投稿者: akiospirit

  • 『ダサいのコワい』何を知って、何を安心したいのか、そして消えていきそうな自由

    『ダサいのコワい』何を知って、何を安心したいのか、そして消えていきそうな自由

    ファッション関連の固有名詞を検索欄にいれると「○○ ダサい」って予測入力の候補にぜったいで出てくるよなあ。「GIベルト ダサい」「セダークレスト スニーカー ダサい」、これは実際に見た例だ。セダークレストは近所のスーパーの二階にある靴流通センターが閉店セールをしていて、セダークレストのスニーカーが1500円くらいで買えてなかなかいいんじゃないか、としかし通常の料金はどれくらいかと見てみたら、「ダサい」と検索エンジンに、ということはたくさんの人が検索した履歴に、ダサいよ!やめておけば?と言われた気分だ。買ったが、蒸れたので何回か履いて捨てた。もったいない。もったいないとは?

    そうではなくこれはどういう現象なのだろうか?ダサいのが怖いのだみんな。自分の選択には、大多数がダサい、と思っていないかがまず重要なファクターとなっている。日本以外でもそうなのか?英語やその他の言語ではダサい、「〇〇 wack」とか候補がでるのだろうか?? 

    哲学とは?、あるいは思考力とは?、本当の意味での考えるとは?みたいなことで、「正しい問いを自ら立てられる力なのです。」みたいなことは実際正しいし、実際的でいいと思う。あとは「正しい検索ワードをいかに思いつけるか、検索力が現代を生きていくうえでの必須な力」みたいなことも言葉の広がりや曲解を抜きにすると真理だ。ただし前述のワザについて、正しいってところがあれなんだけど、あとは力だ、みたいな、全て生きること、今を生きること、うまくやっていくこと、出し抜いたり他者を置いていくこと、パワーや権力、誰かを従えること、を目的にしたら全部だめ。

    じゃあどうするのがいいのか、たぶんそれがやっぱし『二項対立をどうやって乗り越えるか』にあると思うんだけど。

    その正解を探る、どっちかは間違っていてどっちかが正しい、あるいはあるひとつの対象や概念が何かを意味していて(意味が確定していて)別の何かではない!ということを決めてもらって(誰にだ?検索エンジンに?あるいは上司とか目上のものに?まあ最初は親に?インフルエンサー?に?とかいうこと)、安心する。そこに座って動かないイメージ。が二項対立の人間。(動物や植物は二項対立していないという感覚)だから、固定した石像がぽんぽんと過去の自分として、それらが強固に、一個一個崩さない限りは蓄積されて、滞る人間たち。

    だから最近筋膜リリースにはまっているのか?? 毎晩やっている。一回30分くらいかかるんだけど。

    で、二項対立を抜け出すとは、シンプルに言うと「ダサいことを恐れていては、近いうちわたしたち窮地に追い込まれますぞ!」ということにある。いかにしてそれを実践すべきか。生きているうちに、いかにこの二項対立から抜ける努力や注意を払ったりできるか。「抜け出す」というのはまさにドツボにハマっている状態、それが当たり前になっている状態から抜け出すか、ということで意識はひとつの対象や視界、環境に依存したり崇拝したり熱狂したりすることで、スタイルを作っていく。

    そのスタイル、たぶんそれがカッコよさであったり自分らしさ、センス、クリエイティブまでいかなくてもなんかそういう性格なんだよね、とかそれくらいのことかもしれない。熱狂までいかない、それとは逆の諦めとか、埋没したルーティンについても。

    そこらへんの習慣については、良悪なんてものもたぶんない。幸せと不幸せという価値観から抜けた小説、保坂和志が気にしているところとして何かで読んだ、見つめなおしたり無理をしないが、やっぱり自分の価値観とか判断力をその都度判断したり、確認したり、検索して出てきておわり、ではなく、試してみて、だめだったらやめる、そこをとっても軽い気分で、一回一回をギュッと思いつめたりしない風で、自分はありたいと考えている。実際難しいが。

    これはダサいかも?と思ったものは、実際たぶんダサいんだろうね。(私の直感)その直感やネットの意見はたしかにあるが、それで考えることをストップしてしまったら、「それが気になった気持ち」は一体全体どこにたどりつけば良いのか?それは存在しなかったとしていいのか?視界が「ダサい」にズームして画面外に省かれた世界は、とっても平和でいい匂いがする、懐かしくもあったり、居心地がいいとは思わぬか。

    視界が狭くなったり、気持ちが狭くなったりしたらどんどんパンを振る。首を振る。ゴリゴリとローラーで流す。反復してるうちに何か流れそうだ。いらないつまり、固定された視方、配慮のない扱い。

    ただ寄り道をしろ、とか、息を抜いて、とか、違う道で職場に向かえ、とか、あるいは露悪的になる、ぐれる、悪ぶってみるとかでもなく、「効率的に戦略的に力強く楽しく正しく、生きる」ということから外れる思考を持つ。そういうふうに生きることだけが正しいと思うから、ダサいのコワいのだ。

  • 2023/03/03

    パスポートを去年の11月に申請していてそのままだったので、時間があるときに、と思って日比谷まで行って、歩いて有楽町の交通なんとかビルに行く。日比谷は最寄り駅から行きやすいのでこの一年くらいで何度もなんども行っている。シャンテとかミッドタウンとか新旧のビルの新旧具合がわかりやすくて好きだ。当たり前だけど、古いビルは古いテナントが続いており、時が止まっている、ように見えるが時は動いていて、その中でも変わり続けているだろうジュエリーショップや、刺しゅう細工の店などがあったり。

    パスポートの申請にはかなり時間がかかるも、私は待合いのあの並んだ椅子に座っている時間が好きなので、病院などでもかなり好きな時間だ。しかし、ラーメン屋とか店の列に並ぶのは好きではない。それは座れないからだと思う。商業施設の食事処の前の座るスポットで座って待つのは好きだ。皆平等に退屈しつつ、時間をつぶしている様子。そして楽しい、おいしい、新しい何かがもらえる。病院は特にないが、単によくなる状態にしてもらって、帰れる。

    しかし、パスポートの受取は一瞬で終わった。窓口に入る前に、案内の女性に顔を映すモニター、非接触型の体温計をやらされるも、いつものように反応しない。全然でない笑というと、女性も笑ってくれて、手持ちタイプ、手首で計るのをやってくれる。そして窓口、申請書を渡すと、手前の地面にひかれている赤いラインでお待ちください、と言われ三歩くらい下がって待つ。30秒後同じ人に同じ窓口に呼ばれる。すべてが計画通りである。そして本人確認は顔のみ。今回写真が変なので若干恥ずかしい、そして顔を確認される。花粉対策として伊達メガネをしてるので最近、そして軽くパーマもあてたので、数秒まじまじと見られる、ハイ以上です、とものの数分だ。

    パスポートを貰って、10年ぶり以上の久々の発行となり、16000円払うし、なんかしらグッと充実感でもあるのかと思っていたら何にもなかった。スタンプ押されるページが富嶽百景的な絵が背景に挿入されていた。いつからなんだろう。

    本屋が同じビルにあるのでみる。『ねむらない樹』の最新号に、笹井宏之賞の左沢森の受賞作が載っているので探すもない。検索したら在庫なし。左沢森の短歌は最高、天才。狙っても書けないような作品。本当に書きたいことを書いてるからああなるし、何かを決めつけたり範囲の中でぬくぬくしない、という気概があるからああなる。早く読みたい。

    エルメスのフォーラムに行く。「インターフェアレンス」展。4人の展示、スザンナ・フリッチャーの大がかりな振動する糸の展示は、とっても楽しかった。この前みた郡司ペギオ幸夫の、地下展示作品、引き裂かれた段ボールの紐状の振動にも通ずる、別の場所とここのつながりと影響しあい、微細な影響が振動として響いていく様子。楽しんでいると、吹き抜けの上方から外国人の女性に手を振られた。手を振り返す。

    ブルーノ・ボテラの作品がとても好きになった。気持ち悪い、いやらしい、エロい、触りたい、覗きたい、中に入りたい、という欲求を刺激される。グロテスクであることは、単なる事実を見せつけられること、という当たり前に気づく。私もグロテスクなことをよくする、これからもしていきたい。会議で変なタイミングで実際のことを言ってしまう、ポジティブな流れの中で、実際のことを言うと変な影響を及ぼしてしまうが、まあそれも必要だと思う。あまりそこに自己を賭けたくはないし、プライドも捨てたいが、どうしてもそうしてしまう。

    満足した。

    出て、日比谷のキャビネットオブキュリオシティーが好きなので観にいく、横断歩道の信号を待っていると、後ろから甲高い声、小さいがとても高い周波数を感じる声で、小さい丸い太めの女性がカバンに着けたぬいぐるみのハリネズミに向かってきゃわいいね…!と言っている。そして僕の顔を見上げてきた。ハリネズミのぬいぐるみだけやけに綺麗だ。新しく買ったのだろうか、満悦の雰囲気だ。顔をみられ、目は合わせられなかった。ここで、「うん、いいね。」とみているよ、という同意や、実際にかわいいですね。と声をかけると、どんなことが始まっているのか、と想像しながら、前方に向き直ると、西日がビルの合間にさしていて、居酒屋の煙を透かしてとてもキレイだった。のでその近くに行って動画を撮る。

    キャビネットオブキュリオシティーにて服をみる。POLYPLOIDのカーゴパンツがかわいい、高い。郡司さんの『かつてそのゲームの世界に住んでいたという記憶はどこから来るのか』をようやく購入。

  • なにを今大人になって、知ったつもりになっておる

    なにを今大人になって、知ったつもりになっておる

    いくつになってもちゃんとすることができない。安心の自分、大切にしている自分ではなく、誰も求めていないところの、誰かのための自分が出てくる。それは本当に誰のためにもならない、おそらくはその周りにいる人たちはそれほど気にしていない、むしろ、ああいつものとおりだな、くらいのちょっとネガ寄りの安心を与えているのかもしれないが。

    また反省しているが、その反省は常に自分のため、である。その場、その次の日の朝のその場、頭なのか心なのかはわからんが、どうしようもない恥ずかしさやうしろめたさや、自分という存在が棄損されないように、なんとか折り合いをつけるための反省である。ことさらに文化的な活動で埋め合わせをしようとしたり、私には仕事がある、そして、結局は何も変わっていなくて、私の心の中の問題なだけである、とすることでことなきを、全く得られない、継続する。そして何か月かして忘れていく。そして、これは事なきを得ているのか?

    それでは「人間的な成長はないじゃないか」としてみる。反省して、態度を変え、行動を変え、そうすることで、人間が変わり、人生が変わるのです。のような言い回しをそれこそ人生で三回ほど見るたびに、なるほど、変えてみるか、とかクソが、とその日の調子によって、言葉は変わるし、私は変わる。その人は、その人が食べてきたもの。みたいな言い回し。You are WHAT you eat. これも似ている。何のこともなく、良いことをすれば良くなる、その可能性が高まる。ということ。そして、印象は変わる、変わらない。

    YoutubeでアルファのMVを観る。腹いっぱいで、かつ下痢気味のとき、アルファとケツメイシのコラボ、「ア・セッションプリーズ」を観たのださっき。決してそのつながりや意味はないだろう。

    これを聞いていたのは中学生のころ、だから14歳とかそれくらいだとすると、20年くらいか、2000年過ぎたころくらいで、歌詞によくわからんものが出てきて、別にそれを調べたりせずに、前後や響きからその意味をなんとなく妄想していた。妄想ばかりしている年代がある。

    そのもっと前、小学生2年生は何歳だ、8歳だそうだ。25年前、小学校2年生から中学校までは10年も開かないのか。そのころはラッキーマンばかり読んでいた。これもまたわからない言葉があるが、調べたり聞いたりせずに、自分の中で妄想で意味をとらえては納得していた。納得はしていないが、事なきを得ている。例えば天才マンの攻撃、頭から光の光線を出すときの『カッ!』というのが技なのだが、その強化版が『ピカッ!』で、さらに上にあるのが『これでもかっていうくらいのカッ!』となっていくのだが、小学生の自分は「これでもかっていうくらいの」がわからない。何かおそらく外してきている、その時は「外し」という概念はないのだが、これまでの流れとは違う表現で、何か面白いことを表現しているのだろうが、それが何なのかがわからない…。という状態に、何とか片を付けるために、これでも/かって/いうくらいの、と文節を分けて理解したのを覚えている。その技が何回か出てきて、どうにか片を付けなければならなかった。

    ”カッ”

    これでも、と、いうくらいの、は理解できる、「これくらいの」という意味だ。「かって」がわからんのだ。しかしわからんままでいた。そのわからんまま、の状態が、逆にいま思い出せんのだ。それが今自分にとても足りていない精神性というか、心の状態というか、自分自身の今ある在り方において、欠損とまではいかないが、その成分が極限まで薄まっているのではないか。

    30歳を過ぎ、子どもはいないからお金を好きに使っている、仕事はうまくいっている、パートナーもいるしうまくやっている、心もまあまあ平穏だが、どこかで同じ失敗をし、周囲を省みず何かをしてしまっている恐れがある。

    はっきりいって感動が薄れている。季節的な問題はある確実に。冬、年末近くから4月あたりまで、感覚が薄れ、春とともに最高、となる躁鬱の通常であるが。その感覚の薄れすらも薄れている、あまり変わりがなく、振れ幅がなくなっている。

    これを良いとも悪いとも捉えないで、ただただわからないこと、として片を付けることをしてみようと思う。心に響くもの、最近心に響くものはやはり「わからない」ものです。かつ、動きや音が少なく、感じるのにじっと時間がかかるものです。楽しいものは多くあるが、もっと生きているとか、目に見えるとか、理解やプロセスをはさまないもの、ちょっと前まではなんだかもっと遠くにあったり、ここではないどこかにある気がしていたが、それは近くのここに、とかでも決してない。ただただ見えていることや、どうしようもなさ、そう感じてしまうこと、わからない、というまなざしを人間としてもう一度みつけていきたい。解釈やストーリーを離れて、その場しのぎでいい。

  • ODD ZINE vol.9 の展示のための音楽  -Sacrifaice Animals-

    ODD ZINE vol.9 の展示のための音楽 -Sacrifaice Animals-

    太田さんとのつながりの始まりは、太田さんのお兄さんがやっているPrank Weird Storeというお店がまだ新代田駅近くにあった時、なんとなく入って、お兄さんと色々と話した。その時は落ち葉を踏む音を加工した音源を使ったレコード、これがジャケがハンドペイントでかっこよく、絵の具の匂いがしたりして、かなりいい。お兄さんは初めましての僕にもかなり優しく、色々と話した。その日は確か水谷さんと樺山と新しくレゲエバンドをやろうという集まりをLFRでなんとなく話そうと、あきさとも店員でいるし、と新代田に行ったのだった。そこでお兄さんとレゲエバンド始めるんですよ、と話すと、いいなあレゲエ、最高じゃん、がんばってね、などと言ってくれた。そして弟は小説家で、そこのビデオと小説がパッケージされたのも弟のやっている活動、など。面白そう。

    その後、『ののの』を読んだり、太田さんのODD ZINE展Vol6の一般公募枠にすぐ応募して、連絡して、音楽を作ることになった。その時は、短い小説とSON OF ODDという曲を提供した。お兄さんと展示で再会して、お兄さんもなんかこの関係性の連続をとても喜んでくれて、僕はとても嬉しかった。本当に嬉しい、僕はこういう関係性がとても嬉しい。お兄さんのまた別の職場、そこで施設の方と一緒にやっているハードコアバンドの話。太田さんによる、あいうえお占い。僕はキンタマ野郎だった、バカパワフル。

    そしてまた、新しい展示の音楽を頼んでくれた太田さん。やらせていただく。今回は動物がテーマであった。サクリファイス・アニマルズというタイトルは動物の犠牲、食品となる動物、とかそういう悲しみを知れという話ではなく、人間、働く人間、働かざるを得ない人間、社会的人間にならざるを得ない動物としての人間、である。誰も彼も金を稼ぎたいわけではない、楽しくやっていたいのに、みんなが大変、その中で小説や音楽、映画、ハードコアは私たちに、時計、とか、かける馬のイメージとか、そういうのをやってみたいと思った。

    14分の曲。いくつかの曲を繋いでいる。

    最初は、これはシラオカのイメージをやりたいと思ってだいぶ昔にギターを弾いたものだ。ギターの組み合わせによる響きを楽しむ感じがシラオカだ。朴訥とした感じ、時計をサンプリングしたらトラックの音、これは下目黒の家で録った音だ。最近買ったフレットレスのベースも。

    次は、アコギ、ディレイとアコギは一生楽しい。ガットギターはいい。

    次は、タイトなブルータルなリズム。ベースブリブリ、なんでしょうねこれは。ぽんぽんなっているのはなんでしょうね。どうしようもない歩み、酔っていないけど、帰り道の周りにいる人間が本当に嫌になる、歩幅を競い合ったり、歩調を乱さない、頭が上下せず並行に歩くやつとか。

    次は、KLFです。トルコに仕事で行った時にテープ屋のおじさんにおすすめしてもらったトルコ歌謡曲の代表みたいな人らしい。砂っぽい路地、大体が黄土色の坂道に突然あったテープ屋、4畳くらいでおじさんの背面にたくさんテープがあった。

    次は、指ピアノ、なんていうんだっけ楽器、カリンバですね。ループかけられてタイムもいじれるカリンバ、これもどこかの国のおじさんが作っている。

    次は、ぶりぶりとしたGAUGE AWAYとタイトルが付けられていた。

    次は、ダウンサンプルしたギターがなんか好きなんですよね。ざらっとしている、これもギターの絡みとベース。チューニングがよくわからず弾き直せなかったので、昔弾いたままのベース。あとドラムの音は短くむっちりしているとかっこいい。あ、あ、あ、あ、という声も入っている。ループで長い、展開が作れない、どうやったらちゃんと曲が作れるのかわからないがいい。

    次は、スティールドラム、これAmazonで買った。叩きまくっている、死んだ父親の写真の前に置いてたまに父親の鎮魂ソングを演奏している。それにリバーブをかけて、デジタル馬の走りのサンプル、公開されていたサンプルが入っていたので。どこかに走っていく魂。

    次は、Ever Ending Kicksへのオマージュ。マジで好き。仲良しになれる。スーホの白い馬のような何か。とっても良い、どしどしと踏まれるバスドラと雑オープンハイハットの雑叩き、こういうドラムがとっても好き。永遠に続くような音楽が好き。最後の方は遠くへやっぱり行きたい。

    どこか遠くへ行きたいよねどうせなら。現実はかなり近いし。

    太田さんのZINEはプランクストアで買えます。

  • 共振・共鳴する板 太田達成『石がある』

    共振・共鳴する板 太田達成『石がある』

    太田さんとはコロナの流行が全体的に広まっていた2020年の5月に、和田堀公園でのピクニックで初めて会った。それ以来会っていなかったが、先日FILMEXの会場で久々に挨拶できた。『石がある』という映画の構想はそのピクニックの際になんとなく聞いていた。お酒もたっぷり飲んで、さらに二年以上前ということで、FILMEXで声をかけた瞬間に、「あの時言ってた映画だよ~」と教えてくれた太田さん、その一言で友人と何もすることがなく川辺で石拾いをしたこと、石積みをしたこと、良い石があったこと、などを聞いたことを思い出してはいない、これは映画を観て、トークを聞いたから、改めて思い出したことだ、なんとなく聞いたな。

    遊びで木に引っかかったバドミントンのシャトルをラケットを垂直に投げて、何度もトライして、落してくれた太田さんの姿は明確に覚えている。垂直は僕のイメージかもしれない、背の高い太田さん。

    背が高く、かといって特に筋肉質ではなく、細長い、そして笑顔が優しく、よく話を聞いてくれる、そういう人が太田さん以外にももう一人好きな人がいる。自然がよく似合う人、木とか水とか、海というよりも、山とか霧とか森とか川とか、そちらにいることがイメージしやすい人がいる。

    ピクニックの後、人のまばらな駅前の居酒屋に行き、いろいろと話したが、ほとんど覚えていないが、インスタント写真や、ケータイの写真をみると、よく自分が太田さんの横で楽しそう、もっというと懐いている、といった感じで、安心しきっている様子。何か変なことや厚かましいことを言っていないと良いが、とても楽しそうである。映画の話をしたのだと思うが、覚えていない。

    『ブンデスリーガ』をその数日後、まだ下目黒に住んでいたころの自宅でオンラインで観ることができ、その時の感想をフィルマークスに書いて太田さんに送った。やや私は躁状態であったと思う、そのフィルマークスもアカウントを消してしまい、何を書いたか全く覚えていない何か失礼であったり調子に乗っているような文章でなかったことを祈る、自然光の体育館で卓球をしている映像が、今は思い浮かぶ。子どもが印象的、だった気がする。とても素敵な映画、普段観ている映画の良い映画ではなく、自分が好きだと面と向かって世界に言える映画であり、それは太田さんという人間に対しての懐きからもある。個人的な付き合いのある人の映画、芸術作品をその人の印象やその人への感情を抜きにして観ることはできないし、映画を観ている間は監督のことは忘れてしまうだろうが、そのあとには評価の中に必ずその人間性が入ってくるし、それはそういうものとして映画を観ているし期待もしている自分の中では自然なこと、だから人間性と作品は切り離せ、というのは理解はできるが無理がある。

    作品を作る前に、人間であることは間違いないからだ。そこにロマンは、今の私はない、純粋なる芸術への奉仕、自己滅却まではいかなくとも、やや共通の無意識やイデア的なピースには作り手の人間性は薄まるもの、というのも理論的にはわかるが不自然だ。やはり作り手、関わっている人たちがいなかったら作品は生まれない。頭や身体を動かして、協力しながら作られていくもの、圧倒的に実際に「手を動かす」人へのリスペクトが足りなくなるのが資本主義社会であるとしたら、僕は圧倒的に手を動かし、それを主張する人間でありたい。その痕跡をべたべたと塗りたくりつつ、営みを続けていきたい。

    太田さんへの印象、太田さんからの僕への印象、あるいは太田さんの周辺にいるたくさんの人たちから太田さんへの印象、太田さんからその周囲にいるたくさんの人への印象、太田さんからあの川にいたことがあるであろう知らない人達への印象、川への印象、資生堂ギャラリーで最近観た目 [mé]の展示。河川敷から遠くの橋を渡る車の光の移動の映像に、盲目の写真家の人、この人はモノと話せるらしいのだが、の独白がぽつりぽつりと響き渡る。虫の声とかね、一つの車のエンジンの音がどこまで聞こえるかを追ったりしてるとね、など、魂がどんどん自己から離れていくような、そんなことはその人は言っていないが、そういうまっすぐな思いを言葉にできる人だから目の人が依頼したらしいんだけど、そういう普段会社でとか、あまり親しくはない友人とか、若干話をあわせてしまう関係性とかだと言えない、まあ深いとこ、スピってると言われてしまうことをそのまま言えたり、もちろん思うことは自由だけど、実際にそれを誰に向けてか、もちろん聞いてくれて反応があると嬉しいし、もっと深くなれるかもしれないけど、そういう場所として川があるのかもしれない。『石がある』を観た後に飲んだ金子くんもお金もなく、何もすることもないときに川に行っていた時期がある。と言っていた。

    最近よく考えるイメージとして、我々は内に音源も持つスピーカーかつ共振・共鳴装置なのではないかということだ。それは初めて落語を見に行ったとき、人情噺をするおじいさんをみていて、これはとてつもない時間、それは歴史的にもそうだし、なんども繰り返されてきたこのおじいさんの肉体もそうだし、今はいない師匠とか、そこらへんの思いやその人からの期待とかも今現時点でこのおじいさんを通して、そういうものを発生させるものとしてこの人情噺があり、ストーリーとはそのスピーカーに共鳴を起こし、時や場所を超えて何か善いもの、進化とか進歩とは関係のない、ごちゃまぜの網目の中で善いものを起こすものであるのだと理解した瞬間を思い出すのだ。だから、いろいろなものをみたりよんだりきいたりしていくなかで通じ合う、シンクロニシティを感じる、あこれは前にみたこれとつながり、だからこれを今読んでいるのかもな、とそれは共鳴・共振が起こっている。だから引き寄せの法則とかクソだと思うんだけど、決めつけない、自分を規定しすぎないで、ある程度流されてやってくるのを待ちつつ、主体でも客体でもない、中道的な存在として、共鳴・共振したところの、必要性に駆られて何かを書いたり、仕事をしたり、それこそ音楽として表現することを理想としているのだ。それは唯一善い、と言えることかもしれないなとも思う。

    『石がある』は若い女性と中年男性が川で出会い、日が落ちるまで遊び、別れ、またそれぞれの個の生活に帰っていくまでの話だ。アフタートークでただカメラを動かし、ただ川の中で撮っていったというその単純な行動、きっかけも単純で撮りたい、という中に、観る人は全てストーリーを必死に予想し、それぞれの人生の中で獲得された判断材料のもとにこの映画が伝えようとしていることを、その後の飲み会やSNSなどへの書き込みに向けて準備する。滑稽でもあり愛おしくもある我々。

    やはり「なにがしたいんですか?」の問いかけである。あとは日があるうちは平和、夜になると怖いし、終わりは大体つまらない、何か意味やゴールを見出さないと終えられない、いったい全体誰もが誰も何がしたいのかわからないのだ。朝、犬の背中をなでたくなる。下高井戸シネマでみたダミアン・マニヴェルの『日曜日の朝』と『パーク』に強く共鳴した。

    そこに何かが、石があったから何かがはじまり、一つの形として、多くの人が協力、この協力という言葉にはやわらかで朗らかなイメージ、漠然とした良さみたいなものが付きまとうが、そうではないと思うが、それぞれの個がそれぞれの善いと思うことを何故かやり遂げた、過程と結果、過程を重視するということでもなく、その実際の意味するところとかストーリーはやはり後から、そこに共感とかは全くいらないと思っていて、それぞれが共鳴し共振する体験としてあったという記憶、さらに記憶は振るえ続けるから、また別のところ、全く関係のない想いとか、だれかへの優しさだとか、自分がいられる世界を作りたいとか、意外に人は信頼できるとか、意味のない探り合いや人を試すようなことはしたくないよねとか、それぐらいの教訓めいたことでもいい気がする。

    いい映画を観た。これからも観たい。

  • 2022/10/24

    部屋でライブのセットリストの練習をして午前中を過ごす。合間に仕事の請求書を先方へ送る、偉いね。

    晴れ豆へ向かう。代官山駅に向かう電車内で寒いし唇が乾燥したらいやだなと思って、代官山駅のコスキチに入るも、ベースを背負ってのコスキチはなんとも居心地が悪い。両脇に迫るコスメにぶつけてしまったら店員や客に嫌な顔をされてしまっては唇の乾燥どころではない。ベースの長さとリップクリームの短さも何かがちぐはぐしている気がして30秒くらいで出る。

    晴れ豆はお店の人がカウンター内もPA周りの担当の人も多くて、みんな楽しそうに仕事をしていて、いいなと思う。そしてスタッフや関係者用のお茶をたくさん種類を出してくれて最高だと思った。いろいろな薬草関連のお茶、僕はこういう効能系のお茶が大好きである。足つぼなどのマッサージを受けた後に飲む系のお茶。のぞみんやバンビさんと効能についてやんや言いながら飲む。元気。

    横沢さんのライブ、横沢俊一郎さんは、とんでもなくマンガのようで、立ち振る舞いや歌のやんわりさと、一瞬後には崩壊するかも、でもそこまでは見せないようなバランスが、魅力的だ。最近ライブで緊張しちゃうんだけど、彼のライブをみていて自由にみせる感じ、なんというか攻撃的なショーに勇気づけられる。

    タイコのライブ、序盤はいつも通りタイム感がいつも通りではないが、そこらへんも楽しめた気がする。終盤、ぽっちという曲をあきさとの歌を聴きながら弾いていると死んだ父親のことを思い出して泣けてきた。アンコールで霊感は壮大に展開を忘れてしまったがまあ大丈夫だろう。

    いろんな人に褒められてシンプルに嬉しいライブであった。

    飲み会は渋谷に移動、しかしラストオーダーが早い月曜日は早い。結局いつものあそこだ。おじいちゃんが一人で笑いながら酒を飲んでいた。終電後、晴れ豆後等さんの知っているレゲエバーで乾杯。

    タクシーでは運転手と釣りの話をする。竿は竹でもなんでもいいが、リールは新品、糸を流しやすいリールを買えとのこと。降り際、音楽には全くといって疎くて…。と気を遣ってくれる。優しい。

    釣りに行きたい。水谷さんと夏目さんと。

    12/12も良いライブをしたい。お客さんもいっぱい。チケットはここから買えます。ここで見て買ってくれた人には絶対良いことが近いうちに訪れます。そんな人はかなり優しい人なのです。

    https://linktr.ee/taiko_nami_ishi

  • 2022/10/07

    会社の歓迎会があり、会社兼お店でみなさんと飲む。色々とその人のこれまでがあり今そうなっていることを、改めて知る。私もそうだ。

    とてもたくさん飲んで、私はスナックに行くのが好きですというと、解散する前に社長が行きたい人はスナックにいきましょうと誘う。とても嬉しくなり元気に歌い、飲む、人の歌はいつも意外で嬉しい。歌ってくれるだけで嬉しくなる人がいる。そういう人はなんだか信頼している。

    タクシーの運転手、61歳のおっちゃんに下北沢の蕎麦屋で定期的に集まっていることを聞く。あっという間に家につき、娘と連絡が取れないことなどを聞く。60点くらいのタクシー会話であった。波長と酔いの程度、点数をつけるなよ。

    ninoheronの”Moon”のMVがとってもカッコいい。命の右下のフック。とてもオリジナルな音楽だ。

  • 遠近法のやさしさ マチュー・アマルリック『彼女のいない部屋』

    遠近法のやさしさ マチュー・アマルリック『彼女のいない部屋』

    存在がなくなることは、すぐに、イコールで、即ち、という勢いで「悲しい」こととして思われる。これは主観的にも客観的にも、自分のことでも他人のことでも、誰かが誰かを失った、知っている人が今日死んだ、という文字を驚きをもってみるとき、知人が亡くなった、家族やペットが、というとき、それが自分のことでも他人のことでも、主観と客観が混じっているような、どこか中間で感情が動いているような気がする。傷ついた、怒り、喜び、一般的な悲しさとも違って、どこかが浮いている気がする。

    マチュー・アマルリックは僕の中では、アルノー・デプレシャン『クリスマス・ストーリー』のダメ弟の人である。家族はどれだけ離れていようが事実として家族であり、そこからは逃れられないからこそ、減っていく、失っていくことの事実性もことさらなのだ。どれだけダメな弟でも、家族に対する思いは斜に構えようが、どれだけわかりやすく反発しようが、家族への思いはとても大きい。 

    というところで、なくなったということは、「ありえたかもしれないこと」が無限になるということで、それは産みの喜びが存在・事実、陽であり、失う悲しみが想像・虚構、陰・影の面が強く感じられることと等しい。

    父親に「遠近法の書き方を教えてよ」というセリフが幻想であるとしたら、遠近法とは、単一平面に奥行きを錯覚させ、近くのものを遠くに感じさせる、まさに家族やパートナー、ペット、子ども、昔のパートナーたち、今はいないあの人やその人と、遠近法という錯覚を逆に利用してやれば、「遠いと思っていても実際は近い」ということになる。『LOVE LIFE』でも同様です。快快『コーリング・ユー』も同様です。ここにいないものへ、一方的な問いかけ、断定、自分勝手な全面的享受。 

    想像の爆心地は、もちろん、残された私、である。想像の爆心地は、その勢いゆえに、狂気や具体的な叫びとして、自らのこれまでの安心安全ゾーンのガラスを破り、あたり一面尖った先端の床、そこを一歩、二歩、と歩み出る、そんなときに私がその人をみて、やべえな、とか言わないようにしたい。とてもそう思うのだ。

    想像の爆心地では何もかもが無限の「ありえたかもしれない」の海底の裂け目の熱とそこにしか住めない生物の緩慢で着実な動きとともに動き出すため、マジックが発生する。普通に生きていては見えない聞こえない、触れない、途中でかかるストッパーは故障して下りない。ただし、持続はせず、合間に『無理がある』とこぼす。

    この映画は段々わかってくるんだけど、わからないふりをして、ふりをしつつ本当にわからない、事実はやはり面白くはない、わからないままの曖昧なままの映像の美しさに目をくぎ付けにするといいと思った。事実はやはり面白くない。『もう終わりにしよう。』と同様、最後は事実パートになるが面白くはない。やはり、事実とされるパートは当然ひとつの可能性しかないため、面白くはない。閉じていかざるを得ない映画。

    Rhye – The Fall (Official Video)

    色々問題が出ているらしいライだけど、この感じである。とても好きなMVだ。ここにいない人たちをいつも召喚している人たちもいることだろう。

    誰かを失った人に、想像の爆心地のエネルギーによって、無限の解答が訪れ、その人自身が失われるまでの間、少しでも傷が少なくなると良い。勝手な願いと、勝手な確信と、勝手な断定と、勝手な享受などによって。

  • 理由のなさ VS 近寄りたさ 深田晃司『LOVE LIFE』

    理由のなさ VS 近寄りたさ 深田晃司『LOVE LIFE』

    イタリアに行ったことがない僕にはイタリアに存在したことがない分、イタリアには愛がない、とハッキリ言える。イタリアにはすぐに行けないし、文化も知らない。もしイタリアンカルチャーに精通していてもそれがイタリアへの愛があることには決してならない。実際に歩き、何にも頼らず、情報、それも特別な『旅』要するに『貴重な経験』、要するに『高価なもの』や『ここではない経験』にはスリルやスピードはあれこそ、愛はなし。

    距離が遠いほどに、愛することも理解も難しくなる。

    LOVE LIFEという言葉は「愛すべき人生」とか「人生は驚きと悲しみ、そして愛に満ち溢れている」といった安易なものではないだろう。深田晃司は、ダサい家庭、ダサい人間関係、最近はやっている「どうしようもない人間のありのままを描く」からも、一つ底が抜けてしまったような「しょーもない人間の死に物狂いという地獄を描く」をやる、そして逆照射のように、いきなりパッと、ほんとうに映画らしいというか、ラストが輝くのだ。いきなりパッとは嘘である、あれ、あれれ、おお、おおおお、とかなり漸次的な開かれ方。

    ラブ・ライフはラブ/ライフであり、愛と人生である。切っても切れないコインの表と裏。最近よく思うんだけど、2枚のコインの表同士がピタリと重なっていて、その裏の無限空間に気づかないまま、一生を終える、みたいな人生はすごく悲しい気がする。そのせまーい何にもない空間を『切っても切れない関係』のように思ってしまったり。

    あるいは1枚の紙の夢の話。手に取ると『裏に書いてあることは本当ではない。』と書いてある。裏をみると『裏に書いてあることは本当ではない。』と書いてある。という夢。

    ラブ/ライフの重ならないけど重なる部分、それは理由がない、ということだ。愛も人生も、理由がない。理由があるとそれは単なる差異のための差異となり、他による代替可能なものとなる。その一回性、人生はわかりやすいが、愛も、一回一回の一回性こそが愛である。「かけがえのない」ということはエモーショナルな雰囲気を排したときに、ようやく本当の姿を現す。

    理由のない、不幸としかいえない出来事、それはほとんど呪いのように思えるし、実際その呪詛の告白もあった。かつ理由もなく「なんとなくですけどね」の光がある事件を作ったり。

    光は障害がなければどこまでも飛んでいく。そこに意思があろうとなかろうとそうなってしまう。目線はどうか?見なければ見えないのだ。音はどうか?聞かなくても聞こえてくるし、目の光を確認せずとも、意識があろうとなかろうと「思いもしない言葉」「音によって、別の音が聞こえなくなる」など不確定が多い。

    そんな不安定さの中で、ギリギリ動き合って影響しあっている我々。自分対世界、世界が悪い!と狭いコインの隙間から自分の顔ばかり見て、あるいは、不確定、カオスの方向に全振りするような、あるいは皮肉をオルタナと取り違えるか。

    相手や生活という対象の諸条件やセンス、過去、属性などに因らない、なぜこうなのか?という状態のまま「知らない」相手や人生と過ごすことを受け入れること。受け入れるだけではなく、「どうしても近づきたい」として、「こっちみて、よし」。そこからの散歩!

    そのかけがえのなさを経験し、体感することは、何か二重否定による真実に似ている。

    改めて、韓国の終わっている結婚式のダンスは、ひとつのパーティの理想形である。これは見もの、そのあとの流れも、これは見もの。好きだぜ深田さん、メーテレさん。

    あとトモロヲさん。

    『名建築で昼食を』で各建築への池田エライザのアドリブコメントを「うん…」「そうだね…」、あるいは「ッ…」のような返答で私の心をざわつかせてくれる。この人はかなり透明だ。

  • 実は誰もが間違えるはずはない 多和田葉子『地球にちりばめられて』

    実は誰もが間違えるはずはない 多和田葉子『地球にちりばめられて』

    小さいころからあまり話すことが苦手というか、特に話したくない人と話すことが思いつかないのが、今も変わらずである。コミュニケーション能力は、話したいとき、話すことがあるとき、どうしてもあふれ出すことを止められず、ドロッと、ビシャッと、ふんわりと、あらゆる形と、その思いに適切な形を選んで、瞬発的に出ることをさす。

    それ以外の場合は、普遍的な社会的なコミュニケーション、不特定多数とのコミュニケーション、実は全員が、周到に準備をしている、実は全員が言いたくもないことを、ほとんどの人は性格が良く、そのため正確を期するため、実は全員が準備しすぎて疲れている。あるいは真逆に、何も言わないことを強いられる空間で、「ツッコミ」すらできず、息の行き場を失い窒息している。

    疲れているか、窒息しているか。実はそうなのである。

    とってもいいことが思いついたりして、あれしてみようか、こうしてみようか、ちょっとクリエイティブな気持ちになったりして、そういうときにおばさんにプールで話しかけられたりして、「はい?ああ、確かに、不思議な泳ぎ方してますねえ」と好青年をしてなんとなくいい気分になったり、しかしそのおばさんはあらゆる人に話しかけていたのだ、実のところ。それもちょっと迷惑そうな感じで…。

    hirukoとsusanoo、どちらも追放された人たちである。ひらがなでもカタカナでも漢字でもないアルファベット表記の二人は失われた日の国、大和の国出身。偶然と絶対を生まれつきそなえる異形・奇形と、従うことのできないまま行先を探すリビドー。

    小さいころに読み聞かせられ、テレビでみたり、大人になってからも好奇心のわく、昔話・物語はなんのためにあるのか?というところにとても喜ばされた。誰もが間違えるはずがないのだ。どこかで会った気のする人とは勝手に話が進んでいくはずなのだ。

    共通する知人がいない、「あいつ、元気にしてるかねえ」ができない場合の解決策は真理をついている。あと嘘は嘘をつかれる時点では嘘ではない、未来がある限り嘘は嘘になれないというのも真理である。

    対称性、集合的無意識、感性の網目の中で、親友はいつも全ての自分たちを受け入れ続けている。それが可能性とか未来というものである。