ファッション関連の固有名詞を検索欄にいれると「○○ ダサい」って予測入力の候補にぜったいで出てくるよなあ。「GIベルト ダサい」「セダークレスト スニーカー ダサい」、これは実際に見た例だ。セダークレストは近所のスーパーの二階にある靴流通センターが閉店セールをしていて、セダークレストのスニーカーが1500円くらいで買えてなかなかいいんじゃないか、としかし通常の料金はどれくらいかと見てみたら、「ダサい」と検索エンジンに、ということはたくさんの人が検索した履歴に、ダサいよ!やめておけば?と言われた気分だ。買ったが、蒸れたので何回か履いて捨てた。もったいない。もったいないとは?
そうではなくこれはどういう現象なのだろうか?ダサいのが怖いのだみんな。自分の選択には、大多数がダサい、と思っていないかがまず重要なファクターとなっている。日本以外でもそうなのか?英語やその他の言語ではダサい、「〇〇 wack」とか候補がでるのだろうか??
哲学とは?、あるいは思考力とは?、本当の意味での考えるとは?みたいなことで、「正しい問いを自ら立てられる力なのです。」みたいなことは実際正しいし、実際的でいいと思う。あとは「正しい検索ワードをいかに思いつけるか、検索力が現代を生きていくうえでの必須な力」みたいなことも言葉の広がりや曲解を抜きにすると真理だ。ただし前述のワザについて、正しいってところがあれなんだけど、あとは力だ、みたいな、全て生きること、今を生きること、うまくやっていくこと、出し抜いたり他者を置いていくこと、パワーや権力、誰かを従えること、を目的にしたら全部だめ。
じゃあどうするのがいいのか、たぶんそれがやっぱし『二項対立をどうやって乗り越えるか』にあると思うんだけど。
その正解を探る、どっちかは間違っていてどっちかが正しい、あるいはあるひとつの対象や概念が何かを意味していて(意味が確定していて)別の何かではない!ということを決めてもらって(誰にだ?検索エンジンに?あるいは上司とか目上のものに?まあ最初は親に?インフルエンサー?に?とかいうこと)、安心する。そこに座って動かないイメージ。が二項対立の人間。(動物や植物は二項対立していないという感覚)だから、固定した石像がぽんぽんと過去の自分として、それらが強固に、一個一個崩さない限りは蓄積されて、滞る人間たち。
だから最近筋膜リリースにはまっているのか?? 毎晩やっている。一回30分くらいかかるんだけど。
で、二項対立を抜け出すとは、シンプルに言うと「ダサいことを恐れていては、近いうちわたしたち窮地に追い込まれますぞ!」ということにある。いかにしてそれを実践すべきか。生きているうちに、いかにこの二項対立から抜ける努力や注意を払ったりできるか。「抜け出す」というのはまさにドツボにハマっている状態、それが当たり前になっている状態から抜け出すか、ということで意識はひとつの対象や視界、環境に依存したり崇拝したり熱狂したりすることで、スタイルを作っていく。
そのスタイル、たぶんそれがカッコよさであったり自分らしさ、センス、クリエイティブまでいかなくてもなんかそういう性格なんだよね、とかそれくらいのことかもしれない。熱狂までいかない、それとは逆の諦めとか、埋没したルーティンについても。
そこらへんの習慣については、良悪なんてものもたぶんない。幸せと不幸せという価値観から抜けた小説、保坂和志が気にしているところとして何かで読んだ、見つめなおしたり無理をしないが、やっぱり自分の価値観とか判断力をその都度判断したり、確認したり、検索して出てきておわり、ではなく、試してみて、だめだったらやめる、そこをとっても軽い気分で、一回一回をギュッと思いつめたりしない風で、自分はありたいと考えている。実際難しいが。
これはダサいかも?と思ったものは、実際たぶんダサいんだろうね。(私の直感)その直感やネットの意見はたしかにあるが、それで考えることをストップしてしまったら、「それが気になった気持ち」は一体全体どこにたどりつけば良いのか?それは存在しなかったとしていいのか?視界が「ダサい」にズームして画面外に省かれた世界は、とっても平和でいい匂いがする、懐かしくもあったり、居心地がいいとは思わぬか。
視界が狭くなったり、気持ちが狭くなったりしたらどんどんパンを振る。首を振る。ゴリゴリとローラーで流す。反復してるうちに何か流れそうだ。いらないつまり、固定された視方、配慮のない扱い。
ただ寄り道をしろ、とか、息を抜いて、とか、違う道で職場に向かえ、とか、あるいは露悪的になる、ぐれる、悪ぶってみるとかでもなく、「効率的に戦略的に力強く楽しく正しく、生きる」ということから外れる思考を持つ。そういうふうに生きることだけが正しいと思うから、ダサいのコワいのだ。