太田さんとはコロナの流行が全体的に広まっていた2020年の5月に、和田堀公園でのピクニックで初めて会った。それ以来会っていなかったが、先日FILMEXの会場で久々に挨拶できた。『石がある』という映画の構想はそのピクニックの際になんとなく聞いていた。お酒もたっぷり飲んで、さらに二年以上前ということで、FILMEXで声をかけた瞬間に、「あの時言ってた映画だよ~」と教えてくれた太田さん、その一言で友人と何もすることがなく川辺で石拾いをしたこと、石積みをしたこと、良い石があったこと、などを聞いたことを思い出してはいない、これは映画を観て、トークを聞いたから、改めて思い出したことだ、なんとなく聞いたな。
遊びで木に引っかかったバドミントンのシャトルをラケットを垂直に投げて、何度もトライして、落してくれた太田さんの姿は明確に覚えている。垂直は僕のイメージかもしれない、背の高い太田さん。
背が高く、かといって特に筋肉質ではなく、細長い、そして笑顔が優しく、よく話を聞いてくれる、そういう人が太田さん以外にももう一人好きな人がいる。自然がよく似合う人、木とか水とか、海というよりも、山とか霧とか森とか川とか、そちらにいることがイメージしやすい人がいる。
ピクニックの後、人のまばらな駅前の居酒屋に行き、いろいろと話したが、ほとんど覚えていないが、インスタント写真や、ケータイの写真をみると、よく自分が太田さんの横で楽しそう、もっというと懐いている、といった感じで、安心しきっている様子。何か変なことや厚かましいことを言っていないと良いが、とても楽しそうである。映画の話をしたのだと思うが、覚えていない。
『ブンデスリーガ』をその数日後、まだ下目黒に住んでいたころの自宅でオンラインで観ることができ、その時の感想をフィルマークスに書いて太田さんに送った。やや私は躁状態であったと思う、そのフィルマークスもアカウントを消してしまい、何を書いたか全く覚えていない何か失礼であったり調子に乗っているような文章でなかったことを祈る、自然光の体育館で卓球をしている映像が、今は思い浮かぶ。子どもが印象的、だった気がする。とても素敵な映画、普段観ている映画の良い映画ではなく、自分が好きだと面と向かって世界に言える映画であり、それは太田さんという人間に対しての懐きからもある。個人的な付き合いのある人の映画、芸術作品をその人の印象やその人への感情を抜きにして観ることはできないし、映画を観ている間は監督のことは忘れてしまうだろうが、そのあとには評価の中に必ずその人間性が入ってくるし、それはそういうものとして映画を観ているし期待もしている自分の中では自然なこと、だから人間性と作品は切り離せ、というのは理解はできるが無理がある。
作品を作る前に、人間であることは間違いないからだ。そこにロマンは、今の私はない、純粋なる芸術への奉仕、自己滅却まではいかなくとも、やや共通の無意識やイデア的なピースには作り手の人間性は薄まるもの、というのも理論的にはわかるが不自然だ。やはり作り手、関わっている人たちがいなかったら作品は生まれない。頭や身体を動かして、協力しながら作られていくもの、圧倒的に実際に「手を動かす」人へのリスペクトが足りなくなるのが資本主義社会であるとしたら、僕は圧倒的に手を動かし、それを主張する人間でありたい。その痕跡をべたべたと塗りたくりつつ、営みを続けていきたい。
太田さんへの印象、太田さんからの僕への印象、あるいは太田さんの周辺にいるたくさんの人たちから太田さんへの印象、太田さんからその周囲にいるたくさんの人への印象、太田さんからあの川にいたことがあるであろう知らない人達への印象、川への印象、資生堂ギャラリーで最近観た目 [mé]の展示。河川敷から遠くの橋を渡る車の光の移動の映像に、盲目の写真家の人、この人はモノと話せるらしいのだが、の独白がぽつりぽつりと響き渡る。虫の声とかね、一つの車のエンジンの音がどこまで聞こえるかを追ったりしてるとね、など、魂がどんどん自己から離れていくような、そんなことはその人は言っていないが、そういうまっすぐな思いを言葉にできる人だから目の人が依頼したらしいんだけど、そういう普段会社でとか、あまり親しくはない友人とか、若干話をあわせてしまう関係性とかだと言えない、まあ深いとこ、スピってると言われてしまうことをそのまま言えたり、もちろん思うことは自由だけど、実際にそれを誰に向けてか、もちろん聞いてくれて反応があると嬉しいし、もっと深くなれるかもしれないけど、そういう場所として川があるのかもしれない。『石がある』を観た後に飲んだ金子くんもお金もなく、何もすることもないときに川に行っていた時期がある。と言っていた。
最近よく考えるイメージとして、我々は内に音源も持つスピーカーかつ共振・共鳴装置なのではないかということだ。それは初めて落語を見に行ったとき、人情噺をするおじいさんをみていて、これはとてつもない時間、それは歴史的にもそうだし、なんども繰り返されてきたこのおじいさんの肉体もそうだし、今はいない師匠とか、そこらへんの思いやその人からの期待とかも今現時点でこのおじいさんを通して、そういうものを発生させるものとしてこの人情噺があり、ストーリーとはそのスピーカーに共鳴を起こし、時や場所を超えて何か善いもの、進化とか進歩とは関係のない、ごちゃまぜの網目の中で善いものを起こすものであるのだと理解した瞬間を思い出すのだ。だから、いろいろなものをみたりよんだりきいたりしていくなかで通じ合う、シンクロニシティを感じる、あこれは前にみたこれとつながり、だからこれを今読んでいるのかもな、とそれは共鳴・共振が起こっている。だから引き寄せの法則とかクソだと思うんだけど、決めつけない、自分を規定しすぎないで、ある程度流されてやってくるのを待ちつつ、主体でも客体でもない、中道的な存在として、共鳴・共振したところの、必要性に駆られて何かを書いたり、仕事をしたり、それこそ音楽として表現することを理想としているのだ。それは唯一善い、と言えることかもしれないなとも思う。
『石がある』は若い女性と中年男性が川で出会い、日が落ちるまで遊び、別れ、またそれぞれの個の生活に帰っていくまでの話だ。アフタートークでただカメラを動かし、ただ川の中で撮っていったというその単純な行動、きっかけも単純で撮りたい、という中に、観る人は全てストーリーを必死に予想し、それぞれの人生の中で獲得された判断材料のもとにこの映画が伝えようとしていることを、その後の飲み会やSNSなどへの書き込みに向けて準備する。滑稽でもあり愛おしくもある我々。
やはり「なにがしたいんですか?」の問いかけである。あとは日があるうちは平和、夜になると怖いし、終わりは大体つまらない、何か意味やゴールを見出さないと終えられない、いったい全体誰もが誰も何がしたいのかわからないのだ。朝、犬の背中をなでたくなる。下高井戸シネマでみたダミアン・マニヴェルの『日曜日の朝』と『パーク』に強く共鳴した。
そこに何かが、石があったから何かがはじまり、一つの形として、多くの人が協力、この協力という言葉にはやわらかで朗らかなイメージ、漠然とした良さみたいなものが付きまとうが、そうではないと思うが、それぞれの個がそれぞれの善いと思うことを何故かやり遂げた、過程と結果、過程を重視するということでもなく、その実際の意味するところとかストーリーはやはり後から、そこに共感とかは全くいらないと思っていて、それぞれが共鳴し共振する体験としてあったという記憶、さらに記憶は振るえ続けるから、また別のところ、全く関係のない想いとか、だれかへの優しさだとか、自分がいられる世界を作りたいとか、意外に人は信頼できるとか、意味のない探り合いや人を試すようなことはしたくないよねとか、それぐらいの教訓めいたことでもいい気がする。
いい映画を観た。これからも観たい。