カテゴリー: Thinking

  • 簡単で半端なこと、再考を求められてもほんとうはしたくない

    吟味したり練ったり待ったりしすぎない、ある程度の部分でさっと満足・完了できるときの良さをいつでも忘れないようにしたい。だいたいのことは微に入り細を穿つことで良くなったりはしないと僕の場合はそう思う。ザクッと適当なところまで戻したりするとき一番楽しいし格好いいと感じられるしきっとそれがあっている。そうではない人達、最後の最後まで気を抜かず、極めていく人達へのリスペクトももちろんある。絶対にこの世はそのようなことが行われないと良くはならないとも確信している。私が単に向いていない、というだけである。これが「逃げ」や「諦め」、「無気力感の演出」ではあるのか。これらの態度はあってはならないものなのか?、道徳的には歓迎されないことであるのか、ということを考えている。努力と成長を続けることについて、仕事で関わった人とも最近話すことがあった。自分の安心や安全を犠牲にしてまで努力できない、という話、僕はとても面白いし共感すると思った。

    自分のこだわり、あるいはあるべき姿を追求する、完ぺきさを求めるというのはつまるところ「自己同一性」を高める、世界に対して自己同一性を求める、ということになるのではないだろうか。それが例えば仕事において、音楽や芸術作品などにおいては、世界に対して自己を提示する、そしてその表れつつあるものの自己との同一性を高めていく作業は発生することは想像しやすい。ただしこれは創造性を「現在の自己」のオリジナリティというものに重きをおいている場合の話だ。そうでない場合、例えば創造性を過去・未来のそれこそ世界に依っている人や団体があるとすると、この突き詰めは一体誰が、何のために行っているのか。世界自身の世界同一性を高める先に、それらに触れそれらを媒介する人間は何を感じるのか。そこには媒体であることでしかない宗教性が感じられそうだ。

    そういう意味では分かりやすい自己同一性をばら撒く人、というのは迷惑ではあるが、とても可愛らしくて愛すべき存在にも感じられる。敢えていい面を感じるとしたら、ではあるが。

    長い時間のはじまりを楽しめる豊かさ。これから来る時間をひとつの物体として重荷として捉えるのではなく、ひとつひとつ、あり得ないくらい細かいから連続としてしか、あるいはいつまでも「まだ来ない」がずっと続いていくような、それは音楽を楽しむ本来的な姿のようである。未来だけでなく、過去に向かっても、終わってしまった過ぎ去ってしまった、取り戻しようがないひとつの「若さ」「希望」「夢」ということを設定しがち、自分自身を「以前」や「先」に一人立たせて放っておいて勝手に祭り上げる、こういうのは自分への酷い行為だ。単純にもっと、いい飲み会、なんども繰り返されてきたようなそんな飲み会の昔話、こんなことがあったよね、いやなかったよ、という無限を繰り返す。そこは個別具体的でありつつも、普遍と化すような時間だ。

    いつかは自身の脚を折り畳み、目をつむるその時を、一人だけでは立たせないようでありたい。他は全て勝手にすればよいが、これだけは、私のすぐそば、一体としてすぐここにあるから、どうかそちらからも手を握り返してくれたら嬉しいと思う。このような思いはどこから来ているのかはわからない、単に個である不安とかなのだろうか。そのような短歌を詠みたいが、今は目いっぱいに今、そして思い出そのもののようなことについてのことしか思いつかない。しかしやる、時たまやる。

    長続きはほんとうにしない、このような時間は少しだけでもいい、涙がこぼれそうになっていると気持ちいい、その次にはひっこんでいる、本当にすぐ移行していく。次には欲しい服、綺麗に服をなんでも着こなしている人の写真や、当たり前に仕事がある。今は仕事が落ち着いているのでカメラを持って散歩がしたい。

    誰の目線でもない、カメラにしか見ることができない風景が気になる。最近本屋で手に入れたのがMark Cohen 『Bread in Snow』でこの写真集は、かなりパッと取っていて狙いのない。即興は目線と姿勢であるな。こういう写真を撮りたいから、そういうカメラが欲しい。

    これらの写真は、ウィルクスバリ(ペンシルヴェニア州の都市)の大通りや路地を歩いているとき、自分が見たものと自分との心理的な相互作用から刺激されたものだった。本書で最も早い時期の写真群は、これらのネガから焼いたものだ。1977年には、1年を通じてカラー写真に取り組んだ。このフィルムはジョージ・イーストマン・ハウスの事業の一環として、コダックが現像し、プルーフをプリントした。最後のイメージ群は、1987年に撮影したものだ。この年、私はフジ1600のカラーネガフィルムだけを使用していた。これは高速で撮れるから、素早く接近する私のストリート写真には最適だった。

  • 飴を舐める

    飴を舐める

    苦労を知らない奴はダメ・成長しない、弱さを知らないと強くなれない、健全な精神は健全な肉体に宿る、このような〇〇という条件を満たさないと〇〇という(善い)状態にはなれない、という説教臭さがとっても嫌いだから、実際のところはとっても大好きなのだろう。昔から言われてきた統計だから、占いって統計だから、とか一年目はまずは失敗してもいいからやってみることから、とか自分でも言ってて「これは全く借りてきたような言葉だなぁ」としっかり認識しながらそれでも構わず話していることが時々、いや頻度はわからない、頻度というものもそれをどの期間で切るのかで変わってくるからその頻度を使うカテゴリの共通の認識がある場面や対象にしかこの頻度という言葉は前提として使えないものだ。その背負いを「頻度」にだけあげるのは可愛そうである。どの言葉だってそう、そんなこととは全く無縁である、といった「普遍」という言葉にもこの前提は気づかない程度に実は産まれてこの方あり続けている肩こりのようなものと同じようにその存在は忘れられている、というか「前提」という言葉自体にはこのフックはかかってこない、唯一の逃げ場を持っているのか。言葉は全て、その他の全ての言葉を背負って、自分自身からは唯一の逃げ場だけ確保して、いつもやっているのか。そうか。みんなすごく偉いと思う。そういう意味においては言葉は人間である。

    なぜ言葉は人間であるのか?ではなく、何が言葉であり人間なのか?という池田晶子的問いの立て方に倣えばみえてくることもある気がする。「何」というこの真空地点。真っ白かつ真っ黒で、伸び縮み自在な〇〇。存在したり、存在しなかったりを繰り返し、成長したり衰えたり、意味や概要を変え、しかし一定に保つ部分も持ち合わせている。仮にこれをひとつの「飴」としてみよう。何を隠そう、私は飴である。飴が飴を求めるのは畢竟、私を私で包み込む(口に含む)とそういう矛盾に落ち着きを感じたいからなのだろう。外側と内側、外側と外側で、内側と内側で、あらゆる向きと長さと強さとに引き裂かれつつある私個人としては、自分の内側で、自分という存在を舌でたしかに確かめつつ、味や香り、その感触などを愉しんでいる。最も良いのは「内側で小さくなっていくのを見届けられる」ことだ。唾液やその他気温やスピードなど、制御できること・制御できないことは様々絡み合うが、そんなことは自分の口の中くらい、置いておいていいと思う。自分なりのペースで、その終いのときまでカロカロカロカロとやっていられること。だからといって終わっても悲しさややるせなさ、取り戻しようもないという目から光が失われ、景色も音も椅子も食べ物もしっかりと感じられていながらも何も感じていない状態(それをあまりない状況として楽しんでいるかのよう、とも思える)には全然ならない。新幹線からの夕日、全く感傷的である。ナンニ・モレッティの『息子の部屋』はかなり良かった。その映画の遊園地のような状態になりたくないできるだけ。その後の棺桶はんだ付けもかなり面白かった。

    かといって飴が終わった瞬間のこと、その瞬間に何が起きているのか?ということに意識は向かったことはない。なくなりかけの角張りシャリシャリし始めた飴は意識するのは容易い。しかし消えたときには今まさに飴を舐めていて、今舐め終わったのだなぁと感慨に耽ることもなし、向かい合って座った人の目に私はどのように映りどのように感ぜられ、威圧感、その足の開き方は俺を威圧しているだろう…、とかなんやらに思考の面積(ガチエリア)を奪われ座を渡し席を譲る。私は思考のガチエリア確保の各要素ではなく、飴らしくありたいものだ。どこにも代替できないような確かな感触を与えた割には、そんなことあったっけ?とすっかり忘れて他へと受け渡すような在り方。舐められてナンボ、という一言でもいいくらいである。

    私の好きな飴

    • ロッテ のど飴:飴と言えばカリンののど飴。これは直方体の角の感触が本当に充実感がある。満たされる。カドケシという消しゴムの角感だけを味わえる消しゴムがあったが、それはないだろう、と思う。角はなくなるから角である良さがあるだろう。
    • 大正製薬ヴイックスのど飴󠄀プラス ハーバルミントパウダー:あんまし売ってない、ドラッグストアで見かけたら買うべし。ネットでわざわざ飴なんてもんは買うもんではないから。こいつもまた、舌触り、口腔あたりがとてもいい。ハーバルパウダーのサラサラ感は他では味わえず、さらにその下のつるつるが通常以上につるつるに感じられてよい。早く食べたい。たまに見かけたら買ってる。
    • UHA味覚糖 e-maのど飴:定番。ただし、すぐにカリッとなるのはいただけない。もう少しツルツルしていたいといつも思う。
    • UHA味覚糖 純露:UHAは強い。こちらは独特のダイヤの角錐形状でカロカロ系。ノーマルなべっこうに加え、紅茶味がまじで完璧。ちょっと文化系な香りがする。純喫茶が好きな人にあげたら絶対に喜ぶであろう。ずっと昔に紅茶味だけの純露を出して欲しいとツイートした。
    • Ricola レモンミントハーブキャンディー:カルディなど輸入食品系のお店などでどこでも買える。銀座エルメスの映画館で入場時にひとつもらえて最高だと思った。今も貰えるのだろうか。それをぱくってバンドのワンマンイベントでも入場時に配った。みんながこの飴を舐めれば過ごしやすくなるだろう。
    • ロマンス製菓 塩べっこう飴:KINOKUNIYAで最近購入。イタリア・シチリア島産の岩塩がべっこうの色の中にゴロゴロと入っている。錬金術である。ベストヒット。

    こういった飴を家から出る前に口に放り込み、各バッグのポケットにはだいたい飴が入っている。特に電車に乗るときは飴を舐めるのが良い。思考を飴に変えればよい。

  • 『ダサいのコワい』何を知って、何を安心したいのか、そして消えていきそうな自由

    『ダサいのコワい』何を知って、何を安心したいのか、そして消えていきそうな自由

    ファッション関連の固有名詞を検索欄にいれると「○○ ダサい」って予測入力の候補にぜったいで出てくるよなあ。「GIベルト ダサい」「セダークレスト スニーカー ダサい」、これは実際に見た例だ。セダークレストは近所のスーパーの二階にある靴流通センターが閉店セールをしていて、セダークレストのスニーカーが1500円くらいで買えてなかなかいいんじゃないか、としかし通常の料金はどれくらいかと見てみたら、「ダサい」と検索エンジンに、ということはたくさんの人が検索した履歴に、ダサいよ!やめておけば?と言われた気分だ。買ったが、蒸れたので何回か履いて捨てた。もったいない。もったいないとは?

    そうではなくこれはどういう現象なのだろうか?ダサいのが怖いのだみんな。自分の選択には、大多数がダサい、と思っていないかがまず重要なファクターとなっている。日本以外でもそうなのか?英語やその他の言語ではダサい、「〇〇 wack」とか候補がでるのだろうか?? 

    哲学とは?、あるいは思考力とは?、本当の意味での考えるとは?みたいなことで、「正しい問いを自ら立てられる力なのです。」みたいなことは実際正しいし、実際的でいいと思う。あとは「正しい検索ワードをいかに思いつけるか、検索力が現代を生きていくうえでの必須な力」みたいなことも言葉の広がりや曲解を抜きにすると真理だ。ただし前述のワザについて、正しいってところがあれなんだけど、あとは力だ、みたいな、全て生きること、今を生きること、うまくやっていくこと、出し抜いたり他者を置いていくこと、パワーや権力、誰かを従えること、を目的にしたら全部だめ。

    じゃあどうするのがいいのか、たぶんそれがやっぱし『二項対立をどうやって乗り越えるか』にあると思うんだけど。

    その正解を探る、どっちかは間違っていてどっちかが正しい、あるいはあるひとつの対象や概念が何かを意味していて(意味が確定していて)別の何かではない!ということを決めてもらって(誰にだ?検索エンジンに?あるいは上司とか目上のものに?まあ最初は親に?インフルエンサー?に?とかいうこと)、安心する。そこに座って動かないイメージ。が二項対立の人間。(動物や植物は二項対立していないという感覚)だから、固定した石像がぽんぽんと過去の自分として、それらが強固に、一個一個崩さない限りは蓄積されて、滞る人間たち。

    だから最近筋膜リリースにはまっているのか?? 毎晩やっている。一回30分くらいかかるんだけど。

    で、二項対立を抜け出すとは、シンプルに言うと「ダサいことを恐れていては、近いうちわたしたち窮地に追い込まれますぞ!」ということにある。いかにしてそれを実践すべきか。生きているうちに、いかにこの二項対立から抜ける努力や注意を払ったりできるか。「抜け出す」というのはまさにドツボにハマっている状態、それが当たり前になっている状態から抜け出すか、ということで意識はひとつの対象や視界、環境に依存したり崇拝したり熱狂したりすることで、スタイルを作っていく。

    そのスタイル、たぶんそれがカッコよさであったり自分らしさ、センス、クリエイティブまでいかなくてもなんかそういう性格なんだよね、とかそれくらいのことかもしれない。熱狂までいかない、それとは逆の諦めとか、埋没したルーティンについても。

    そこらへんの習慣については、良悪なんてものもたぶんない。幸せと不幸せという価値観から抜けた小説、保坂和志が気にしているところとして何かで読んだ、見つめなおしたり無理をしないが、やっぱり自分の価値観とか判断力をその都度判断したり、確認したり、検索して出てきておわり、ではなく、試してみて、だめだったらやめる、そこをとっても軽い気分で、一回一回をギュッと思いつめたりしない風で、自分はありたいと考えている。実際難しいが。

    これはダサいかも?と思ったものは、実際たぶんダサいんだろうね。(私の直感)その直感やネットの意見はたしかにあるが、それで考えることをストップしてしまったら、「それが気になった気持ち」は一体全体どこにたどりつけば良いのか?それは存在しなかったとしていいのか?視界が「ダサい」にズームして画面外に省かれた世界は、とっても平和でいい匂いがする、懐かしくもあったり、居心地がいいとは思わぬか。

    視界が狭くなったり、気持ちが狭くなったりしたらどんどんパンを振る。首を振る。ゴリゴリとローラーで流す。反復してるうちに何か流れそうだ。いらないつまり、固定された視方、配慮のない扱い。

    ただ寄り道をしろ、とか、息を抜いて、とか、違う道で職場に向かえ、とか、あるいは露悪的になる、ぐれる、悪ぶってみるとかでもなく、「効率的に戦略的に力強く楽しく正しく、生きる」ということから外れる思考を持つ。そういうふうに生きることだけが正しいと思うから、ダサいのコワいのだ。

  • なにを今大人になって、知ったつもりになっておる

    なにを今大人になって、知ったつもりになっておる

    いくつになってもちゃんとすることができない。安心の自分、大切にしている自分ではなく、誰も求めていないところの、誰かのための自分が出てくる。それは本当に誰のためにもならない、おそらくはその周りにいる人たちはそれほど気にしていない、むしろ、ああいつものとおりだな、くらいのちょっとネガ寄りの安心を与えているのかもしれないが。

    また反省しているが、その反省は常に自分のため、である。その場、その次の日の朝のその場、頭なのか心なのかはわからんが、どうしようもない恥ずかしさやうしろめたさや、自分という存在が棄損されないように、なんとか折り合いをつけるための反省である。ことさらに文化的な活動で埋め合わせをしようとしたり、私には仕事がある、そして、結局は何も変わっていなくて、私の心の中の問題なだけである、とすることでことなきを、全く得られない、継続する。そして何か月かして忘れていく。そして、これは事なきを得ているのか?

    それでは「人間的な成長はないじゃないか」としてみる。反省して、態度を変え、行動を変え、そうすることで、人間が変わり、人生が変わるのです。のような言い回しをそれこそ人生で三回ほど見るたびに、なるほど、変えてみるか、とかクソが、とその日の調子によって、言葉は変わるし、私は変わる。その人は、その人が食べてきたもの。みたいな言い回し。You are WHAT you eat. これも似ている。何のこともなく、良いことをすれば良くなる、その可能性が高まる。ということ。そして、印象は変わる、変わらない。

    YoutubeでアルファのMVを観る。腹いっぱいで、かつ下痢気味のとき、アルファとケツメイシのコラボ、「ア・セッションプリーズ」を観たのださっき。決してそのつながりや意味はないだろう。

    これを聞いていたのは中学生のころ、だから14歳とかそれくらいだとすると、20年くらいか、2000年過ぎたころくらいで、歌詞によくわからんものが出てきて、別にそれを調べたりせずに、前後や響きからその意味をなんとなく妄想していた。妄想ばかりしている年代がある。

    そのもっと前、小学生2年生は何歳だ、8歳だそうだ。25年前、小学校2年生から中学校までは10年も開かないのか。そのころはラッキーマンばかり読んでいた。これもまたわからない言葉があるが、調べたり聞いたりせずに、自分の中で妄想で意味をとらえては納得していた。納得はしていないが、事なきを得ている。例えば天才マンの攻撃、頭から光の光線を出すときの『カッ!』というのが技なのだが、その強化版が『ピカッ!』で、さらに上にあるのが『これでもかっていうくらいのカッ!』となっていくのだが、小学生の自分は「これでもかっていうくらいの」がわからない。何かおそらく外してきている、その時は「外し」という概念はないのだが、これまでの流れとは違う表現で、何か面白いことを表現しているのだろうが、それが何なのかがわからない…。という状態に、何とか片を付けるために、これでも/かって/いうくらいの、と文節を分けて理解したのを覚えている。その技が何回か出てきて、どうにか片を付けなければならなかった。

    ”カッ”

    これでも、と、いうくらいの、は理解できる、「これくらいの」という意味だ。「かって」がわからんのだ。しかしわからんままでいた。そのわからんまま、の状態が、逆にいま思い出せんのだ。それが今自分にとても足りていない精神性というか、心の状態というか、自分自身の今ある在り方において、欠損とまではいかないが、その成分が極限まで薄まっているのではないか。

    30歳を過ぎ、子どもはいないからお金を好きに使っている、仕事はうまくいっている、パートナーもいるしうまくやっている、心もまあまあ平穏だが、どこかで同じ失敗をし、周囲を省みず何かをしてしまっている恐れがある。

    はっきりいって感動が薄れている。季節的な問題はある確実に。冬、年末近くから4月あたりまで、感覚が薄れ、春とともに最高、となる躁鬱の通常であるが。その感覚の薄れすらも薄れている、あまり変わりがなく、振れ幅がなくなっている。

    これを良いとも悪いとも捉えないで、ただただわからないこと、として片を付けることをしてみようと思う。心に響くもの、最近心に響くものはやはり「わからない」ものです。かつ、動きや音が少なく、感じるのにじっと時間がかかるものです。楽しいものは多くあるが、もっと生きているとか、目に見えるとか、理解やプロセスをはさまないもの、ちょっと前まではなんだかもっと遠くにあったり、ここではないどこかにある気がしていたが、それは近くのここに、とかでも決してない。ただただ見えていることや、どうしようもなさ、そう感じてしまうこと、わからない、というまなざしを人間としてもう一度みつけていきたい。解釈やストーリーを離れて、その場しのぎでいい。

  • フィッシング詐欺とWANDS(世界が終るまでは… )

    フィッシング詐欺とWANDS(世界が終るまでは… )

    2022/6/25にフィッシング詐欺に引っかかってしまった。仕事のインタビューを終えて、ベッドに寝転んで休んでいてメールを確認しているとAmazonから支払いの更新ができておらずアカウントが失効する、「もう」アカウントは停止します。ともう、にひっかかったものの、んぼーっっとしていたので、やべえ!早く!と打ち込んだ。一度Amazon.co.jpに飛ぶのもミソで、こんなん引っかかってもしょうがない、と恥ずかしさを打ち消す。恥ずかしい、絶対に引っかからないと思っていた。

    すぐにカードを停止したのち、5時間後、引き落とし不能を告げるメールが来た。私はデビッドカードを使っているのですぐに引き落としがされるのだ。238000円と58000円、20万の方はカーアクセサリー店、5万の方はジェラピケとか販売しているサイトだった、怖い、自分で稼いだお金ではないのに、豊かな生活をしようとしている。怖い、私はとても脆弱、もろく、攻撃を受けやすい、バルネラブルな存在である、カードは怖い。

    この、フィッシング詐欺、詐欺を受けてお金を失ったとしても、もし他人(中国人?)の生活を豊かにするためだけに頑張って稼いだお金を持っていかれたとしても、最近は住民税の支払いが天引きになっておらず意外な請求がきたり、借金の返済や、辞めた時期の関係で前の会社への返金によって結構痛い額を持っていかれたり、損をこうむる、みんなが私のお金を持って行ってしまうイメージ、そんなことはない、全ては私の問題である。

    私が何かしなければ、あるいは、何かをしていれば、お金は持っていかれない。お金はあるほうが幸せなのか?損をしたのは自分なのか?何かをしなければ、あるいは何かをしていれば、ということは、そもそも何も変わっていないのでは?

    そう何も変わらないのである。この世界が終わるまでは、お金があろうと、なかろうと、私の問題であることは何も変わらない、というのは確信にいたるべき存在である。突風でまぶたが裏返ろうと、家が火事で燃え尽きたとしても、私の問題である。

    何が問題なのか?、何の問題が私に関係しているのか?

    「世界が終わるまでは 離れることもない」

    宇宙がなくなるまでは、離れることができない

    世界と宇宙は、それ自体の存在にしか因っていないため、存在していなく存在していなくもない存在である。存在である、といえるだけ、存在である、しかしそれをまるっと認めるさらに大きな容器を持たないため、不確定な、揺らぎやすい、脆弱な存在である。まさにフィッシング詐欺で他人のジェラピケを買わされる人間のような状態である。

    宇宙・世界・神がフィッシング詐欺にあったら、ほんとうに誰も助けてくれない。他者の利益を拡張するために、自分の資産、あるいはもって生まれたもの、資質を動かし、エネルギーの代償として得てきた、培ってきたこの私の一体で離散の結果であるものたちを、誰もが狙っている、そしてそれは、その者自身の問題であるのだ。

    世界が終わるまでは離れることもない、その絶対的確信において、自分こそがすべての問題である、ということ。

    何の問題が自分であるのか?

    • 使命をもって、何かに貢献し、何かを極める必要はないこと
    • 使命感をもってコミットし己の役割を果たすこと
    • 何も考えず、死をまつこと
    • 対価を得る、奪う、圧倒すること
    • 価値を伝えること、またその価値を価値であるということを伝えること
    • 全く無意味なことに耽溺すること
    • 考えている自分自身を愛すること
    • よくわからないことでも、よくわからない、と思うこと
    • よくわからないことでも、わからないといえない人のことをわかってあげること
    • 全てを台無しにすること、また、それを深く後悔すること
    • 寄り分け、間を探し、常に間に存在していること

    そして、圧倒的に何もかわらない。夏の雲、水を浴びた後、それは今では区民プールだ、そしてそのあと夏の空の雲、濃厚な青と白、まるで物のような雲を見るとき、同時に筋肉が動いているあの感じ、空は同じだ、いつでも同じだと思うように、圧倒的に何も変わることはない。小学生のころ、おそらく小学校のプールに昼間に、土曜の昼間に向かう道の空、暑かった。小さいころはよくキャップをかぶっていた、ナイキのキャップ、それをかぶってずっと下を向いて歩いていたが、ふと雲を見ようと顔をあげた瞬間太陽の光、鼻血が水鉄砲のように噴出し、目の前の電柱を真っ赤にした。その赤、しかしそれは現実だったか?夢であったか?あるいは、隣に一緒に歩いていた友達、あるいはその友達にいつもついてきたその弟のものであったか?

    過去と夢は違うのか、過去の夢を現在思い出す、というのは、いったい全体何をしているのか。世界は終わることはない。

  • 感情と暴力

    感情と暴力

    ネタバレについては全く気にしたことがない、そもそも「ネタの漸次的暴露」として作品をみていないから。ネタは種、つまりコア、エッセンスであるだろう。その意味で一言化、スローガン化ともいえる。一言による抽象化は私にとっては本来の意味での抽象化としては感じられない。一言の感想、つまりは、「感動した」「絶対いいからとにかく見て」「最高!」「泣いたわ」「見ればわかる」「見ないと損」「3分でわかる」「わかった」「とっても理解した」「誰よりも理解した」「わからない」「説明してほしい」「説明を要求する」「わからないことがわかるまで説明するまで絶対に離さない」


    決して、言いたいことを真正面切って、忙しい現代人同士お互いのスケジュールや気分をおもんぱかりつつも、「ここはあえて伝えさせていただきたい」、言いたいことを真正面切って、あるいは喫煙所での”タバコミュニケーション”によって伝える必要はなく、菊畑でも回遊しながら、フルートでも吹きながら、ほとんど独り言のようにつぶやき続ければいいのだ。相手に聞こえない声が一番、もし聞こえてたら、わかってくれたらただただ嬉しいと思う。

    暴力について、友達が「『メイドの手帖』を観て、身体的な暴力だけが暴力ではないことに改めて気づいた。」という趣旨の話をしたときに、「ああ、モノを投げる、とかね。」と間抜けた返答をしてしまったが、暴力とはそもそも、と思い語源を調べてみた、

    • 『日本語源広辞典 増補版』(増井金典著 ミネルヴァ書房 2012)「暴力」の項の説明では、「中国語で、「暴(乱暴)+力」が語源」とあり、「violence」には言及していない。『明治のことば辞典』(惣郷正明,飛田良文編 東京堂出版 1986)「暴力」の項なし。「暴動」はあるが、項中に「violence」はない。

    とあるように、英語の”VIOLENCE”との関連は薄く、「肉体の力を四方八方に発動し暴れる」というフィジカルなイメージの強い言葉である。”VIOLENCE”の語源として面白かったのが、印欧語源だ。

    • 精力的に強い願望で何かを求めること。 また強さや力を意味する名詞形の語根。violentなどの由来として、力で対処すること。印欧語根wī̆-ro-に関係。(To go after something, pursue with vigor, desire, with nown forms meaning force, power.)

    この印欧語根wī̆-ro-の派生元”weiə-”もみるとわかるように、「激しい内面の欲求を誇示する」こと、gain,world,Man,invite,violate(werewolfまで!)も同じ語源である。おそらく「魅力的に力強く惹きつけて金稼ぐからあまねく犯せる世界を制覇できる」というような意味を持つ言葉の「響き」であるだろう。マジックなワードである。魔術的である。ハッキリ言って気持ちが悪い。


    ということで、暴力という言葉には、バイオレンスへと立ち返るにしても、どこかその悪性を「やんちゃな魅力」のなかに混ぜて、なかったことにする力がどうもありそうだ、と考えたのだ。

    暴力という名詞ではなく、この気持ち悪さを精緻化する言葉が欲しいとき、私には「感動」がこれにあたるのではないかと思える。外的な影響によって心が動いたとき、その結果の善悪が重要であるが、外的な影響を発する側(これがほとんど私たちの生活すべてである)に必要な姿勢として、「感動」を強いていないか?という内的な自動反省だ。

    誰かの心を動かしすぎていないか?殴らなければ、何をしてもいいのか?

    SNSには暴力と告知とくだらなさと美しさに溢れているから、やめた。