で解けてしまう。歩きながら靴紐が解けるからその解けるメカニズムというか流れについて考えるんだけど、「歩いているうちに力がかかって緩む」ということ以外に考えが及ばない。だから最初の結ぶ段階の姿勢が理由として最も大きいのだろうと思い当たるから毎回履くたびにいつもそういうことを考えていることをもう一回また考える。立っている時の足の位置と力の入り方に靴紐の締まり具合が掛け合わさり、結び目の位置などもあいまり、解けるのかどうかが決まっている。少しでも緩みだすと、このまま歩ける、というのとこのまま歩いているとどうせ…とそのことばかり考えてしまって楽しくはないだろう。最近買った靴はどちらも紐靴で、薄く平たすぎる紐と丸すぎる紐であるため、どちらも解けやすくなっている。メーカーは適正なる厚みと摩擦がかかる靴紐にせよ。夜歩くときは音楽を聴きながら歩いている。そのときに聞いているNightwalksというプレイリストを共有する。

    そして玄関をあがってまっすぐ突き当たりまでは幅1.2mほどの廊下が8mほど伸び電気をつけないと暗い。突き当りには大きな絵がかかっているか、物置になっているか、いやそれは二階の廊下の先か、あるいは玄関入ってすぐの…。その大きな絵は砂壁のように砂が全体に貼られていて描かれその中に草、現実の草か描かれたものかはわからないが、が在る。その絵が砂壁の印象から好きでも嫌いでもなかったと思う。砂壁にはふざけ合っているときに腕を擦って擦り傷になったことが数回あるからあまりいい印象がない。湿気などを吸う効果があるのだろうが、良い物だとは思えない。一階の廊下の突き当りは暗いから覚えていないからただの壁なんだろう、なんといってもそこが風呂場への廊下だから、絵を飾ったりはしない、違う、ディズニーの『ふしぎの国のアリス』の大きなジグソーパズルが飾ってあった。縦長の縦80㎝はある大きなジグソーパズルのトランプや風船、騒がしい画像。父親がキャバレーのような場所でバットマンのような革製のヘッドギアを付けタバコか箸かを鼻の穴に突っ込んでいる写真。そこを90度に右側に入るのが風呂場で、洗濯機や洗面所、バスタオルやパンツなどが入る立派な箪笥などが置いてある脱衣所は6畳程あり広々としたものだ。廊下の突き当りの面の奥に広がっていることになる。その風呂場は昼間の光が入る、外に面した窓があり、窓を開けていると湯気がお隣さんの家の庭に向かい、外の道からも見える。

    休日の昼間に外からその湯気をみることはとても幸せな時間だった気がする。そんな場面は実際にあったのか、あった気がするのだ。休日の昼ではない、平日の夕方、夜になる前か。家族の誰かの存在を外から間接的に知る、と状況を解説してしまうとその気持ちは冷めてしまうが客観的。風呂場の床は深い青色の1㎝四方くらいのタイルが敷き詰められていて、風呂桶は薄めの水色。風呂場で小便をするなと言われたりして良いとも同様に言われていた。その風呂場に入る前の風呂マットの横、隅っこのカビの生え方を日々観察していた。点々と広がるその様は昔飼っていた犬の正常な状態ではないだろう乾き切った右脚の肉球のひとつ、の見た目によく似ていた、とそれ以外のものには似ていない様でもある。その肉球の様子も思い返すたび日々観察していた。メロンの網目模様をみるとそのカビと肉球を思い出す。記憶には良いも悪いもなく、感情がそれを都度判断している。

    先ほどのバケツには様々の雑草を水につけて「ジュース」を作る遊びだ。大きくて先のとがった石や、木の棒などで草を潰して色と臭いを水に出し、それをその後一体どうして遊んでいたのか。作ることしか覚えていない。ペットボトルとかがそんなに普通に誰もが持っていなかったと思うから、どちらかというと紙パックの方が確かにしっくりくる、ジュースなので容れるとしたら紙パックだ。紙パックには容れたと思う、そこまでだ。そうなるとそれを握りつぶすことでぶしゃっと放出するのだろう、そこで終わり。決して嗅ぎはするものの飲んだり、飲ませたりはしていない。

  • 合唱

    Apple Musicに変えてからブラウザでしか使えないと僕は認識しているディスカバリーラジオのような機能で佐野千明さんの2019年の『光年』が流れてきてなんか夢中で何回も聴いた。「今眩しくて」という曲はみやじさん経由で誘われたイベントでバンドで一緒に演奏したから少し妙な味わいのあるベースラインを覚えている。

    「サンダル」、「やさしい魔法」、「きれいな模様」、「秘密の」、「朝7時」 などは特に気に入って繰り返し聴いた。ゴールデンウィークのロンドン旅行から帰ってきてなんか時差ぼけなのかうまく寝れない日々とまあまあの仕事の量、別にそんな大したことはないんだが、思うように寝れていない時は気にしてしまう。あとは毎日めっちゃ歩くようになってからなんか気分はあがらないが健康みたいな日々のなかで仕事しながら流れてきてそんな状態にこのアルバムに結構救われた日があった。

    誰に言ってんのかわかんない感じの言葉がすっと入ってきて、ん?なんて言ったの今?なんかすごい良いことを言った気がするんだけどという歌詞が散りばまっている。Apple Musicだと歌詞表示が出ない。今近くの公園でもやや肌寒いが半袖Tシャツで寝そべりながら聴いてる。「やさしい魔法」は自分以外のものと共同する怖さや不安と期待が満ちていてグッとくる。「朝7時」は知らない色んな後悔と諦めが溢れていてグッとくる。

    「今眩しくて」のような合唱曲があったらいいのにと思った。合唱曲の全体が目指すのは、大勢が一緒になってやることが目指すことの大体は結局は集中線の先にある消失点のような光だろう。存在がグワーッと盛り上がりそれが持続していったどこかの点で、スッ…となくなることを目指された合唱曲はかなり泣けるだろう。

    そんなようなことが最近2回目読み終わったフラナリー・オコナーの『賢い血』に書いてあったからそんなことを思う。あらゆる点においてお互いが常に優秀、秀でてあることを競い合っていくことが人間の悪であり性質であると思った。賢いと相手に思わすことができれば、自分自身が世界の側からきっと大切にされるから、という弱さといじらしさと気持ち悪さがあるから人間は大変なんだろう。賢い血ではやっぱりイーノックが好きで、イーノックがゴリラと握手するとこ・実体的に世界・他者に依存できる期待感の端っこくらいを感じた瞬間に派手に裏切られるところが1番好き。そんなもんよ実際は。

    『There will be blood』も何回目かわからんが最近また観て、賢い血から感じたものをこの映画から感じた気がするから確かめたんだった。自分が正しいと信じるものが他人のそれとは違う、ではどうする?っていうのが宗教とか色々なところの起点であるなぁと何度も思う。賢いっていうのはまさにその状況を表す言葉だと思う。僕の辞書にはそのように解説する。多分そのような勘違いから抜け出した、普通を目指すのが良いことなんだろう。

  • 様々な事柄

    様々な事柄

    ここにみられるは日々の観察による様々な事柄だ。メモに書かれてあとに読んで楽しんでいる。これらの事柄にはこれといった提言はなく、気になったり、気に入らなかったりするあれこれだ。大体のものごとや考えには順序やパターン、流れや根源的な理由などがあって、そこに目を向けることで全く違う時間・場所においてふとしたときにぶつかりがあって、ちょっとした広がりやいい流れ、深み、健全さ、あるいは正しい反応として転じる可能性がそこにはあると思う。振り返ってみよう。

    • お店にいるとき、店の奥・厨房の中で食器が割れた音がした。その一瞬後あるいは数秒後の「失礼いたしました~!」という声。これを心の底から「失礼した」という気持ちで言っている人はいない気がする。何なら楽しそう。
      • まずここにおける失礼の対象は普通に考えれば「その店にいる客全体、あるいはその場の雰囲気」だろう。だけど、それは顔のないお客様全体やその場の空気感に向けていて、その場合は心がこもらないのは当然だろう。ないし、心をこめなくともよいと思う。
      • 失礼しました~!と大きな声でいくのだから、「お店側」が対象の反省だとは考えにくい。罰の可能性はあるが、それであったらもっと酷い掛け声にしないとその意図は達成しづらいだろう。
      • 「割れた食器自身、あるいは食器の作り手」に対してではどうだろうか。これは日本的な美しい感じがして良さそうだけど、大きな声でする必要はない。心の中でそう思うべきだろう。
      • 商売の神的な存在に対してはどうだろうか。これは何かいい気がするぞ、その手前あたり、やっぱりグラスや皿が割れたとしても全体にちょっと楽しそうな気分が感じられる店はとてもいい店だと思える。何かちょっと落とすような、おちるような。
      • その瞬間に店に存在する各アクターの捉え方次第で商売というものが成り立っていく。
    • ママチャリのライトが斜め45度で向かいのマンションをギャラリーの中の照明のように照らす。
    • 最近のチャリンコのライトのルーメンが強すぎ、向かいの目をやりに来ている。
      • 二点をまとめてみますと、僕は自転車のライトが気になるのだろう。1点目は美しく、二点目は嫌な気持ちとして、両方とも強すぎる光への感覚を表しているのが特徴だ。
      • 一点目、そのマンションは全体が白くて蘇鉄が生えててなんだかリゾートのホテルみたいなクラシックさが好きなマンションだ。その白い壁が夜、前を走るママチャリのライトによってぶわっと浮かび上がって青白く、それはそれは美しいと思ったわけ。
      • 二点目、これはおとといくらい、最近チャリンコライトはルーメンが必要以上に、軍用レベルの明るさを持っていて逆に危険だし不快だ。明るさに弱い目を持っている(レーシック手術をしたためだと思う)からことさらにウザいと思う。僕自身はチャリンコに乗るときはライトの設定を控え目の明るさに設定している。点滅機能は普通の道では使わない。車通りの多い複雑な道でたまに使うくらい。最近のライトは点滅もヤバい。点滅の間隔、フリークエンシーが異常であり、軍用の何か技術が適用されているのではないかと思う。ビビビビッととんでもない間隔で点滅するライト、これは「一体なんのため?」と考える暇もないのか、持ち主は大体非常に涼しい顔をしている。
      • 小学校から中学生のときくらいまではママチャリがあたりまえで、当時はガコッとタイヤ横についたライトの機器を倒して、タイヤの回転で発電をするかなりエコなライトが主流だった。これがまた切ないくらいに電球なもんだから今にも解けそうな弱い赤色になったりして、それを当時も切ないとか思っていた気がする。
      • チャリンコのリアタイヤのハブの部分には「ハブ」という棒を取り付けて2人乗りができるようにするのが鉄則だった。2000年代の東京都北区だけの流行りの可能性はある。そして後ろに乗る荷台には、クッションを巻く。これは簡易に設置されているため、良くパクられるため、顔も知らない地域の同級生くらいの奴らとのお互いにパクりパクられの抗争は絶えなかった。
      • 2人乗りの乗る側の快適を追求することは、非常にヤンキー的な価値感が表れているな。独特な厚かましいまでのホスピタリティとその顕示。
    • フリーメーソンはイベントの照明を発注するほどに、存在している。
      • 歩いて一駅にある立ち飲みで知り合った親子は娘さんが大学生で母親と来ていた。娘は面接とかにすぐ受かりそうなキレイな感じで、話すとずっと部屋できつめのスプラッター映画を観ているらしい。とても素敵だと思いそれを伝える。
      • 母親はマダムな感じで、ワインがとてもよく似合う。娘さんを褒めるととても喜んで、もう一件別の店で飲むことになった。近くに良いワインバーを知っていますよ、と言って連れて行ったがそこはもっと気楽な立ち飲みでワンコインで飲める店なので、ちょっと間違えたかなと思いつつも、親子は楽しんでいるようでよかった。
      • 母親の職業の話になり、照明のデザインなんかをやっている、という方で、最近のクライアントはフリーメーソンよ!と言ってて笑ったが、色々見せてもらうとどうやら本当のようで、フリーメーソンは存在していた。照明を発注するほどに。
      • 娘さんのスプラッター好きにもなんとなく納得したわけである。母親とは何故かラインを交換し、その日解散した後、ごくごく丁寧なごあいさつをくれて、僕も返した。その後は連絡を取っていない。また飲みに行きたい。
    • 「富士見」スポットを無限に繋げれば、町の風通し、綺麗な食道のようになる
      • ちょっと長めの散歩をすると、大体の土地ではやや高台にたどり着くことができるだろう。あるいは二駅かそこら足を延ばせば。大体の日本人は富士山に特別な思い入れがあるし、実際遠くにある富士をみればどんな人間もある種の感慨が湧いてくるだろう。それくらいに確かにでかくて、でかいものはどこからでも見えて、変わりゆく街並みに違和感、その中で富士は開発されることない安心と感慨をくれる。
      • 「富士見○○」というスポットはマップアプリなどで調べればいくつもでてくるだろう。ここは富士が良く見えるなあと思った人が、知り合いやちょっと好意を寄せる人や通りすがりの他人に、今日は富士がよく見えますねえ。と言い続けていつの日にか、ここを「富士見坂」と名付けましょうとなるわけだ。
      • その場所の特質がついている地名というものは大変ありがたくて、その名前をみるだけで期待感をもって眺めを探すことができる。月見台、音無川、霞ヶ丘、などなど、おっと思って違う態度をとることができる豊かなエンタメ。
      • 富士見ってつくからには高台にあって、ばっと眺望が長くとれている場所だろう。だからそれを繋ぐ風の道、パイプを想像するときっとそれはちょうど綺麗な食道のようでそこを泳ぐように通れたらさぞかし気持ちかろ、ということだ。
      • 水泳に関する本で読んだ、クロールを泳ぐときの左右の身体の回転、頭頂からつま先まで通る軸を基準にした回転は、ある透明なパイプを突き進む、というイメージは泳ぐたびに、マジで毎回毎回毎回思い浮かぶイメージで文字と比喩の威力を感じる。そのイメージで富士見パイプラインを泳ぎたいのだ!
  • 眠いまま寝られないこと

    私の不眠は偶にくる、月に大体で4日くらいで、丸々寝れない訳ではないのだけど、3時とか4時、5時まで眠れない。寝れない。どうしても寝れないときがあるし、それは眠れなかったときでもあるのだから、どっちでもいいと本当に思うから、自分の書いた文について『眠れなかった』『寝れなかった』という言葉遣いについてなんかしつこく指摘されたとき、こいつは本当にどうしようもない奴だな、とその時思った。何となく眠いのだけど、寝れないことが偶にある。

    満月のせいだとして気楽になっていた時期もあるし、実際そういう人もいるだろうが、一回ばっとカーテンを開けたときすごく綺麗な細目の三日月だったことがあって自分の中ではこの原因はなしとなった。どのあたりから不眠というのか定かではないが、ゆるく眠れず、4時5時から9時まで寝て起きる日がある。このかといって昼間までぐっすり眠れる訳ではないところがまた…。

    明らかにこれは二十代前後にしていたアルバイトの夜勤が原因なんだろうと思う。セブンイレブンで夜勤をやり、いまはなき「こどもの城ホテル」でホテルフロントの夜勤を長年やってきた。セブンイレブンでは当たり前に寝ることはできず、船堀駅前店の店長は検品から帰りデバイスを下げたままレジ確認に入りつつ立ったまま寝ていた。単にすごいな…!とその時は思った。ホテルフロントではマリークワントの会社の女性たちがバッと泊まったり(おそらく社員研修があったのだろう)、インド人からカレーを温めろと言われたり、真夜中の一個上の真っ暗な研修室があるフロアを含めた恐怖の見回り(階段を使ってフロアを行き来するのだが、非常照明の赤くて赤くて…、怖すぎる)があったり、手作りの朝食券をいかにして効率よく制作するかを考えたり、社員とペアで勤務する中でクセのつよすぎる人と組んだり、大好きな社員さんとテレビみながらよもやま話をしたり、社員さんは24時前後には仮眠室にいく。その仮眠室に行くタイミングが早い人ほど好きだった。特にその点が、他人との交流のセンスが表れていて、さっと作業を終え仮眠室に行く、たまになんかおかしくれたりする、その人が好きだった。逆にずっとテレビをみていて(仮眠室のテレビはかなり古い?確かあったはずで映像が暗い、ブラウン管みたいな…、そのはずはない。)なかなかひかない。早く行けよ…!と思いつつ、大体やることないからね、朝食券を無駄に多く作ったり、ネットで予約来たのを何故かプリントアウトしてバインダーに保存する作業をしたり。

    それで社員さんが仮眠室に行った後は、私だけになる。基本的に夜フロントに人が来ることはほとんどない(インド人の夜のカレータイムとかそれくらい)から奥のソファーで寝る。ただしベルがなる可能性は大いにある(酔っ払いカップルが当日泊まれるか?と来たり、断固断ることになっていた。)ため完全には寝ていられない、そして5時とか6時前には社員さんは戻ってくるので、これもまた完全には寝られず4時半とかにアラームをかけて仮眠する。この曖昧な眠りの断続が今の私の程度の不眠を作っている。さらに最近は「ミラグレーン」を飲んだときは寝つきが特に悪い。酒を飲んでいなくてもそうなのだから、肝臓が休まらない場合は眠れないのだろう。

    眠れない時間はシオランの『生誕の厄災』を読んでいる。この人もまた強い不眠だったようで、夜のルーマニアの街を徘徊していたりして色々考えていたそう。だからこそ眠れないときに読むものとして最も良いと思う。

  • 『MYSTERIOUS SKIN』を観て

    思い出すきっかけが与えらえれることで、見事に思い出し、思い出した記憶によって、今の自分がその時失われた正しい反応を取り戻すように、直感的に安心できる他者に寄りかかり、身体を震わせ、涙と唾を垂れ流し、怯えることができてから、本当はここからどのようにして「健康で文化的な最低限度の生活(と言われている、僕はスタート地点としてこれはかなり良い定義だと思う)」を始められるのか、というのが非常に難しのだろうが。

    実家に久々に帰る直前、親友のすすめで最低賃金でのバイトを始めた日(バイトをしようという意思を確認できたときの親友の顔、本当に良かったよ…。)に、それが起こるというのは想定されるべきドラマではあるが、核心をついている。どのようにして認め、立ち直るのか。

    晶文社スクラップブック『フェミニズムでは救われない男たちのための男性学 藤田直哉』の今日までの最新回まで読んでいるが、ここで書かれていることを考える。

    悲しいことであるが、「男性性=支配・犯す側」を回復するために、性虐待の加害者になる者もいる。それを「吸血鬼神話」として偏見を助長するのだと批判する向きもある(宮地尚子)。『性的虐待を受けた少年たち』によれば性的虐待を受けた男性のうち12%が加害者になっている。『少年への性的虐待』では、若い成人男性の加害者を調査した結果、80%近くがかつて虐待を経験した被害者であった。逆に、子どもの時に虐待を受けた者を調査した結果、その後虐待者になったのは20%ほどであり、80%は虐待者になっていなかったという。多くの者は虐待を再生産していないのは事実であるが、この数字をどう解釈するのかは難しいところである。

    (「第九回:男性の(性)被害──「男性差別」「司法の女割」を考える」より)

    この映画で描かれるセクシュアリティを過度に美化・異化して自分との違いを強調したいわけではないが、これもまた本能的あるいは社会的に作られるものとして理解できる。しかし、それは幼少期にある人を対象とする場合、あるいは同意が得られない相手を対象として実際の行為が行われることは、とんでもない悪であるということだ。そこをセーブができないものは、どのような原因があるにしろ、(かなり厳しいことになるだろうが)その原因と向き合う手段や機会を持ち、色々なことを考えて、治療や乗り越え、先の記事であがっていた「解離」状態からの復帰をどこかで、誰かによって、自分によって、しないといけないのだろう。きっと誰かがそこにいないといけない。

    原因のないものに対しては、「ダークな性質」を持つものに対しては、どうするのか…、そもそも生まれつきそのような人はいないだろうと信じたいが…。とにかく、その同意(快不快、楽しい楽しくない、好き嫌い、という原始的な反応ではなく、自分にとって本当に良いことかどうかを客観的な対象として考える能力があること、あるいはそのような環境にあること)が可能ではない対象や状況に対し、行動を制御できない人間というものは、あらゆる意味で悪魔である。

    自分の性癖的なところにも向き合う必要があるが、ここでそれを書くことは絶対にしないしする必要はない。誰にも言うべきことでないことが必ずある。僕はよく飲み過ぎてしまうことがあるのだけど、その時何を求めているのだろうか、何に対応しようとしているのか、単に考えないためにしているのか。自分が負った傷や違和感、もしかしたら解離して捨て放った記憶というものがあるのかもしれない、と怖くなる。だからあの時とか、自分の中でなんか変な状況とか、日常とは違った環境に置かれ、年上の人と過ごす必要があったときのことをもう少し思い出してみよう。何も思い出ない。

    自分にできることといえば、自分を無為にしないこと、小さな子への目配せをすること、年少者への男性性を振りかざさないこと、自分の中の男性性と女性性をどちらもことさらに否定しないまま捉え考えること、自分のされた行為や態度、状況設定を必ずや繰り返さないこと。過去を変えることは絶対にできないが、過去を頼りに、繰り返さないことで、何かが変わると思う。

  • 運命から離れていき取り逃がしやすくなる

    『天国の日々』をみていて、汽車が動き出してから、残る知り合いと惜しみつつ離れ、急ぎ出す、その急ぎ出す雰囲気からすぐに汽車が動き出すことを知る 汽車が動くから、それに合わせて動き出して、人と離れる、ではなく、汽車が動き出しつつあることを感じつつ、残る人と離れつつ、汽車のドアを見定めつつ乗り込む、という全てが地繋がりしていることをみて、これはもう動かしようのない、ちょうど運命ということだろう、と良い気持ちで運命を感じた。だからそこにヒントがありそう、自分でも考えてみたい、とそう思い、その後のイナゴのラッシュも、ああどうしようもないとどうしようもない運命ということでしか救われることのない間柄ということがあるなぁと思ったのだ。今はどうだ、バスはアプリの予告時間をすぎるが、停留所の電子掲示板にはあと何駅でやってくるということが記される、スマホを見ればそれこそいろんなことができる自分、を常に感じていられるだろう。コントロール化にある小さな世界を手中に、まさにこれこそハングリー精神、ステイ・フーリッシュ、ホール・アース・カタログである。やりたいことを勢いがつくことでどうしてもやってしまうのが他人であり自分なのだから。カタログ化、デジタル化するのは、おそらくどこまで行ってもつきつめても、「持て余してしまう」、やればやるだけその分「手に負えない」ことが増えていくことを知る場合は良いことだ。それ以外の場合、その分運命やイナゴによる自然からの自浄作用・救済からはどんどんと離れやすくなるだろう。ある程度はこの世は自分の手の中にある、常に視線はその自分の手の中の光、あるいは真っ暗闇に注がれているから、かなり外は見えやしないだろう。通知、アラーム、着信は続くだろうが、それらは全て人が人であるため、コントロールするために表示され鳴るという単なる事実を忘れない、通知、アラーム、着信、これらは元々あったもののデジタルな代替だから、たまにはその元々にあったものに近づくことで、よりそれらの代替をより良いものとして活用する、より良く活用すること以外に人間が果たすことはあまり考えられないのではないか。

    通知、警告、忠告はこの映画でも使用人から複数回登場する。「地域で一番の金持ちです。このあたりでやめとくんですな。」「私には嫌な予感がする」「私にはわかっているからな」、ドラマであるのだからそれらは当たり前に無視されてそれぞれひとつひとつに対応したカタルシスが起こり新たな段階に進んでいく。通知、警告、忠告は無視される可能性が大きく成分として含まれている。受け止めた上で決まり、制限を超えた可能性を試す、そしてわからない生き方に向かうことができる。現実はそうはいかない、火事はいや、人間関係も仕事も身体もできる限り良い状態を保ちたい、当たり前にそう思うから、だから映画を観に行って考えるんだと思う。

    あるいは警告や通知、指示や忠告を軽やかにやり過ごす、あるいはそれらを一旦真に受け入れ聞き入れ、そこから取り戻しやり直すは自分の態度・行動。見た聞いた事実には抗わない、その場その場で考える。汽車に乗り込まなかったらどうなるのかを想像したり、映画館からの帰り道、最寄駅に降りてから自分の家への見慣れた道を、どうして見慣れた、と感じるのかについて、いつか見慣れたものが初めて見たように感じられ、それはとても気づかないが恐ろしいだろうなと思う。見慣れている道に無限にある、普通にこれまで見たことのない場所、箇所、生えてる雑草と私の関係性はなんなんだと。

    指示に従って行動するのがとても得意だと感じるし、誰かが良いと思うもの、薦めてくれたものを良いと感じる、逆に良くないと感じることが得意だと思う。この人に今こう言うふうに言ったとしたらこんな風に喜ぶだろうなと実際に行動はせずに頭の中でその人と離れてから思うこと、それを思いつつ別の場所に行き、次の場所ではその場所に応じた考えや行動をしていることはとても健全な気分を作る。東京のこちら側には富士見坂と呼ばれる坂がたくさんあり、それらは小高く風が吹き太陽に晒されるからあまり人もおらず。面が広いベンチで横寝をしている初老のよく焼けた男性がいる。太陽は構わない、横には彼のロードバイク。どこから来て、なぜここでそんなにも本気で寝ているのだろうか。仮説はいくつか、ただし一生わからないのだ。

  • みる喜びとみられたい気持ち

    ヴァレリア・ブルーニ・テデスキの『フォーエヴァー・ヤング』という映画をJAIHOとU-NEXTの両方を使って観た。家のテレビではJAIHOが観れないから、部屋でパソコンで観るときはJAIHO、テレビで観るときはU-NEXTで観る、U-NEXTはどちらでも観れるがパソコンを使う時にはU-NEXTではみない。テレビあるいは、湯舟につかるときはU-NEXTである。

    U-NEXTで最近『コードギアス反逆のルルーシュ』をシーズン2まで一気にみた。パチスロのコンテンツとしてルルーシュ、C.C.(シーツー)、カレンなどのメインキャラは知っていたが、カレンやスザクが敵なのか味方なのかは理解していなかった。こいつが負けて、なんで当たりじゃないのか?、めっちゃこっち側っぽいスザク(その時は名前はしらない)が勝利しているのにハズレなのか?と思っていたが、まさにそういうアニメであったからそれもそのはずであったのだ。ルルーシュはいまもまさに我々の中にいる、自分の中にいるREVELを絶やさず、二項対立に留まらず、使役関係を乗り越えた先にある孤独を抱える。

    U-NEXTでは『モヤモヤさまぁ~ず2』も最近飯を食いながら、よく見ている番組。もともと好きだったのはずだけど、田中瞳アナになってからさらにかなり良いと思う。『秋山ロケの地図』も良い、住人が白地図におススメの場所を記載していく、というフォーマットがすでに良いんだけども、やや秋山さん(私はかなりファンである)のスタイルがずっとアゲな調子でピークを毎回持ってくる、そして意外に本人は控え目な素顔もみえたりするところに、心配や疲れ、などを個人的には感じるときもあるのだと思う。モヤさまについてはそのような心配・疲れは構造上あり得ないのではないか?と思う。さまぁ~ずの二人と田中瞳の作り出すものはそもそもが「どいひー」なのであるからして、真っ向からの面白さとか感動や、あるいはだからこそ本当の「酷さ」からは最も遠いところにいるだろう。「スベる」ことも発生しない、そこにあるのは「おすべり」である。「なんなんすかねー」という気持ちでみていけば、「主観」としてあらゆるものは素晴らしくもない、何となく笑っていられる状態だろう、なんでも話していいような、それとなく誰も話を聞いていないような、ことさらに真剣さを伝える眼差しもいらず、空気のまろやかさややわらかさ、日差しの心地よさに目に入ってくる緑色、美味しいコーヒー、綺麗なトイレ、あこれも話しちゃおう、に包まれるといいのに、いつも。

    『フォーエバー・ヤング』は1980年代後半のパリの演劇学校の試験としての選抜オーディションから始まる。主人公の若い女性は演劇を志す理由を聞かれ、「日々の生活に若さを無駄にしている気がしたから」的なことを答えるのだが、まあこれはいけすかないなと思いつつ、今も非常に印象に残っている。この映画に出てくるメインの人々は老いも若きも、指導者もそれを乞い求める側も、この言葉に溢れているから、ドラッグに手を出したり、怒りをあらわにしたり、人前で演じる、気持ちを表象し伝えてそして他者の中に自分発の感動を作りたいと思っているのだろう。どうしようもなく舞台に立って視線を浴びないといけない、そうしないと生きている意味はない、と真剣にそう思うことが実際に可能であるのだろう。その時代にはそういうことが実際に可能だったのだろう、とどうしても思ってしまう、スマートフォンのなさ、携帯電話のなさ、パソコンのなさ、他人から畏敬を湛えた眼差しによってみられることがとてもとてもあり得ない、稀有な状態であった時代だ。今、これまでの欲求をみるとうざったいなあとか、しんどいわあと思うが、結局はその状態の根本の太さや大きさは変わっていない、ただそれが現在日々の活動によって小出しに薄まり、小出しに満足し、濃度や深さを薄め溶けやすく分子の容易に離れやすいものにしているのだろう。とんでもなく単純な想像ではあるがきっと。

    『シンシン/SING SING』はガール・フイナムの連載である「Girls’ cinema club」で紹介されていたので知って観にいった。映画の情報として非常にありがたい連載である。この映画もどうしても演じることや、演じることに対する思いのぶつかりあい、見られることの必要性、簡易に「見られ」を可能とするメディアからの断絶(この映画は刑務所内の演劇サークルの話)が描かれる。正直言ってやはり想像通りの話の運びではあったものの、それぞれが思い描くプロット、演じたい方向性など、バストリオのワークショップの体験を思い出した。全く形と目的は違うものの…。おそらくバストリオは演じることを目指してはいない、ただそこにあってそこに表れたり表れつつあるそれと観る側に起こっている今まさに、それは今まさにの現在地を超えてしまって遠くにも同時に通じてしまうことだ。前も書いたか?と思うが、川にいる鳥をみているときに、人間の生活とは関係のない時間軸に、でも確かに同じ時と場所にいる存在の、単に在ること、いてくれているとか、どうしてもこっち側のメリットとしての表現になってしまうのだけど、いることへの嬉しさ・喜びを感じる。そういう喜びをバストリオの舞台には感じることがあったりするのだから。そこにはその「若いからどうの~」みたいな欲求ではない別のものとしての演じることがある気がしていて、単にこの演劇で人間性や創造性を回復したり、なんらかの良いこと良い結果を求めてそれはプログラムとしては素晴らしいことなのだけど、そういうところにはあまり共感はできないのだろうなと思う。こう、なにかを伝えるため、自分の感情や想いや記憶、伝えたいことを伝えるため、という表象に対してはもう私は「勝手にやっておいてくれ!」と特に関わりたいとは思えない、ただしこれは今はそう、というだけなのかもしれない。

    さらに最近観た傑作、『ここではないどこかで』がある。アメリカ黒人傑作選という特集、これもGirls’ cinema clubで紹介されていたから観にいくことができた。この日は他に何をしたか、全然思い出せないが、映画の内容については、イメージやセリフがすらすらと湧いてくる!不思議。舞台という人間がこれまでに作ったもののなかでも偉大な発明装置。この前アキサトから聞いて気になっていた黄倉未来さんのフリースタイル落語の「芝浜」も偶々見ることができ、それもまた特に舞台、また違った舞台。かっこよかった。『ここではないどこかで』で繰り返し出てくる「恍惚・エクスタシー」という言葉。実際はそんなに出てきてないか、派手なもの、賞を獲得したり、何かを代表したり、舞台にたったり、栄光を手に入れた後のいくつかの期間、ハレの状態、躁のとき。その状態にある張本人はマジで素晴らしいのだし、それが周囲にも素晴らしさを伝播する、関係者は特に利益を得やすいと思うのだが、ここから先は自分にも言い聞かせている、この映画で批判的に観ている時は自分にも言い聞かせていた。特に非常に近くにいる人にとってはその輝きはウザい、キツイ、嫉妬、輝きに対する嫉妬を持つ側というのは非常に辛いものがあるということをなんとか刻みたい、というのもそうあるときの人間というのは最も「酷く」なれるからだ。簡単に敷居を跨ぐことができるし、そうするのが当然だと省みることなく考える間もない。現代のこのような簡易な見られを作れる時代においても、特に舞台というのは危うさを抱えているということだ。私もこれから先、何度か舞台に立ち、人前に立って何かを表象する機会があることだろう。

    バンド活動を休止するという話し合いをしたとき、それまではかなり頻繁に顔を合わせ、舞台に立ったり表現をするということを繰り返す生活をしていたことから、それらのない生活というものに対して、ぼんやりと暗い不安を抱いた。実際始まってしまえば、その気持ちというのは全く覚えていない。他者の舞台を見に行くことがあっても、羨ましいなとは頭の考えとしては思うことができても、本気でも思うことはなかった。軽い気持ち、口に出さない建て前、というものもあると思う。舞台に立たない生活、のぞみんもポッドキャストで言っていたが、ただそういう生活が続いていて、いつ変わるかわからない、という状態がずっと続いていくだけ、というのは真理だろう。

    一昨日流れで府中のくらやみ祭りが開催中であることを知り、予定もせずに行ってみると、旧甲州街道に人並、そこを競馬式(こまくらべ)という馬が走るイベントがちょうど始まるとこであった。烏帽子を被った人間が葦毛の馬にまたがり道路を走る。「行きます!」という声。そのイベントが終わり、お囃子が聞こえてくる、移動する舞台装置、山車が来る。稼働する舞台装置は自走するから、こちらが追いかけない限り対象は過ぎていってしまう。目で追いかける喜び、全部を見られない喜び、見る人は変わる、みる対象もかわる。それぞれの町、それぞれが持つスタイルがありありと表れている。能のようなタイプ、獅子舞のタイプ、おかめタイプ、などなど。くねくねと舞う動きは、めっちゃやってみたい!舞台に立って何かの仮象となりたい!と強く憧れを持ったのだ。仮面、お面を被ってはいるが、踊りを真似する自分を見てくれていることが直感できる。面越しに合う視線は全く痛くもなく、逆に隔てられるからこその直感的な一体で。祭り、お面は自他をその平面で隔てることで、エクスタシーに対する妬みや負の感情を削いでいてくれるのではないか。そして贈与、対価・経済をいとわない、無意味な金の使いみちが無限にそこら中にひしめく中を回遊する祭りというもの。射的で当てたシャボン玉を喫煙所のすぐ近くでやっている、呼吸の相似も面白かった。喫煙中の母を待つ、父親、娘二人が見てきたので、あげるよ!とあげる。意外に直接的な接触のない、シャボン玉というおもちゃで良かったなあ。

    今朝夢の最後で観たから覚えている感想、「楽しいこと、興奮していること、興味を持っていること」を仮面もなしに、対面でそのままに表現してくれる人、というものは「大変にありがたい存在」であること。

  • 簡単で半端なこと(再考を求められてもほんとうはしたくない)

    吟味したり練ったり待ったりしすぎない、ある程度の部分でさっと満足・完了できるときの良さをいつでも忘れないようにしたい。だいたいのことは微に入り細を穿つことで良くなったりはしないと僕の場合はそう思う。ザクッと適当なところまで戻したりするとき一番楽しいし格好いいと感じられるしきっとそれがあっている。そうではない人達、最後の最後まで気を抜かず、極めていく人達へのリスペクトももちろんある。絶対にこの世はそのようなことが行われないと良くはならないとも確信している。私が単に向いていない、というだけである。これが「逃げ」や「諦め」、「無気力感の演出」ではあるのか。これらの態度はあってはならないものなのか?、道徳的には歓迎されないことであるのか、ということを考えている。努力と成長を続けることについて、仕事で関わった人とも最近話すことがあった。自分の安心や安全を犠牲にしてまで努力できない、という話、僕はとても面白いし共感すると思った。

    自分のこだわり、あるいはあるべき姿を追求する、完ぺきさを求めるというのはつまるところ「自己同一性」を高める、世界に対して自己同一性を求める、ということになるのではないだろうか。それが例えば仕事において、音楽や芸術作品などにおいては、世界に対して自己を提示する、そしてその表れつつあるものの自己との同一性を高めていく作業は発生することは想像しやすい。ただしこれは創造性を「現在の自己」のオリジナリティというものに重きをおいている場合の話だ。そうでない場合、例えば創造性を過去・未来のそれこそ世界に依っている人や団体があるとすると、この突き詰めは一体誰が、何のために行っているのか。世界自身の世界同一性を高める先に、それらに触れそれらを媒介する人間は何を感じるのか。そこには媒体であることでしかない宗教性が感じられそうだ。

    そういう意味では分かりやすい自己同一性をばら撒く人、というのは迷惑ではあるが、とても可愛らしくて愛すべき存在にも感じられる。敢えていい面を感じるとしたら、ではあるが。

    長い時間のはじまりを楽しめる豊かさ。これから来る時間をひとつの物体として重荷として捉えるのではなく、ひとつひとつ、あり得ないくらい細かいから連続としてしか、あるいはいつまでも「まだ来ない」がずっと続いていくような、それは音楽を楽しむ本来的な姿のようである。未来だけでなく、過去に向かっても、終わってしまった過ぎ去ってしまった、取り戻しようがないひとつの「若さ」「希望」「夢」ということを設定しがち、自分自身を「以前」や「先」に一人立たせて放っておいて勝手に祭り上げる、こういうのは自分への酷い行為だ。単純にもっと、いい飲み会、なんども繰り返されてきたようなそんな飲み会の昔話、こんなことがあったよね、いやなかったよ、という無限を繰り返す。そこは個別具体的でありつつも、普遍と化すような時間だ。

    いつかは自身の脚を折り畳み、目をつむるその時を、一人だけでは立たせないようでありたい。他は全て勝手にすればよいが、これだけは、私のすぐそば、一体としてすぐここにあるから、どうかそちらからも手を握り返してくれたら嬉しいと思う。このような思いはどこから来ているのかはわからない、単に個である不安とかなのだろうか。そのような短歌を詠みたいが、今は目いっぱいに今、そして思い出そのもののようなことについてのことしか思いつかない。しかしやる、時たまやる。

    長続きはほんとうにしない、このような時間は少しだけでもいい、涙がこぼれそうになっていると気持ちいい、その次にはひっこんでいる、本当にすぐ移行していく。次には欲しい服、綺麗に服をなんでも着こなしている人の写真や、当たり前に仕事がある。今は仕事が落ち着いているのでカメラを持って散歩がしたい。

    誰の目線でもない、カメラにしか見ることができない風景が気になる。最近本屋で手に入れたのがMark Cohen 『Bread in Snow』でこの写真集は、かなりパッと取っていて狙いのない。即興は目線と姿勢であるな。こういう写真を撮りたいから、そういうカメラが欲しい。

    これらの写真は、ウィルクスバリ(ペンシルヴェニア州の都市)の大通りや路地を歩いているとき、自分が見たものと自分との心理的な相互作用から刺激されたものだった。本書で最も早い時期の写真群は、これらのネガから焼いたものだ。1977年には、1年を通じてカラー写真に取り組んだ。このフィルムはジョージ・イーストマン・ハウスの事業の一環として、コダックが現像し、プルーフをプリントした。最後のイメージ群は、1987年に撮影したものだ。この年、私はフジ1600のカラーネガフィルムだけを使用していた。これは高速で撮れるから、素早く接近する私のストリート写真には最適だった。

  • 飴を舐める

    飴を舐める

    苦労を知らない奴はダメ・成長しない、弱さを知らないと強くなれない、健全な精神は健全な肉体に宿る、このような〇〇という条件を満たさないと〇〇という(善い)状態にはなれない、という説教臭さがとっても嫌いだから、実際のところはとっても大好きなのだろう。昔から言われてきた統計だから、占いって統計だから、とか一年目はまずは失敗してもいいからやってみることから、とか自分でも言ってて「これは全く借りてきたような言葉だなぁ」としっかり認識しながらそれでも構わず話していることが時々、いや頻度はわからない、頻度というものもそれをどの期間で切るのかで変わってくるからその頻度を使うカテゴリの共通の認識がある場面や対象にしかこの頻度という言葉は前提として使えないものだ。その背負いを「頻度」にだけあげるのは可愛そうである。どの言葉だってそう、そんなこととは全く無縁である、といった「普遍」という言葉にもこの前提は気づかない程度に実は産まれてこの方あり続けている肩こりのようなものと同じようにその存在は忘れられている、というか「前提」という言葉自体にはこのフックはかかってこない、唯一の逃げ場を持っているのか。言葉は全て、その他の全ての言葉を背負って、自分自身からは唯一の逃げ場だけ確保して、いつもやっているのか。そうか。みんなすごく偉いと思う。そういう意味においては言葉は人間である。

    なぜ言葉は人間であるのか?ではなく、何が言葉であり人間なのか?という池田晶子的問いの立て方に倣えばみえてくることもある気がする。「何」というこの真空地点。真っ白かつ真っ黒で、伸び縮み自在な〇〇。存在したり、存在しなかったりを繰り返し、成長したり衰えたり、意味や概要を変え、しかし一定に保つ部分も持ち合わせている。仮にこれをひとつの「飴」としてみよう。何を隠そう、私は飴である。飴が飴を求めるのは畢竟、私を私で包み込む(口に含む)とそういう矛盾に落ち着きを感じたいからなのだろう。外側と内側、外側と外側で、内側と内側で、あらゆる向きと長さと強さとに引き裂かれつつある私個人としては、自分の内側で、自分という存在を舌でたしかに確かめつつ、味や香り、その感触などを愉しんでいる。最も良いのは「内側で小さくなっていくのを見届けられる」ことだ。唾液やその他気温やスピードなど、制御できること・制御できないことは様々絡み合うが、そんなことは自分の口の中くらい、置いておいていいと思う。自分なりのペースで、その終いのときまでカロカロカロカロとやっていられること。だからといって終わっても悲しさややるせなさ、取り戻しようもないという目から光が失われ、景色も音も椅子も食べ物もしっかりと感じられていながらも何も感じていない状態(それをあまりない状況として楽しんでいるかのよう、とも思える)には全然ならない。新幹線からの夕日、全く感傷的である。ナンニ・モレッティの『息子の部屋』はかなり良かった。その映画の遊園地のような状態になりたくないできるだけ。その後の棺桶はんだ付けもかなり面白かった。

    かといって飴が終わった瞬間のこと、その瞬間に何が起きているのか?ということに意識は向かったことはない。なくなりかけの角張りシャリシャリし始めた飴は意識するのは容易い。しかし消えたときには今まさに飴を舐めていて、今舐め終わったのだなぁと感慨に耽ることもなし、向かい合って座った人の目に私はどのように映りどのように感ぜられ、威圧感、その足の開き方は俺を威圧しているだろう…、とかなんやらに思考の面積(ガチエリア)を奪われ座を渡し席を譲る。私は思考のガチエリア確保の各要素ではなく、飴らしくありたいものだ。どこにも代替できないような確かな感触を与えた割には、そんなことあったっけ?とすっかり忘れて他へと受け渡すような在り方。舐められてナンボ、という一言でもいいくらいである。

    私の好きな飴

    • ロッテ のど飴:飴と言えばカリンののど飴。これは直方体の角の感触が本当に充実感がある。満たされる。カドケシという消しゴムの角感だけを味わえる消しゴムがあったが、それはないだろう、と思う。角はなくなるから角である良さがあるだろう。
    • 大正製薬ヴイックスのど飴󠄀プラス ハーバルミントパウダー:あんまし売ってない、ドラッグストアで見かけたら買うべし。ネットでわざわざ飴なんてもんは買うもんではないから。こいつもまた、舌触り、口腔あたりがとてもいい。ハーバルパウダーのサラサラ感は他では味わえず、さらにその下のつるつるが通常以上につるつるに感じられてよい。早く食べたい。たまに見かけたら買ってる。
    • UHA味覚糖 e-maのど飴:定番。ただし、すぐにカリッとなるのはいただけない。もう少しツルツルしていたいといつも思う。
    • UHA味覚糖 純露:UHAは強い。こちらは独特のダイヤの角錐形状でカロカロ系。ノーマルなべっこうに加え、紅茶味がまじで完璧。ちょっと文化系な香りがする。純喫茶が好きな人にあげたら絶対に喜ぶであろう。ずっと昔に紅茶味だけの純露を出して欲しいとツイートした。
    • Ricola レモンミントハーブキャンディー:カルディなど輸入食品系のお店などでどこでも買える。銀座エルメスの映画館で入場時にひとつもらえて最高だと思った。今も貰えるのだろうか。それをぱくってバンドのワンマンイベントでも入場時に配った。みんながこの飴を舐めれば過ごしやすくなるだろう。
    • ロマンス製菓 塩べっこう飴:KINOKUNIYAで最近購入。イタリア・シチリア島産の岩塩がべっこうの色の中にゴロゴロと入っている。錬金術である。ベストヒット。

    こういった飴を家から出る前に口に放り込み、各バッグのポケットにはだいたい飴が入っている。特に電車に乗るときは飴を舐めるのが良い。思考を飴に変えればよい。

  • 『ダサいのコワい』何を知って、何を安心したいのか、そして消えていきそうな自由

    『ダサいのコワい』何を知って、何を安心したいのか、そして消えていきそうな自由

    ファッション関連の固有名詞を検索欄にいれると「○○ ダサい」って予測入力の候補にぜったいで出てくるよなあ。「GIベルト ダサい」「セダークレスト スニーカー ダサい」、これは実際に見た例だ。セダークレストは近所のスーパーの二階にある靴流通センターが閉店セールをしていて、セダークレストのスニーカーが1500円くらいで買えてなかなかいいんじゃないか、としかし通常の料金はどれくらいかと見てみたら、「ダサい」と検索エンジンに、ということはたくさんの人が検索した履歴に、ダサいよ!やめておけば?と言われた気分だ。買ったが、蒸れたので何回か履いて捨てた。もったいない。もったいないとは?

    そうではなくこれはどういう現象なのだろうか?ダサいのが怖いのだみんな。自分の選択には、大多数がダサい、と思っていないかがまず重要なファクターとなっている。日本以外でもそうなのか?英語やその他の言語ではダサい、「〇〇 wack」とか候補がでるのだろうか?? 

    哲学とは?、あるいは思考力とは?、本当の意味での考えるとは?みたいなことで、「正しい問いを自ら立てられる力なのです。」みたいなことは実際正しいし、実際的でいいと思う。あとは「正しい検索ワードをいかに思いつけるか、検索力が現代を生きていくうえでの必須な力」みたいなことも言葉の広がりや曲解を抜きにすると真理だ。ただし前述のワザについて、正しいってところがあれなんだけど、あとは力だ、みたいな、全て生きること、今を生きること、うまくやっていくこと、出し抜いたり他者を置いていくこと、パワーや権力、誰かを従えること、を目的にしたら全部だめ。

    じゃあどうするのがいいのか、たぶんそれがやっぱし『二項対立をどうやって乗り越えるか』にあると思うんだけど。

    その正解を探る、どっちかは間違っていてどっちかが正しい、あるいはあるひとつの対象や概念が何かを意味していて(意味が確定していて)別の何かではない!ということを決めてもらって(誰にだ?検索エンジンに?あるいは上司とか目上のものに?まあ最初は親に?インフルエンサー?に?とかいうこと)、安心する。そこに座って動かないイメージ。が二項対立の人間。(動物や植物は二項対立していないという感覚)だから、固定した石像がぽんぽんと過去の自分として、それらが強固に、一個一個崩さない限りは蓄積されて、滞る人間たち。

    だから最近筋膜リリースにはまっているのか?? 毎晩やっている。一回30分くらいかかるんだけど。

    で、二項対立を抜け出すとは、シンプルに言うと「ダサいことを恐れていては、近いうちわたしたち窮地に追い込まれますぞ!」ということにある。いかにしてそれを実践すべきか。生きているうちに、いかにこの二項対立から抜ける努力や注意を払ったりできるか。「抜け出す」というのはまさにドツボにハマっている状態、それが当たり前になっている状態から抜け出すか、ということで意識はひとつの対象や視界、環境に依存したり崇拝したり熱狂したりすることで、スタイルを作っていく。

    そのスタイル、たぶんそれがカッコよさであったり自分らしさ、センス、クリエイティブまでいかなくてもなんかそういう性格なんだよね、とかそれくらいのことかもしれない。熱狂までいかない、それとは逆の諦めとか、埋没したルーティンについても。

    そこらへんの習慣については、良悪なんてものもたぶんない。幸せと不幸せという価値観から抜けた小説、保坂和志が気にしているところとして何かで読んだ、見つめなおしたり無理をしないが、やっぱり自分の価値観とか判断力をその都度判断したり、確認したり、検索して出てきておわり、ではなく、試してみて、だめだったらやめる、そこをとっても軽い気分で、一回一回をギュッと思いつめたりしない風で、自分はありたいと考えている。実際難しいが。

    これはダサいかも?と思ったものは、実際たぶんダサいんだろうね。(私の直感)その直感やネットの意見はたしかにあるが、それで考えることをストップしてしまったら、「それが気になった気持ち」は一体全体どこにたどりつけば良いのか?それは存在しなかったとしていいのか?視界が「ダサい」にズームして画面外に省かれた世界は、とっても平和でいい匂いがする、懐かしくもあったり、居心地がいいとは思わぬか。

    視界が狭くなったり、気持ちが狭くなったりしたらどんどんパンを振る。首を振る。ゴリゴリとローラーで流す。反復してるうちに何か流れそうだ。いらないつまり、固定された視方、配慮のない扱い。

    ただ寄り道をしろ、とか、息を抜いて、とか、違う道で職場に向かえ、とか、あるいは露悪的になる、ぐれる、悪ぶってみるとかでもなく、「効率的に戦略的に力強く楽しく正しく、生きる」ということから外れる思考を持つ。そういうふうに生きることだけが正しいと思うから、ダサいのコワいのだ。