2024年の5-6月に観た映画のこと

毎日元気じゃなくてもいいが、元気じゃないと色々と不必要な妄想に囚われがちになるから、やっぱり元気な方が良いのかも。結構考えることこそ自分だ、とずーっと思ってきていたが、親とか占いに、あまり自分の中に留まって考えすぎない方が良いと何回も言われていて、昔はそうは思えなかったが最近はほんとそうだなと思える。ほんとそうだと思えるまでは、何回聞いてもやっぱり意味がないと思う。しかし「違うんだな」と思いつつ過ごしてきた時間こそがこの「ほんとそうだと思える」に必要なことでもあるからカウンターにも意味がある。

そもそもそういった「違うんだな」と思うことに出会っている時点で、それを自分が含んでいる。ベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』に関する対話の本の中で、「ある対象に対して憧れや尊敬を向けることができる条件は、その対象を憧れ・尊敬する要素が自分自身に含まれていること」である、というようなことが書かれていた。憧れ・尊敬、あるいは単に「いいなあ」とか、おそらく「違うんだよなあ…」も、あらゆる自分にとって何かしらの引っかかるものたちについては、それらに「関心をもてる」というだけで既にしてそれらを身につけているのだ。そしてそれらを発揮するに至るか至らないかの差であり、ある・ないの人工知能的なものではない。だからあらゆることはメッセージなのであるのだろう。そういうスピリチュアルな方向にも感じられるが、もっと単純に、できるだけ多くを感じて、できるだけ多くを考えないであれ。といったことでもあるのか。

『ペーパーマリオRPG』のリメイク版を最近クリアしたんだけど、あるキャラクターに「夢をあきらめないで」と言われるシーンがある(ちなみに全然ストーリーには関係ない)。夢と可能性はけっこう近い。叶える・実現するとそうなるはかなり遠い。「要素を含みつつも発揮していない」状態が夢であり、可能性であると思うから、その夢と可能性を叶え実現することは矛盾する。常にネガティブに、「諦めないで」というのは「夢を叶えないで、実現しないで。(微睡みのままでいて)」というおとぎ話的な眠りへの脱力に思えた。

夢を諦める、というのが一般的にはフルタイムで真面目に働き、お酒をたまに飲んだり、夢を趣味にして懐かしく思う、など切り替えていくことだとする。しかし夢は主体的に諦めたり、諦めるのをやめたりできるものではなく、夢から「諦めないで」「覚めないで」いることしか存在することができないはずなのだ。だからおそらく僕は死ぬほど努力したり、超努力したりできない。きっとなんとかその範疇でうまくやるから誰かピックアップしてくれ、と常に思っている。映画をお金を出して観にいってもほとんど微睡んでいる時間の方が多いのではないか。

5月と6月(26日まで)に観たのは、『悪は存在しない』、『ゴッドランド/GODLAND』、『ブレインウォッシュ セックス・カメラ・パワー』、『マグダレーナ・ヴィラガ』、『ラジオ下神白 ―あのとき あのまちの音楽から いまここへ』、『関心領域』、『ユニコーン・ウォーズ』、『美しき仕事』、『左手に気をつけろ』・『だれかが歌ってる』、『江梨子』、『エンジェル・アット・マイ・テーブル』、『蛇の道』(リメイクの方)、『ほかげ』。

特によかったのは『ゴッドランド/GODLAND』、『左手に気をつけろ』、『エンジェル・アット・マイ・テーブル』、『ほかげ』。

  • 『ゴッドランド/GODLAND』:めちゃくちゃかっこよかった。時間をかけて遠くに連れて行かれたから外に出た時青学生がたくさんいて男っぽい話し方、女っぽい話し方をそれぞれみんながしていて愚かだと思った。私もそうだったとか、そういう似ている部分や似ていない部分、相似形を常に探してしまうことが人間らしさだと思って。さっきの話、憧れを自分に近づけすぎたり、そのために必死に努力すると覚めちゃう。気づかない、キャンセルしない、できるだけその方向にありたい。そのあと最寄り駅の蕎麦屋でじいさんたちと同じくそばを啜ってるとき心地よかった、席的にも向かい合わず、視線は全く交わされない。

  • 『左手に気をつけろ』:めちゃくちゃかっこよかった。救われた気がして心が軽くなって、見られ方とか見た目とか気にならなくなって渋谷も自由に歩けた。ほんとうのユートピアは心持ちにあると思った。併映の『だれかが歌ってる』もそうだが、世田谷区のいろんな好きな公園、好きな店、好きな映画館が出てきてそこを選んで撮って作品にしている人がいるというだけでそれだけで救われる。自分をそこに観るようで嬉しい。内面化したくないが、どうしても知っている場所はエモい。私は愚かである。全く知らない場所や人も当然出てくるわけで、子どもが頑張っていて、素顔ではないが素顔に近い。それをバッと写し取る、景色も素顔をバッと選んで写し取る、編集で選ぶ、切り方・つなぎ方を選ぶ、それを感じられるのはとっても嬉しいことだ。マダムロスというバンドを知れたのも嬉しい。心の中でガッツポーズ、は嘘だが、よっしゃいけ、という感慨に久々になる。足取りにくる、街での立ち居振る舞いが変わる。

  • 『エンジェル・アット・マイ・テーブル』:当時のリアルな女性の生きづらさが伝わってくるストーリーもそうだが、どこかに加担しない主人公と、監督自身の思想がフレームに表れている。やっぱりストーリー自体の外にあるものを撮っている、それは町にいる人の素顔、倫理的に撮っていいと思えるものを撮っているはず。スペインの人々、その時に居た人の顔、その時にあった子どもの遊び方や声に、その時をみられるから嬉しい。

  • 『ほかげ』:ずっと観ようと思っていても、その印象の暗さに避けていた。観はじめればいいのだけどね。やっぱ観たら、ずっと面白いというか、強い。全然違うな。趣里の声と顔、漫画的と言えるほどのこんな顔はみたことなくて、声もすっごい本能に響く声。配信で観たから何回も観ようと思ったけど、それはなんかしなかった。あのシーンはすごい。そしてそれをぼうや役の塚尾桜雅がよくぞ受け、反応している。全くスゴイ。そして相変わらず空が青くて青すぎる。野火の影、男性の弱さの発露と、それをなぜに女性が引き受けなければならんのか。

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