遠近法のやさしさ マチュー・アマルリック『彼女のいない部屋』

存在がなくなることは、すぐに、イコールで、即ち、という勢いで「悲しい」こととして思われる。これは主観的にも客観的にも、自分のことでも他人のことでも、誰かが誰かを失った、知っている人が今日死んだ、という文字を驚きをもってみるとき、知人が亡くなった、家族やペットが、というとき、それが自分のことでも他人のことでも、主観と客観が混じっているような、どこか中間で感情が動いているような気がする。傷ついた、怒り、喜び、一般的な悲しさとも違って、どこかが浮いている気がする。

マチュー・アマルリックは僕の中では、アルノー・デプレシャン『クリスマス・ストーリー』のダメ弟の人である。家族はどれだけ離れていようが事実として家族であり、そこからは逃れられないからこそ、減っていく、失っていくことの事実性もことさらなのだ。どれだけダメな弟でも、家族に対する思いは斜に構えようが、どれだけわかりやすく反発しようが、家族への思いはとても大きい。 

というところで、なくなったということは、「ありえたかもしれないこと」が無限になるということで、それは産みの喜びが存在・事実、陽であり、失う悲しみが想像・虚構、陰・影の面が強く感じられることと等しい。

父親に「遠近法の書き方を教えてよ」というセリフが幻想であるとしたら、遠近法とは、単一平面に奥行きを錯覚させ、近くのものを遠くに感じさせる、まさに家族やパートナー、ペット、子ども、昔のパートナーたち、今はいないあの人やその人と、遠近法という錯覚を逆に利用してやれば、「遠いと思っていても実際は近い」ということになる。『LOVE LIFE』でも同様です。快快『コーリング・ユー』も同様です。ここにいないものへ、一方的な問いかけ、断定、自分勝手な全面的享受。 

想像の爆心地は、もちろん、残された私、である。想像の爆心地は、その勢いゆえに、狂気や具体的な叫びとして、自らのこれまでの安心安全ゾーンのガラスを破り、あたり一面尖った先端の床、そこを一歩、二歩、と歩み出る、そんなときに私がその人をみて、やべえな、とか言わないようにしたい。とてもそう思うのだ。

想像の爆心地では何もかもが無限の「ありえたかもしれない」の海底の裂け目の熱とそこにしか住めない生物の緩慢で着実な動きとともに動き出すため、マジックが発生する。普通に生きていては見えない聞こえない、触れない、途中でかかるストッパーは故障して下りない。ただし、持続はせず、合間に『無理がある』とこぼす。

この映画は段々わかってくるんだけど、わからないふりをして、ふりをしつつ本当にわからない、事実はやはり面白くはない、わからないままの曖昧なままの映像の美しさに目をくぎ付けにするといいと思った。事実はやはり面白くない。『もう終わりにしよう。』と同様、最後は事実パートになるが面白くはない。やはり、事実とされるパートは当然ひとつの可能性しかないため、面白くはない。閉じていかざるを得ない映画。

Rhye – The Fall (Official Video)

色々問題が出ているらしいライだけど、この感じである。とても好きなMVだ。ここにいない人たちをいつも召喚している人たちもいることだろう。

誰かを失った人に、想像の爆心地のエネルギーによって、無限の解答が訪れ、その人自身が失われるまでの間、少しでも傷が少なくなると良い。勝手な願いと、勝手な確信と、勝手な断定と、勝手な享受などによって。

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