投稿者: akiospirit

  • 2022/07/29

    やると決めたことが、自分で決めたわけではないが、やってきたやるべきことが、二三個終わって、しかも週末が出勤となると、褒められたりして気分もよく、最近筋トレ、スロートレーニングを一日おきに10分ずつ、できればそのあとにエアロバイクあるいはスイミングを継続的に行っていることで朝からややテンションが高いので、しかしあまり眠れない日も多い。よくもまあ、とこの暑い中全然自分が体力があるから、と、意ともせず、よく考えもせず、仕事を休んで、これまではそうしてきて、間に合うときは間に合うし、クオリティはそれなり、に保ってこれた。しかし、引き延ばしはそれ自体が体に悪い気もする、それがいい具合にテンションになっているから、ストレスはテンション、身体と心の張りを生む。

    20代にまでがヒトの生きるに値する正しい世界だ、ということを読んで、まあ確かに太るしな、生物・動物・生き物としては、確かにそうだろうなと、街を歩く大勢の老人、働く中年、工事現場の焼けたおじいのタバコ休憩などをみていて、僕ももうこちらに入っている。どっぷりとこちらだ。白髪は増え続けている、お腹周りはなかなか減らない、しかしダイエットが楽しいし、仕事で金を稼いで給料は上がっても全然たまらないのが不思議でおもろい、服はいろいろな店に積極的に入るも何も欲しくない、ほしいのは化粧水やボディーソープでいい匂いのものや、アロマオイルなど。あと本しか買ってないのに、競馬や競艇、借金だ。金のかからない趣味、音楽を作ったり、分析したり、お金がもらえるのは不思議だ。

    私は中年に入り、迷いがなくなった。迷いがないというのはきっと、何かを決める、ひとつに決めるのではなく、どちらでもよい、後の祭り状態、帰ってもいいしな、朝を迎えてもいいし、一人で帰ってもいいし、このまま誰かんちいってもいいな、とそのずーっとを引き受けることだ。しかし、ずーっとはずーっと続くし、悩みは増え続ける。このままずっと同じことを?と長い将来を考える。当たり前に。

    確かに面白いことは、かなり少ない。交友関係もかなり狭いし、イベントにも顔を出さんが、ただそうした中でずっと考えている自分と自分と自分。

    ライブがある今度、その準備が楽しくもあり、大変でもある。楽しくもあり大変でもある。楽しくもあり、大変でもある。これが死ぬまで続いていくのみ。絶滅は近い!!!!!!!!!!

  • 気持ちのよろしい『リコリス・ピザ』

    気持ちのよろしい『リコリス・ピザ』

    最近は仕事も落ち着いている日が多く、仕事とはなんぞやと思う。休みと平日の境目をなくしていくことでダイエットを継続することが可能だ。

    やっぱりこの日も暇で、昨日は新宿で『わたしは最悪。』という、何もないスレッカラシの映画を観た、この映画は一体なんなのか、瀬戸内寂聴物語、失楽園ブームの再来なのか、スレッカラシであった、好き放題ふるまうのも好き好きだか、節操ねえバカはどうしようもない。

    なので今日は日比谷だ、とシネシャンテに朝から向かう。日比谷はいいね、地下鉄からシャンテに直結、しかし、わかってはいるものの、シャンテにシネシャンテはないのだ。しかし、もしかして?という気持ちからシャンテから出る、晴れている、ビルの間に雲と太陽。晴れてる。

    シネシャンテの平日朝の会は年齢層が高い、居心地がいい、PTAの映画はコメディだ、際物たちの人間性、破綻した人間性の、主に悲しみを描くコメディだから、おじいさんと一緒に、ツボが一緒のおじいさんと一緒に笑った、同じ個所で。

    ハイムである。この人達のバンドはめちゃくちゃ有名らしいが、なぜなのか。いつも不思議だ。立ち振る舞いだろうか。クラフトジンを作る三姉妹もいる、クローバージンは要チェックである。クラフトジンのHAIMである。

    ハイムの三女が主役で、フィリップ・シーモア・ホフマンの息子クーパー・ホフマンも主役。このクーパー演じる主人公が、PTA特有の”カリスマ”である。私はカリスマ的な人と出会ったことはまだないが、PTAの映画で、”カリスマ”とはこういう雰囲気、なんでもやっちゃう雰囲気とどうしようもなさを100%体現する人だと感じる。最近好きなジェシー・プレモンス(『もう終わりにしよう』のハマり度が最高)のもつ朴訥さと鷹揚さを持っている、曲者クーパー・ホフマン。

    ハイムの人も良かった、セレブリティとは思えない感じ、セレブリティってなんだよ、とか思ってそうな感じもある。インタビューもちょっと抜けてる感じだ。「次は『ワイルド・スピード』かしら。」みたいな。

    ハイムのアラナ・ハイム、リアルファミリーネームをバンド名にするのめちゃくちゃいい。両親も出演、誇らしくてたまらないだろう。アラナがトラックをバックで操縦するシーンが格別、新しい、新鮮、みたことない、示唆的、滑らかな曲芸、ハードコアだ!と主人公のカリスマバカが喜ぶが、そこでもういやだってなるのが最高。

    PTAの芸能人、セレブは狂っている、ギンギンな勃起的狂気を演じるけど、それに対して、空気の抜けたようなカーアクション、いなし、流れを読み、方向性だけ与える力、いったん坂の踊り場でぐっと方向転換するときの気持ちよさ、これを『女性的な力』と仮に置こう(性別の女性とは無関係)。踊り場に乗り上げ、さらにエンジンで坂を登り詰め、ギンギンするのではなく、ひゅるりと流し、正しい位置に停まるための。

    なんだか気持ちがいいのだ、時代も駄目さもすべて置いておこう、おそらく長くは続かないであろう、いろいろな恋愛の『失敗』を思い出し、よかったのだ、と一方的に思える。

  • 2022/07/17

    2022/07/17

    住んでいる駅も、都心に向かわない方、午前中に乗ると、それはまた旅の空気だ。

    向かい側のホーム、都心へ向かう人たち、明らかに何か意味を求めるから都心にいく。買い物、デート、文化、お金を使いに、あるいはお金を稼ぎに仕事へ行く。

    1人旅をするとき、向かいのホームの人を見る時間は普段よりも長く、普段向かいのホームの人を見るときよりも想いを巡らせる。それは1人の寂しさ、孤独である時間にしか過ぎらない思いや、1人であるからこその感情の中に存在できるからであり、感情は自分の中にあるのではないことがよくわかる。

    とても関係のない人たちが、自分とは逆に行くのをみるのは、不安も大きく同時にとても心地よく、そこにこそ一人旅の良さがある。

    人間は人間同士、全く異なる風貌をして、全く違った声で話す、しかし大体は同じ、似ている、と言える。どちらにつくか、この違った、と、似ている、について。正しさと虚偽、確らしさと出鱈目、言葉は何かを正しく伝えるために出来たのだから、嘘を嘘であると正しく伝えるために使われる嘘の言葉は全くもって正しいことになる。

    逆に、これは本当で、正しくて、良いもので、素晴らしいもので、為されるべきものごとで、必要で、導いて、決まっていて、明らかで、強い、かっこいい、いけていて、宜しい、ということを言葉で伝える時、言葉はそもそも『言葉にならない、定まらないもの』を伝えるためにできたのだから、その決まったものを伝えるという点で、唯一の明らかな虚偽なのだ。

    ノグッチと清水さんと初の競艇に、多摩川競艇に行く。府中本町からバスで向かう。府中本町には登戸から南武線、こっち側に来ると意味を失いつつあり、とてもやはりというかギャンブルに向いている土地、磁場がある。

    母方の祖父は競艇が好きでよく戸田競艇に行っていたらしい。多摩川競艇には老人がやはり多く、バスに乗りながら、一度祖父と競艇に行き、色々と教えてもらいたかった、その中で話すことも多いだろう、と思ったがもう死んでしまったので、それは一度として実現しない。しかし今のこの思いは実現している、これはこの限りでとんでもなく純粋な真実であると思う。

    清水さんはなぜか財布を忘れてきた。柵越しに100円玉を渡す。入場後、一万円札を貸すと、アメリカンランチのバッグにそのままいれた。

    競艇は、六台のボートが走る、18頭の馬よりも格段に簡単だろうと思っていたが、初めの一レースしか当たらなかった。清水さんは競馬よりも哲学性が高い、という。より当たらないことがわかる。確かに。

    府中本町の焼き鳥屋は良い、洞窟平家の向こう側にあった、自然に店があった。

    選挙や政治、ノグッチの旅の話を聴く。選挙は変えようとする時点でダメだと思う話。民意の反映、という大きなすり替えによってただの民衆大バーゲン祭りの定量を、民主主義という定性的価値にすり替えているだけなのだ、保守に対して逆張りのことは誰でも言える、もっと大切なことはもっとある、もっともっと自分で考える人が政治をやるなら投票したい、投票しようと言いたい。

    変えるためには、自分でやるしかないだろう。

    あるいは清水さんの言う、変えると思うのではなく、変わらないのだから、自分がいかに変わらないでいるかを大切にすること、を大切にしたい。

  • フィッシング詐欺とWANDS(世界が終るまでは… )

    フィッシング詐欺とWANDS(世界が終るまでは… )

    2022/6/25にフィッシング詐欺に引っかかってしまった。仕事のインタビューを終えて、ベッドに寝転んで休んでいてメールを確認しているとAmazonから支払いの更新ができておらずアカウントが失効する、「もう」アカウントは停止します。ともう、にひっかかったものの、んぼーっっとしていたので、やべえ!早く!と打ち込んだ。一度Amazon.co.jpに飛ぶのもミソで、こんなん引っかかってもしょうがない、と恥ずかしさを打ち消す。恥ずかしい、絶対に引っかからないと思っていた。

    すぐにカードを停止したのち、5時間後、引き落とし不能を告げるメールが来た。私はデビッドカードを使っているのですぐに引き落としがされるのだ。238000円と58000円、20万の方はカーアクセサリー店、5万の方はジェラピケとか販売しているサイトだった、怖い、自分で稼いだお金ではないのに、豊かな生活をしようとしている。怖い、私はとても脆弱、もろく、攻撃を受けやすい、バルネラブルな存在である、カードは怖い。

    この、フィッシング詐欺、詐欺を受けてお金を失ったとしても、もし他人(中国人?)の生活を豊かにするためだけに頑張って稼いだお金を持っていかれたとしても、最近は住民税の支払いが天引きになっておらず意外な請求がきたり、借金の返済や、辞めた時期の関係で前の会社への返金によって結構痛い額を持っていかれたり、損をこうむる、みんなが私のお金を持って行ってしまうイメージ、そんなことはない、全ては私の問題である。

    私が何かしなければ、あるいは、何かをしていれば、お金は持っていかれない。お金はあるほうが幸せなのか?損をしたのは自分なのか?何かをしなければ、あるいは何かをしていれば、ということは、そもそも何も変わっていないのでは?

    そう何も変わらないのである。この世界が終わるまでは、お金があろうと、なかろうと、私の問題であることは何も変わらない、というのは確信にいたるべき存在である。突風でまぶたが裏返ろうと、家が火事で燃え尽きたとしても、私の問題である。

    何が問題なのか?、何の問題が私に関係しているのか?

    「世界が終わるまでは 離れることもない」

    宇宙がなくなるまでは、離れることができない

    世界と宇宙は、それ自体の存在にしか因っていないため、存在していなく存在していなくもない存在である。存在である、といえるだけ、存在である、しかしそれをまるっと認めるさらに大きな容器を持たないため、不確定な、揺らぎやすい、脆弱な存在である。まさにフィッシング詐欺で他人のジェラピケを買わされる人間のような状態である。

    宇宙・世界・神がフィッシング詐欺にあったら、ほんとうに誰も助けてくれない。他者の利益を拡張するために、自分の資産、あるいはもって生まれたもの、資質を動かし、エネルギーの代償として得てきた、培ってきたこの私の一体で離散の結果であるものたちを、誰もが狙っている、そしてそれは、その者自身の問題であるのだ。

    世界が終わるまでは離れることもない、その絶対的確信において、自分こそがすべての問題である、ということ。

    何の問題が自分であるのか?

    • 使命をもって、何かに貢献し、何かを極める必要はないこと
    • 使命感をもってコミットし己の役割を果たすこと
    • 何も考えず、死をまつこと
    • 対価を得る、奪う、圧倒すること
    • 価値を伝えること、またその価値を価値であるということを伝えること
    • 全く無意味なことに耽溺すること
    • 考えている自分自身を愛すること
    • よくわからないことでも、よくわからない、と思うこと
    • よくわからないことでも、わからないといえない人のことをわかってあげること
    • 全てを台無しにすること、また、それを深く後悔すること
    • 寄り分け、間を探し、常に間に存在していること

    そして、圧倒的に何もかわらない。夏の雲、水を浴びた後、それは今では区民プールだ、そしてそのあと夏の空の雲、濃厚な青と白、まるで物のような雲を見るとき、同時に筋肉が動いているあの感じ、空は同じだ、いつでも同じだと思うように、圧倒的に何も変わることはない。小学生のころ、おそらく小学校のプールに昼間に、土曜の昼間に向かう道の空、暑かった。小さいころはよくキャップをかぶっていた、ナイキのキャップ、それをかぶってずっと下を向いて歩いていたが、ふと雲を見ようと顔をあげた瞬間太陽の光、鼻血が水鉄砲のように噴出し、目の前の電柱を真っ赤にした。その赤、しかしそれは現実だったか?夢であったか?あるいは、隣に一緒に歩いていた友達、あるいはその友達にいつもついてきたその弟のものであったか?

    過去と夢は違うのか、過去の夢を現在思い出す、というのは、いったい全体何をしているのか。世界は終わることはない。

  • 意味から存在へ、眠る方法 『プティ・カンカン2:/クワンクワンと人間でないモノたち』、『MEMORIA』、『名付けようのない踊り』

    意味から存在へ、眠る方法 『プティ・カンカン2:/クワンクワンと人間でないモノたち』、『MEMORIA』、『名付けようのない踊り』

    好きな映画監督、本当に好きな監督はそうそういなくていい。ブリュノ・デュモンとチャン・リュルと何度も言おう。好きだから応援することで次回作が生きている間に観れるから何度も言うべきだ。とても慎重に、だらだらと観れる映画が好き。非常に他とは違うことを、違うことを大事にする。もう絶対にそうする。同じことはつまらないから、辺境に存在する。辺境の意味を考えない。

    牛糞のようなべとべとが落ちてくる映画、”くそったれ”の空の映画である。

    目黒シネマでこの前観た、『名付けようのない踊り』の中で使われる、田中泯が歌う『皆殺しの青空』である。

    いい曲である。空があったら、必ず雲や鳥がいる。水鳥、カモメなど。それは想像の記憶の、場の記憶というものだ。座るだけでなんかいろんな気分になる椅子がある。石がある。

    空からベトベトが降ってきて、他人が増殖する、自分がもう一人存在し行動しているのを目の前にしたら、それは世界の終わりを感じるだろう。

    何が好きかというと、破綻しているから、当たり前を疑う、普通って何?、と書くと、言葉にするとすべて陳腐なものになるが、当たり前って何?なのだ。昼間から映画を観るのが当たり前ではない。お金を稼ぐために、生活するためには、破綻は許されない。

    うまくしゃべることから逃げてきた人生である。フリューエントな喋り、大体信用しなくていい。破綻したこと、ここでいう破綻は、ただ破綻という言葉の持つイメージではない、カオスがカオスでないように、もうどうにでもなれ、というものではなく、埋もれた土。階段の隅の日が当たらないところに身体をうずくめる踊りだ。

    皆殺しの青空、パンチがあるな。笑いそうになるが笑わない。『MEMORIA』も観たがとてもいい雰囲気の続く映画だ。怖かったが。いつくるのか?という意識の持続はとてもリアルで、実際の体験としてそうなっているところがアートとしてわかりやすく体感できる。舞台、再現システムとしてのアート映画。アート映画て。となりに来たカップル、丁寧におれは『大阪』を読んでいた予告前。「ここに座らせてもらおうか」と内側にふたり、足元の水筒が倒れないか一瞬思ったが、それとなくカップルは普通に入っていった。その男。音の映画の、音の原因?ネタバレである部分、たしかにあそこは笑いそうになるが、笑わない。その証拠に男以外誰も笑っていないだろう、その笑いはなんだ?怖かったんだろうな。たぶんそう、その証拠に彼は二回も笑った、ふふん、と二回も。俺は忘れないぞ、笑いは超越、カオスから規律への回収、日常への軽い取り込み。アートをものともしないタイプ。

    くそったれの空である。

    『MEMORIA』は小粒な自分を思った。無限回の半睡眠と映像の繰り返しでたどり着いた感想、ただの自分は、ただの人間は、ただの存在は、ひらがなの例えば「あ」でも「お」でもいいんですけど、なんでもいい、それくらいの音の印象くらいのものに代替できる気がする。ということ。かけがえのないものとして命が扱われすぎる、それは規律であり、気持ちがいい、とても正しいが、どうでもいい、もっと離れられないかとも思う。思わないとそれはかけがえのない命!とするだけでは、本当の意味では誰もが死にたくない、寿命を延ばし続けると思う。それはかなり間違っている。どれだけお金を稼いでも死ねないようになる。

    私というもの、正しいこと、間違っていないことに対する、確かな死。映画を観ている間、確かにほとんど死んでいた自分が。ひらがな、アルファベット、音楽のここがなぜか好き。響きとしての生命、仮にそれがひらがなの一文字であってもいいなと思えた。

    ブリュノ・デュモンの映画には障害を持つ、脳性マヒなのか、いろいろな動き、それぞれの個別の動きや話し方、ほとんど話せない人も何度もでてくる。主人公は鼻がつぶれている、補聴器らしいものもつけている。quin quinからCoin Coinに名前が変わる。車はまっすぐ走らないし、無駄しかない、無免許運転で、それはメジャーな映画を斜にみる。キスシーンはガムのくちゃくちゃと同期する。しかし、バカみたいに純粋な愛がでてきたり、とても大事なことが二つだけバカな警察、警察じゃないなんとか、国家公安のものから言われる。

    大事なことは代替可能であることである気がする。そこにしかかけがえのないことはあり得ない。他でもないこの話し方、この座り方、歩き方、運転、表現、伝え方、やるべきと思ってやること、どうしてもできないこと、それらが、一つの音や石や動き、田中泯のあっち側までいきそうになる、だけど幸せである、そのギリギリの状態でいることが生きること。当たり前のことであるが、全く素晴らしくも大事でもない、ただそれだけのこと以上の意味や分析はクソ。絶えず計り知れん動き、その次の意識などに曝露していること。

    不眠は自分を「かけがえのない自分」と思うことで、どうしても手放せないことから起こるとのこと。内田樹と三砂ちづるの往復書簡、「第10回 「ものすごく気持ちの良いこと」を経験した強さ」はとても面白い。

    寝る前はよくわからないがよくわかる本がいい。眠くなる。自分から離れ、どうでもいいことを言う、フェルナンド・ペソアを最近はよんでいる。

     理解するために、私は自分自身を破壊した。理解することは、愛することを忘れることだ。レオナルド・ダ・ヴィンチは「人は理解した後でしか、愛したり憎んだりはしない」と言ったが、この言葉ほど嘘であると同時に意義深い言葉を私は知らない。
    
     孤独は私を絶望に追いやるが、他人といるのは気が重い。他人の存在は私の考えをそらしてしまう。私は、特別な気晴らしを感じながら他人の存在を夢見るが、その仕方は分析的に定義することはできない。
    
    (フェルナンド・ペソア,『【新編】不穏の書、断章』,平凡社ライブラリー,2013,217ページ)
  • ブリュノ・デュモンの徹底的な信頼と実験

    ブリュノ・デュモンの徹底的な信頼と実験

    日記によると、2021/12/17、18にユーロスペースにて『ジャネット』と『ジャンヌ』を観ている。その時の感想、17日「『ジャネット』の良さよ。キメ。真顔でふざける。いつだって。」18日「『ジャンヌ』の苦しさよ。空しさよ。」この日は原宿のキンセラとTOXGOにも行ったみたいだ。

    ブリュノ・デュモンはとても好き。ジャネットを観て、すぐに好きパンフを読んでもっと好きに。真面目だから。

    JAIHOで『プティ・カンカン』と『スラック・ベイ』も追って観た。人物が良い。人物の良さを、笑える範囲で誇張、誇張ではない、たぶんそのまま出す演出をする。たまに誇張する。それが、人を嘲笑うような奇妙な露悪であるのでなく、シニカルでもなく、ただその姿や志向、その個人にしかない、「どうしてもそうなってしまう」というところ。もっとも完璧にあるためには、ただ存在すればいい。というようなもの。信頼というと輝かしいが、そんなものではない、信頼と実験、面白がることは何も悪くない、相手がいる世界では当たり前に発露されるべき行為である。

    どんな人間も、面白い。ある意味、こちらの酒の飲み方にかかっている。

    歌声、話す声、身体の、筋肉の動きは、その人にしかなく、一回しか同じ動きはない、その意味でまったく、自然と同じであり、同じく、神の表現の一つの形態であることは頭では理解できる。

    歌声は死んでも忘れないし、電話の声は死ぬまで変わらない。

    6/5にマキ、マリカ、吉岡さんと下高井戸シネマにて、『ジャネット』を観る。二回観るもんではないな、と思いながら、これ、面白いかな?みんな楽しんでいるかな?と不安なまま観ていた。

    みんなそれなりに面白くみていたみたい。それでよかった。

  • 2022/06/12

    2022/06/12

    ・昨日は駅近くの焼鳥屋に行った。焼鳥といいつつ、焼きトンの店、は必ず美味しい。そして、漬け物、糠漬けのつかり具合が浅くてとてもよろし。カリカリのアブラがうまい。ホッピーは白、三杯いけちゃう。

    ・その後いつものスナックへ。おじさんにはその人オリジナルの感動があり、歯の抜け方や話し声には死んだ父親を感じる。わたしもおじさんである。立派なおじさん。立派なおじさんと立派な女性が見事にタバコを吸い歌い会話する場所。隣の白髪の短髪角刈のおっちゃんが町会長をしていたという。

    ・その話から、その駅の近くの川まで歩く。鷺がいる川、おじいさんと孫が川の中で何かを探している。何かがいるだろうそれは、綺麗な川だから。鷺は僕の存在を認めて、放尿した。その量は大さじ2杯といった感じで、どう考えても小分けしていそうだ。勢いの良い。

    ・川から横に道を、緑道を抜けた先の銭湯へ。その前によく話す店主のいる雑貨、古着屋へいくも、欲しいものはない。この後銭湯へいきます、というと僕のメッシュのバックをみて荷物少ないですねー。いや、この手ぬぐい一本で。かっこいいー!

    ・銭湯開店直後、挨拶をする近隣のじいさんたち。オケを使ってお湯を掛け合ってはしゃいでいる、今日の湯の温度がいつもより熱いらしい、それを身体に掛け合って、笑っている。よれよれの身体で、ゆっくりと動き、ぎりぎり湯から上がって、それにかける、笑う。手を上げて、またな、と。

    ・Alminum Groupが新譜を出していた

  • 2022/05/28

    • 朝、10時半くらいにデニーズにいった。きれいなデニーズ。小さいころ、連れてってもらってうれしい場所デニーズ。券をとって順番待ちをする。6番である、2番が呼ばれている、いないようで3番、自分が券をとる直前も男女が券をとった直後、5番ということである、同フロアにある100円ショップにでも行こうか、と言って入口を離れた、3番はいた、入っていき、もうすぐに4番が呼ばれ、4番もいない、5番は僕は「いない」ことをわかっているが、係員は知らない。すぐに6番である。入れた。思ってたよりも10分の1の待ち時間だった。しかし、なんとなく待たない気もしていた気もする。
    • その前にはペットショップにも行った。ケースの中にいる子犬、成犬は売られていない、子犬が扉の僅かな隙間に鼻先を突っ込んでこちらの臭いをかいでくる、足元の方を見ている、足は強くにおうのかやはり。目が合う、というのはほとんど会話である。目を合わせないように努めるおばさんは、夕方の散歩、サンダルでぽてぽて歩く健やかで軽い気分を地面に留まらせる。
    • 100円ショップで買ったバドミントンで、公園でバトミントンをする、サンダルなので機動性がなくすぐにやめた。意外とできるし、楽しい、わきの下が良く伸びる。
    • 公園で寝ながら『無敵のソクラテス』。はだしになって。いろいろな極小の虫が頭からバッグまで、なんでも行き来している気がする。ソクラテスとその妻であるクサンチッペと、フェミニストが性について討論をする。美女コンテストの話。
    • 久々にプールに行った。休日は混んでいるイメージだったが、たぶんみんなそう思っているから、平日となんら変わらない混みよう。最近は泳ぐのと同じくらい水中で歩いている。いろいろな型をつくる、横にスライドしたり肩甲骨をよせながら歩いたり、スライドする際に手を拳法のように左右に交差して、効率的に水をかく。あといつも通り半手、右手だけのバタフライ、これはほんとに飛ぶのでストレスが飛ぶ、動物のようなしなる身体、もっとうねりを…!とか思う。
    • 近くの店で今日久々に会う(と思っていた)人への手土産としてバターサンドを買う。いつもここの店員さんはかなり間に合っていない。注文のタイミングも読めない。バイトになってサクサクさばいてあげたい。しゃばい笑顔で。
    • 新宿南口から長いスロープを初めて降りてほとんど三丁目まで行くルート、初めて降りた、こういう道は大好き。悠々とする、その前のあそこ、人が多いとこ、よくパフォーマンスしているとこで、ゆずのような二人組がやっていたり、ちょっと太めのセンターの男を含む三人組ダンスユニットもいたが、二人組のギターユニットはなかなかの人だかり、おばさんが小気味よく身体を揺らす、半身はオーディエンス側に向いていて、曲を知っているのだろうな、ハモリのほうの男子に張り付いた満面の笑みが本日の新宿をあらわしている。
    • 店に着く、最近はマスクをしているので、一人でいるときに街を歩くときは小さい声で話しながら歩いている、「センスよ…」とか「おいおい」とかそんくらいあとは口笛も吹く、どんな風に知らない人からしたら感じられるのだろうか。店は6階、エレベーターホールで地下に向かう家族、ベビーカー、夫は俺が来たのを見て確認し、素振りの素振りを始める、このすぶりのそぶり、ある種の人間に特有の、間の持たせ方であったり、独特の恥じらいの埋め合わせのようなものだな。そして6階に着き入口にいた店員さんに予約の名前を告げると、ないみたいですね…と、確認すると、結局はその予定は来週だったのだった。
    • 瞬間顔は真っ赤っかになり、余裕ぶって到着したのに汗だくになっている、伊勢丹、ウーマンなど行こうかとそれぞれ一瞬間ずつ迷うがもちろんいかない。
    • 帰りの電車で、優先席に座っていると、前にベビーカーを持った家族、夫は連結部の扉前に立つ感じ、しばらくして連結部の扉をみる夫、小学生くらいの子どもが移動してきたようだ、夫はさっと身体をよけ、子どもを通してあげる、子どもは歩いて、立ち止まり、振り向いて、夫をしっかりと見上げ「ありがとうございます。」と、言った。夫はうなづく。俺は笑いがこぼれた。座っている妻も笑う。とても良いと思った。普通のボリュームで子どもっぽくない声だった。大人でも子どもでも関係ない。昨日やばおばさんに電車内で手を叩かれたのもあり、救われる思い。ちゃんとコミュニケーションしよ。

  • 夢中Womboに

    夢中Womboに

    昨晩は2時まで眠くならず、山下翔の『温泉』を引き続き読んでいて、突然、あ眠い、とくる、こんなん一生やってくんだろうなと夜は思うが、朝起きたらそんなことは忘れて、なんかそういうのもいいよね、くらいになる。人間は死を意思することはできないらしい、と池田晶子が書いていた。

    ほんで朝起きてトーチで漫画読もうかなと思ったけど、腹減ったので6枚切り二枚使って、ベーコンととろけるチーズを焼いて、クレイジーソルト(レモン)とブラックペッパーをかけて食べた。目玉焼きも。水でゆでるような目玉焼き。味はつけない、卵を食う料理だ。

    テストは終わりが近い。あと大問1問という感覚だ。早く終えて、全てをゴミ箱に放り込みたい、私はそうして今まで成長を続けてきたのだから、最近読んでいる『君たちはしかし再び来い』(山下澄人・著)がほんとうによいのだけど、「わたしの使い方が最近難しくなっている」というような表現が、ぐっと気に入ったのでこれをタイトルに短歌を詠んでみたい。

    仕事をしながらスポッティファイ。とりあえず、Colaの新譜『Deep in View』が開放されていたので聴く。コーラというバンド、もともとはOughtというバンド、コーラと読む。バリバリ切り貼りする音楽のCOLAもいたよなと思うが、もはや…

    このバンドのレコード欲しいなと思いレーベルを調べると、Fire Talk Recordsだ、アーティストを観ると最近好きなバンドが多く所属しているみたいで、インディーロックの復活を狙っているレーベルだ、センスがいい!これを調べている自分もセンスがいい!あんま知らないバンドを知っていたい!いつだってそうありたい、それはもう、きっといつまでも、そうありたい、そんなこと願ってはいない正確には、山下澄人の文体を真似ている 文体などは二の次に  

    正確であらねばならない、生きているうちは正確に自分の意識下にコントロールを行き届かせ、頭の白髪から足指の爪の汚れまで、全てを意識できていないと、それを言葉にできていないと生きている実感は得られない、そして、仕事だ。誰よりも熱い思いで、クライアントに最大のバリューを、提供していなければ生きている、とは言えないはずである。こんなことは本当に思っていたりする意外にも、その証拠として、同僚からは大堀君は仕事に真面目だよね、と言われる。そうなのだ。

    そして、Wombo、ヲンボであるな。この曲が好きだった、知っていたので、すぐに目に入った。なんかとてもよくないか?

    新譜がでる、その中の先行曲、バックフリップ。これはレーベルが造ったであろう映像。センスがいい。コメントをしている。

    そして配信映像、ベースボーカルの女性、ギターの古着男性、ドラムスのひげ、全てが最高といえる。この当時の新曲、カメラ目線、夢中である。レコードを買いました。

  • 感情と暴力

    感情と暴力

    ネタバレについては全く気にしたことがない、そもそも「ネタの漸次的暴露」として作品をみていないから。ネタは種、つまりコア、エッセンスであるだろう。その意味で一言化、スローガン化ともいえる。一言による抽象化は私にとっては本来の意味での抽象化としては感じられない。一言の感想、つまりは、「感動した」「絶対いいからとにかく見て」「最高!」「泣いたわ」「見ればわかる」「見ないと損」「3分でわかる」「わかった」「とっても理解した」「誰よりも理解した」「わからない」「説明してほしい」「説明を要求する」「わからないことがわかるまで説明するまで絶対に離さない」


    決して、言いたいことを真正面切って、忙しい現代人同士お互いのスケジュールや気分をおもんぱかりつつも、「ここはあえて伝えさせていただきたい」、言いたいことを真正面切って、あるいは喫煙所での”タバコミュニケーション”によって伝える必要はなく、菊畑でも回遊しながら、フルートでも吹きながら、ほとんど独り言のようにつぶやき続ければいいのだ。相手に聞こえない声が一番、もし聞こえてたら、わかってくれたらただただ嬉しいと思う。

    暴力について、友達が「『メイドの手帖』を観て、身体的な暴力だけが暴力ではないことに改めて気づいた。」という趣旨の話をしたときに、「ああ、モノを投げる、とかね。」と間抜けた返答をしてしまったが、暴力とはそもそも、と思い語源を調べてみた、

    • 『日本語源広辞典 増補版』(増井金典著 ミネルヴァ書房 2012)「暴力」の項の説明では、「中国語で、「暴(乱暴)+力」が語源」とあり、「violence」には言及していない。『明治のことば辞典』(惣郷正明,飛田良文編 東京堂出版 1986)「暴力」の項なし。「暴動」はあるが、項中に「violence」はない。

    とあるように、英語の”VIOLENCE”との関連は薄く、「肉体の力を四方八方に発動し暴れる」というフィジカルなイメージの強い言葉である。”VIOLENCE”の語源として面白かったのが、印欧語源だ。

    • 精力的に強い願望で何かを求めること。 また強さや力を意味する名詞形の語根。violentなどの由来として、力で対処すること。印欧語根wī̆-ro-に関係。(To go after something, pursue with vigor, desire, with nown forms meaning force, power.)

    この印欧語根wī̆-ro-の派生元”weiə-”もみるとわかるように、「激しい内面の欲求を誇示する」こと、gain,world,Man,invite,violate(werewolfまで!)も同じ語源である。おそらく「魅力的に力強く惹きつけて金稼ぐからあまねく犯せる世界を制覇できる」というような意味を持つ言葉の「響き」であるだろう。マジックなワードである。魔術的である。ハッキリ言って気持ちが悪い。


    ということで、暴力という言葉には、バイオレンスへと立ち返るにしても、どこかその悪性を「やんちゃな魅力」のなかに混ぜて、なかったことにする力がどうもありそうだ、と考えたのだ。

    暴力という名詞ではなく、この気持ち悪さを精緻化する言葉が欲しいとき、私には「感動」がこれにあたるのではないかと思える。外的な影響によって心が動いたとき、その結果の善悪が重要であるが、外的な影響を発する側(これがほとんど私たちの生活すべてである)に必要な姿勢として、「感動」を強いていないか?という内的な自動反省だ。

    誰かの心を動かしすぎていないか?殴らなければ、何をしてもいいのか?

    SNSには暴力と告知とくだらなさと美しさに溢れているから、やめた。