理由のなさ VS 近寄りたさ 深田晃司『LOVE LIFE』

イタリアに行ったことがない僕にはイタリアに存在したことがない分、イタリアには愛がない、とハッキリ言える。イタリアにはすぐに行けないし、文化も知らない。もしイタリアンカルチャーに精通していてもそれがイタリアへの愛があることには決してならない。実際に歩き、何にも頼らず、情報、それも特別な『旅』要するに『貴重な経験』、要するに『高価なもの』や『ここではない経験』にはスリルやスピードはあれこそ、愛はなし。

距離が遠いほどに、愛することも理解も難しくなる。

LOVE LIFEという言葉は「愛すべき人生」とか「人生は驚きと悲しみ、そして愛に満ち溢れている」といった安易なものではないだろう。深田晃司は、ダサい家庭、ダサい人間関係、最近はやっている「どうしようもない人間のありのままを描く」からも、一つ底が抜けてしまったような「しょーもない人間の死に物狂いという地獄を描く」をやる、そして逆照射のように、いきなりパッと、ほんとうに映画らしいというか、ラストが輝くのだ。いきなりパッとは嘘である、あれ、あれれ、おお、おおおお、とかなり漸次的な開かれ方。

ラブ・ライフはラブ/ライフであり、愛と人生である。切っても切れないコインの表と裏。最近よく思うんだけど、2枚のコインの表同士がピタリと重なっていて、その裏の無限空間に気づかないまま、一生を終える、みたいな人生はすごく悲しい気がする。そのせまーい何にもない空間を『切っても切れない関係』のように思ってしまったり。

あるいは1枚の紙の夢の話。手に取ると『裏に書いてあることは本当ではない。』と書いてある。裏をみると『裏に書いてあることは本当ではない。』と書いてある。という夢。

ラブ/ライフの重ならないけど重なる部分、それは理由がない、ということだ。愛も人生も、理由がない。理由があるとそれは単なる差異のための差異となり、他による代替可能なものとなる。その一回性、人生はわかりやすいが、愛も、一回一回の一回性こそが愛である。「かけがえのない」ということはエモーショナルな雰囲気を排したときに、ようやく本当の姿を現す。

理由のない、不幸としかいえない出来事、それはほとんど呪いのように思えるし、実際その呪詛の告白もあった。かつ理由もなく「なんとなくですけどね」の光がある事件を作ったり。

光は障害がなければどこまでも飛んでいく。そこに意思があろうとなかろうとそうなってしまう。目線はどうか?見なければ見えないのだ。音はどうか?聞かなくても聞こえてくるし、目の光を確認せずとも、意識があろうとなかろうと「思いもしない言葉」「音によって、別の音が聞こえなくなる」など不確定が多い。

そんな不安定さの中で、ギリギリ動き合って影響しあっている我々。自分対世界、世界が悪い!と狭いコインの隙間から自分の顔ばかり見て、あるいは、不確定、カオスの方向に全振りするような、あるいは皮肉をオルタナと取り違えるか。

相手や生活という対象の諸条件やセンス、過去、属性などに因らない、なぜこうなのか?という状態のまま「知らない」相手や人生と過ごすことを受け入れること。受け入れるだけではなく、「どうしても近づきたい」として、「こっちみて、よし」。そこからの散歩!

そのかけがえのなさを経験し、体感することは、何か二重否定による真実に似ている。

改めて、韓国の終わっている結婚式のダンスは、ひとつのパーティの理想形である。これは見もの、そのあとの流れも、これは見もの。好きだぜ深田さん、メーテレさん。

あとトモロヲさん。

『名建築で昼食を』で各建築への池田エライザのアドリブコメントを「うん…」「そうだね…」、あるいは「ッ…」のような返答で私の心をざわつかせてくれる。この人はかなり透明だ。

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