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  • 意味から存在へ、眠る方法 『プティ・カンカン2:/クワンクワンと人間でないモノたち』、『MEMORIA』、『名付けようのない踊り』

    意味から存在へ、眠る方法 『プティ・カンカン2:/クワンクワンと人間でないモノたち』、『MEMORIA』、『名付けようのない踊り』

    好きな映画監督、本当に好きな監督はそうそういなくていい。ブリュノ・デュモンとチャン・リュルと何度も言おう。好きだから応援することで次回作が生きている間に観れるから何度も言うべきだ。とても慎重に、だらだらと観れる映画が好き。非常に他とは違うことを、違うことを大事にする。もう絶対にそうする。同じことはつまらないから、辺境に存在する。辺境の意味を考えない。

    牛糞のようなべとべとが落ちてくる映画、”くそったれ”の空の映画である。

    目黒シネマでこの前観た、『名付けようのない踊り』の中で使われる、田中泯が歌う『皆殺しの青空』である。

    いい曲である。空があったら、必ず雲や鳥がいる。水鳥、カモメなど。それは想像の記憶の、場の記憶というものだ。座るだけでなんかいろんな気分になる椅子がある。石がある。

    空からベトベトが降ってきて、他人が増殖する、自分がもう一人存在し行動しているのを目の前にしたら、それは世界の終わりを感じるだろう。

    何が好きかというと、破綻しているから、当たり前を疑う、普通って何?、と書くと、言葉にするとすべて陳腐なものになるが、当たり前って何?なのだ。昼間から映画を観るのが当たり前ではない。お金を稼ぐために、生活するためには、破綻は許されない。

    うまくしゃべることから逃げてきた人生である。フリューエントな喋り、大体信用しなくていい。破綻したこと、ここでいう破綻は、ただ破綻という言葉の持つイメージではない、カオスがカオスでないように、もうどうにでもなれ、というものではなく、埋もれた土。階段の隅の日が当たらないところに身体をうずくめる踊りだ。

    皆殺しの青空、パンチがあるな。笑いそうになるが笑わない。『MEMORIA』も観たがとてもいい雰囲気の続く映画だ。怖かったが。いつくるのか?という意識の持続はとてもリアルで、実際の体験としてそうなっているところがアートとしてわかりやすく体感できる。舞台、再現システムとしてのアート映画。アート映画て。となりに来たカップル、丁寧におれは『大阪』を読んでいた予告前。「ここに座らせてもらおうか」と内側にふたり、足元の水筒が倒れないか一瞬思ったが、それとなくカップルは普通に入っていった。その男。音の映画の、音の原因?ネタバレである部分、たしかにあそこは笑いそうになるが、笑わない。その証拠に男以外誰も笑っていないだろう、その笑いはなんだ?怖かったんだろうな。たぶんそう、その証拠に彼は二回も笑った、ふふん、と二回も。俺は忘れないぞ、笑いは超越、カオスから規律への回収、日常への軽い取り込み。アートをものともしないタイプ。

    くそったれの空である。

    『MEMORIA』は小粒な自分を思った。無限回の半睡眠と映像の繰り返しでたどり着いた感想、ただの自分は、ただの人間は、ただの存在は、ひらがなの例えば「あ」でも「お」でもいいんですけど、なんでもいい、それくらいの音の印象くらいのものに代替できる気がする。ということ。かけがえのないものとして命が扱われすぎる、それは規律であり、気持ちがいい、とても正しいが、どうでもいい、もっと離れられないかとも思う。思わないとそれはかけがえのない命!とするだけでは、本当の意味では誰もが死にたくない、寿命を延ばし続けると思う。それはかなり間違っている。どれだけお金を稼いでも死ねないようになる。

    私というもの、正しいこと、間違っていないことに対する、確かな死。映画を観ている間、確かにほとんど死んでいた自分が。ひらがな、アルファベット、音楽のここがなぜか好き。響きとしての生命、仮にそれがひらがなの一文字であってもいいなと思えた。

    ブリュノ・デュモンの映画には障害を持つ、脳性マヒなのか、いろいろな動き、それぞれの個別の動きや話し方、ほとんど話せない人も何度もでてくる。主人公は鼻がつぶれている、補聴器らしいものもつけている。quin quinからCoin Coinに名前が変わる。車はまっすぐ走らないし、無駄しかない、無免許運転で、それはメジャーな映画を斜にみる。キスシーンはガムのくちゃくちゃと同期する。しかし、バカみたいに純粋な愛がでてきたり、とても大事なことが二つだけバカな警察、警察じゃないなんとか、国家公安のものから言われる。

    大事なことは代替可能であることである気がする。そこにしかかけがえのないことはあり得ない。他でもないこの話し方、この座り方、歩き方、運転、表現、伝え方、やるべきと思ってやること、どうしてもできないこと、それらが、一つの音や石や動き、田中泯のあっち側までいきそうになる、だけど幸せである、そのギリギリの状態でいることが生きること。当たり前のことであるが、全く素晴らしくも大事でもない、ただそれだけのこと以上の意味や分析はクソ。絶えず計り知れん動き、その次の意識などに曝露していること。

    不眠は自分を「かけがえのない自分」と思うことで、どうしても手放せないことから起こるとのこと。内田樹と三砂ちづるの往復書簡、「第10回 「ものすごく気持ちの良いこと」を経験した強さ」はとても面白い。

    寝る前はよくわからないがよくわかる本がいい。眠くなる。自分から離れ、どうでもいいことを言う、フェルナンド・ペソアを最近はよんでいる。

     理解するために、私は自分自身を破壊した。理解することは、愛することを忘れることだ。レオナルド・ダ・ヴィンチは「人は理解した後でしか、愛したり憎んだりはしない」と言ったが、この言葉ほど嘘であると同時に意義深い言葉を私は知らない。
    
     孤独は私を絶望に追いやるが、他人といるのは気が重い。他人の存在は私の考えをそらしてしまう。私は、特別な気晴らしを感じながら他人の存在を夢見るが、その仕方は分析的に定義することはできない。
    
    (フェルナンド・ペソア,『【新編】不穏の書、断章』,平凡社ライブラリー,2013,217ページ)
  • ブリュノ・デュモンの徹底的な信頼と実験

    ブリュノ・デュモンの徹底的な信頼と実験

    日記によると、2021/12/17、18にユーロスペースにて『ジャネット』と『ジャンヌ』を観ている。その時の感想、17日「『ジャネット』の良さよ。キメ。真顔でふざける。いつだって。」18日「『ジャンヌ』の苦しさよ。空しさよ。」この日は原宿のキンセラとTOXGOにも行ったみたいだ。

    ブリュノ・デュモンはとても好き。ジャネットを観て、すぐに好きパンフを読んでもっと好きに。真面目だから。

    JAIHOで『プティ・カンカン』と『スラック・ベイ』も追って観た。人物が良い。人物の良さを、笑える範囲で誇張、誇張ではない、たぶんそのまま出す演出をする。たまに誇張する。それが、人を嘲笑うような奇妙な露悪であるのでなく、シニカルでもなく、ただその姿や志向、その個人にしかない、「どうしてもそうなってしまう」というところ。もっとも完璧にあるためには、ただ存在すればいい。というようなもの。信頼というと輝かしいが、そんなものではない、信頼と実験、面白がることは何も悪くない、相手がいる世界では当たり前に発露されるべき行為である。

    どんな人間も、面白い。ある意味、こちらの酒の飲み方にかかっている。

    歌声、話す声、身体の、筋肉の動きは、その人にしかなく、一回しか同じ動きはない、その意味でまったく、自然と同じであり、同じく、神の表現の一つの形態であることは頭では理解できる。

    歌声は死んでも忘れないし、電話の声は死ぬまで変わらない。

    6/5にマキ、マリカ、吉岡さんと下高井戸シネマにて、『ジャネット』を観る。二回観るもんではないな、と思いながら、これ、面白いかな?みんな楽しんでいるかな?と不安なまま観ていた。

    みんなそれなりに面白くみていたみたい。それでよかった。