月: 2022年7月

  • 2022/07/29

    やると決めたことが、自分で決めたわけではないが、やってきたやるべきことが、二三個終わって、しかも週末が出勤となると、褒められたりして気分もよく、最近筋トレ、スロートレーニングを一日おきに10分ずつ、できればそのあとにエアロバイクあるいはスイミングを継続的に行っていることで朝からややテンションが高いので、しかしあまり眠れない日も多い。よくもまあ、とこの暑い中全然自分が体力があるから、と、意ともせず、よく考えもせず、仕事を休んで、これまではそうしてきて、間に合うときは間に合うし、クオリティはそれなり、に保ってこれた。しかし、引き延ばしはそれ自体が体に悪い気もする、それがいい具合にテンションになっているから、ストレスはテンション、身体と心の張りを生む。

    20代にまでがヒトの生きるに値する正しい世界だ、ということを読んで、まあ確かに太るしな、生物・動物・生き物としては、確かにそうだろうなと、街を歩く大勢の老人、働く中年、工事現場の焼けたおじいのタバコ休憩などをみていて、僕ももうこちらに入っている。どっぷりとこちらだ。白髪は増え続けている、お腹周りはなかなか減らない、しかしダイエットが楽しいし、仕事で金を稼いで給料は上がっても全然たまらないのが不思議でおもろい、服はいろいろな店に積極的に入るも何も欲しくない、ほしいのは化粧水やボディーソープでいい匂いのものや、アロマオイルなど。あと本しか買ってないのに、競馬や競艇、借金だ。金のかからない趣味、音楽を作ったり、分析したり、お金がもらえるのは不思議だ。

    私は中年に入り、迷いがなくなった。迷いがないというのはきっと、何かを決める、ひとつに決めるのではなく、どちらでもよい、後の祭り状態、帰ってもいいしな、朝を迎えてもいいし、一人で帰ってもいいし、このまま誰かんちいってもいいな、とそのずーっとを引き受けることだ。しかし、ずーっとはずーっと続くし、悩みは増え続ける。このままずっと同じことを?と長い将来を考える。当たり前に。

    確かに面白いことは、かなり少ない。交友関係もかなり狭いし、イベントにも顔を出さんが、ただそうした中でずっと考えている自分と自分と自分。

    ライブがある今度、その準備が楽しくもあり、大変でもある。楽しくもあり大変でもある。楽しくもあり、大変でもある。これが死ぬまで続いていくのみ。絶滅は近い!!!!!!!!!!

  • 気持ちのよろしい『リコリス・ピザ』

    気持ちのよろしい『リコリス・ピザ』

    最近は仕事も落ち着いている日が多く、仕事とはなんぞやと思う。休みと平日の境目をなくしていくことでダイエットを継続することが可能だ。

    やっぱりこの日も暇で、昨日は新宿で『わたしは最悪。』という、何もないスレッカラシの映画を観た、この映画は一体なんなのか、瀬戸内寂聴物語、失楽園ブームの再来なのか、スレッカラシであった、好き放題ふるまうのも好き好きだか、節操ねえバカはどうしようもない。

    なので今日は日比谷だ、とシネシャンテに朝から向かう。日比谷はいいね、地下鉄からシャンテに直結、しかし、わかってはいるものの、シャンテにシネシャンテはないのだ。しかし、もしかして?という気持ちからシャンテから出る、晴れている、ビルの間に雲と太陽。晴れてる。

    シネシャンテの平日朝の会は年齢層が高い、居心地がいい、PTAの映画はコメディだ、際物たちの人間性、破綻した人間性の、主に悲しみを描くコメディだから、おじいさんと一緒に、ツボが一緒のおじいさんと一緒に笑った、同じ個所で。

    ハイムである。この人達のバンドはめちゃくちゃ有名らしいが、なぜなのか。いつも不思議だ。立ち振る舞いだろうか。クラフトジンを作る三姉妹もいる、クローバージンは要チェックである。クラフトジンのHAIMである。

    ハイムの三女が主役で、フィリップ・シーモア・ホフマンの息子クーパー・ホフマンも主役。このクーパー演じる主人公が、PTA特有の”カリスマ”である。私はカリスマ的な人と出会ったことはまだないが、PTAの映画で、”カリスマ”とはこういう雰囲気、なんでもやっちゃう雰囲気とどうしようもなさを100%体現する人だと感じる。最近好きなジェシー・プレモンス(『もう終わりにしよう』のハマり度が最高)のもつ朴訥さと鷹揚さを持っている、曲者クーパー・ホフマン。

    ハイムの人も良かった、セレブリティとは思えない感じ、セレブリティってなんだよ、とか思ってそうな感じもある。インタビューもちょっと抜けてる感じだ。「次は『ワイルド・スピード』かしら。」みたいな。

    ハイムのアラナ・ハイム、リアルファミリーネームをバンド名にするのめちゃくちゃいい。両親も出演、誇らしくてたまらないだろう。アラナがトラックをバックで操縦するシーンが格別、新しい、新鮮、みたことない、示唆的、滑らかな曲芸、ハードコアだ!と主人公のカリスマバカが喜ぶが、そこでもういやだってなるのが最高。

    PTAの芸能人、セレブは狂っている、ギンギンな勃起的狂気を演じるけど、それに対して、空気の抜けたようなカーアクション、いなし、流れを読み、方向性だけ与える力、いったん坂の踊り場でぐっと方向転換するときの気持ちよさ、これを『女性的な力』と仮に置こう(性別の女性とは無関係)。踊り場に乗り上げ、さらにエンジンで坂を登り詰め、ギンギンするのではなく、ひゅるりと流し、正しい位置に停まるための。

    なんだか気持ちがいいのだ、時代も駄目さもすべて置いておこう、おそらく長くは続かないであろう、いろいろな恋愛の『失敗』を思い出し、よかったのだ、と一方的に思える。

  • 2022/07/17

    2022/07/17

    住んでいる駅も、都心に向かわない方、午前中に乗ると、それはまた旅の空気だ。

    向かい側のホーム、都心へ向かう人たち、明らかに何か意味を求めるから都心にいく。買い物、デート、文化、お金を使いに、あるいはお金を稼ぎに仕事へ行く。

    1人旅をするとき、向かいのホームの人を見る時間は普段よりも長く、普段向かいのホームの人を見るときよりも想いを巡らせる。それは1人の寂しさ、孤独である時間にしか過ぎらない思いや、1人であるからこその感情の中に存在できるからであり、感情は自分の中にあるのではないことがよくわかる。

    とても関係のない人たちが、自分とは逆に行くのをみるのは、不安も大きく同時にとても心地よく、そこにこそ一人旅の良さがある。

    人間は人間同士、全く異なる風貌をして、全く違った声で話す、しかし大体は同じ、似ている、と言える。どちらにつくか、この違った、と、似ている、について。正しさと虚偽、確らしさと出鱈目、言葉は何かを正しく伝えるために出来たのだから、嘘を嘘であると正しく伝えるために使われる嘘の言葉は全くもって正しいことになる。

    逆に、これは本当で、正しくて、良いもので、素晴らしいもので、為されるべきものごとで、必要で、導いて、決まっていて、明らかで、強い、かっこいい、いけていて、宜しい、ということを言葉で伝える時、言葉はそもそも『言葉にならない、定まらないもの』を伝えるためにできたのだから、その決まったものを伝えるという点で、唯一の明らかな虚偽なのだ。

    ノグッチと清水さんと初の競艇に、多摩川競艇に行く。府中本町からバスで向かう。府中本町には登戸から南武線、こっち側に来ると意味を失いつつあり、とてもやはりというかギャンブルに向いている土地、磁場がある。

    母方の祖父は競艇が好きでよく戸田競艇に行っていたらしい。多摩川競艇には老人がやはり多く、バスに乗りながら、一度祖父と競艇に行き、色々と教えてもらいたかった、その中で話すことも多いだろう、と思ったがもう死んでしまったので、それは一度として実現しない。しかし今のこの思いは実現している、これはこの限りでとんでもなく純粋な真実であると思う。

    清水さんはなぜか財布を忘れてきた。柵越しに100円玉を渡す。入場後、一万円札を貸すと、アメリカンランチのバッグにそのままいれた。

    競艇は、六台のボートが走る、18頭の馬よりも格段に簡単だろうと思っていたが、初めの一レースしか当たらなかった。清水さんは競馬よりも哲学性が高い、という。より当たらないことがわかる。確かに。

    府中本町の焼き鳥屋は良い、洞窟平家の向こう側にあった、自然に店があった。

    選挙や政治、ノグッチの旅の話を聴く。選挙は変えようとする時点でダメだと思う話。民意の反映、という大きなすり替えによってただの民衆大バーゲン祭りの定量を、民主主義という定性的価値にすり替えているだけなのだ、保守に対して逆張りのことは誰でも言える、もっと大切なことはもっとある、もっともっと自分で考える人が政治をやるなら投票したい、投票しようと言いたい。

    変えるためには、自分でやるしかないだろう。

    あるいは清水さんの言う、変えると思うのではなく、変わらないのだから、自分がいかに変わらないでいるかを大切にすること、を大切にしたい。

  • フィッシング詐欺とWANDS(世界が終るまでは… )

    フィッシング詐欺とWANDS(世界が終るまでは… )

    2022/6/25にフィッシング詐欺に引っかかってしまった。仕事のインタビューを終えて、ベッドに寝転んで休んでいてメールを確認しているとAmazonから支払いの更新ができておらずアカウントが失効する、「もう」アカウントは停止します。ともう、にひっかかったものの、んぼーっっとしていたので、やべえ!早く!と打ち込んだ。一度Amazon.co.jpに飛ぶのもミソで、こんなん引っかかってもしょうがない、と恥ずかしさを打ち消す。恥ずかしい、絶対に引っかからないと思っていた。

    すぐにカードを停止したのち、5時間後、引き落とし不能を告げるメールが来た。私はデビッドカードを使っているのですぐに引き落としがされるのだ。238000円と58000円、20万の方はカーアクセサリー店、5万の方はジェラピケとか販売しているサイトだった、怖い、自分で稼いだお金ではないのに、豊かな生活をしようとしている。怖い、私はとても脆弱、もろく、攻撃を受けやすい、バルネラブルな存在である、カードは怖い。

    この、フィッシング詐欺、詐欺を受けてお金を失ったとしても、もし他人(中国人?)の生活を豊かにするためだけに頑張って稼いだお金を持っていかれたとしても、最近は住民税の支払いが天引きになっておらず意外な請求がきたり、借金の返済や、辞めた時期の関係で前の会社への返金によって結構痛い額を持っていかれたり、損をこうむる、みんなが私のお金を持って行ってしまうイメージ、そんなことはない、全ては私の問題である。

    私が何かしなければ、あるいは、何かをしていれば、お金は持っていかれない。お金はあるほうが幸せなのか?損をしたのは自分なのか?何かをしなければ、あるいは何かをしていれば、ということは、そもそも何も変わっていないのでは?

    そう何も変わらないのである。この世界が終わるまでは、お金があろうと、なかろうと、私の問題であることは何も変わらない、というのは確信にいたるべき存在である。突風でまぶたが裏返ろうと、家が火事で燃え尽きたとしても、私の問題である。

    何が問題なのか?、何の問題が私に関係しているのか?

    「世界が終わるまでは 離れることもない」

    宇宙がなくなるまでは、離れることができない

    世界と宇宙は、それ自体の存在にしか因っていないため、存在していなく存在していなくもない存在である。存在である、といえるだけ、存在である、しかしそれをまるっと認めるさらに大きな容器を持たないため、不確定な、揺らぎやすい、脆弱な存在である。まさにフィッシング詐欺で他人のジェラピケを買わされる人間のような状態である。

    宇宙・世界・神がフィッシング詐欺にあったら、ほんとうに誰も助けてくれない。他者の利益を拡張するために、自分の資産、あるいはもって生まれたもの、資質を動かし、エネルギーの代償として得てきた、培ってきたこの私の一体で離散の結果であるものたちを、誰もが狙っている、そしてそれは、その者自身の問題であるのだ。

    世界が終わるまでは離れることもない、その絶対的確信において、自分こそがすべての問題である、ということ。

    何の問題が自分であるのか?

    • 使命をもって、何かに貢献し、何かを極める必要はないこと
    • 使命感をもってコミットし己の役割を果たすこと
    • 何も考えず、死をまつこと
    • 対価を得る、奪う、圧倒すること
    • 価値を伝えること、またその価値を価値であるということを伝えること
    • 全く無意味なことに耽溺すること
    • 考えている自分自身を愛すること
    • よくわからないことでも、よくわからない、と思うこと
    • よくわからないことでも、わからないといえない人のことをわかってあげること
    • 全てを台無しにすること、また、それを深く後悔すること
    • 寄り分け、間を探し、常に間に存在していること

    そして、圧倒的に何もかわらない。夏の雲、水を浴びた後、それは今では区民プールだ、そしてそのあと夏の空の雲、濃厚な青と白、まるで物のような雲を見るとき、同時に筋肉が動いているあの感じ、空は同じだ、いつでも同じだと思うように、圧倒的に何も変わることはない。小学生のころ、おそらく小学校のプールに昼間に、土曜の昼間に向かう道の空、暑かった。小さいころはよくキャップをかぶっていた、ナイキのキャップ、それをかぶってずっと下を向いて歩いていたが、ふと雲を見ようと顔をあげた瞬間太陽の光、鼻血が水鉄砲のように噴出し、目の前の電柱を真っ赤にした。その赤、しかしそれは現実だったか?夢であったか?あるいは、隣に一緒に歩いていた友達、あるいはその友達にいつもついてきたその弟のものであったか?

    過去と夢は違うのか、過去の夢を現在思い出す、というのは、いったい全体何をしているのか。世界は終わることはない。