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  • 運命から離れていき取り逃がしやすくなる

    『天国の日々』をみていて、汽車が動き出してから、残る知り合いと惜しみつつ離れ、急ぎ出す、その急ぎ出す雰囲気からすぐに汽車が動き出すことを知る 汽車が動くから、それに合わせて動き出して、人と離れる、ではなく、汽車が動き出しつつあることを感じつつ、残る人と離れつつ、汽車のドアを見定めつつ乗り込む、という全てが地繋がりしていることをみて、これはもう動かしようのない、ちょうど運命ということだろう、と良い気持ちで運命を感じた。だからそこにヒントがありそう、自分でも考えてみたい、とそう思い、その後のイナゴのラッシュも、ああどうしようもないとどうしようもない運命ということでしか救われることのない間柄ということがあるなぁと思ったのだ。今はどうだ、バスはアプリの予告時間をすぎるが、停留所の電子掲示板にはあと何駅でやってくるということが記される、スマホを見ればそれこそいろんなことができる自分、を常に感じていられるだろう。コントロール化にある小さな世界を手中に、まさにこれこそハングリー精神、ステイ・フーリッシュ、ホール・アース・カタログである。やりたいことを勢いがつくことでどうしてもやってしまうのが他人であり自分なのだから。カタログ化、デジタル化するのは、おそらくどこまで行ってもつきつめても、「持て余してしまう」、やればやるだけその分「手に負えない」ことが増えていくことを知る場合は良いことだ。それ以外の場合、その分運命やイナゴによる自然からの自浄作用・救済からはどんどんと離れやすくなるだろう。ある程度はこの世は自分の手の中にある、常に視線はその自分の手の中の光、あるいは真っ暗闇に注がれているから、かなり外は見えやしないだろう。通知、アラーム、着信は続くだろうが、それらは全て人が人であるため、コントロールするために表示され鳴るという単なる事実を忘れない、通知、アラーム、着信、これらは元々あったもののデジタルな代替だから、たまにはその元々にあったものに近づくことで、よりそれらの代替をより良いものとして活用する、より良く活用すること以外に人間が果たすことはあまり考えられないのではないか。

    通知、警告、忠告はこの映画でも使用人から複数回登場する。「地域で一番の金持ちです。このあたりでやめとくんですな。」「私には嫌な予感がする」「私にはわかっているからな」、ドラマであるのだからそれらは当たり前に無視されてそれぞれひとつひとつに対応したカタルシスが起こり新たな段階に進んでいく。通知、警告、忠告は無視される可能性が大きく成分として含まれている。受け止めた上で決まり、制限を超えた可能性を試す、そしてわからない生き方に向かうことができる。現実はそうはいかない、火事はいや、人間関係も仕事も身体もできる限り良い状態を保ちたい、当たり前にそう思うから、だから映画を観に行って考えるんだと思う。

    あるいは警告や通知、指示や忠告を軽やかにやり過ごす、あるいはそれらを一旦真に受け入れ聞き入れ、そこから取り戻しやり直すは自分の態度・行動。見た聞いた事実には抗わない、その場その場で考える。汽車に乗り込まなかったらどうなるのかを想像したり、映画館からの帰り道、最寄駅に降りてから自分の家への見慣れた道を、どうして見慣れた、と感じるのかについて、いつか見慣れたものが初めて見たように感じられ、それはとても気づかないが恐ろしいだろうなと思う。見慣れている道に無限にある、普通にこれまで見たことのない場所、箇所、生えてる雑草と私の関係性はなんなんだと。

    指示に従って行動するのがとても得意だと感じるし、誰かが良いと思うもの、薦めてくれたものを良いと感じる、逆に良くないと感じることが得意だと思う。この人に今こう言うふうに言ったとしたらこんな風に喜ぶだろうなと実際に行動はせずに頭の中でその人と離れてから思うこと、それを思いつつ別の場所に行き、次の場所ではその場所に応じた考えや行動をしていることはとても健全な気分を作る。東京のこちら側には富士見坂と呼ばれる坂がたくさんあり、それらは小高く風が吹き太陽に晒されるからあまり人もおらず。面が広いベンチで横寝をしている初老のよく焼けた男性がいる。太陽は構わない、横には彼のロードバイク。どこから来て、なぜここでそんなにも本気で寝ているのだろうか。仮説はいくつか、ただし一生わからないのだ。

  • みる喜びとみられたい気持ち

    ヴァレリア・ブルーニ・テデスキの『フォーエヴァー・ヤング』という映画をJAIHOとU-NEXTの両方を使って観た。家のテレビではJAIHOが観れないから、部屋でパソコンで観るときはJAIHO、テレビで観るときはU-NEXTで観る、U-NEXTはどちらでも観れるがパソコンを使う時にはU-NEXTではみない。テレビあるいは、湯舟につかるときはU-NEXTである。

    U-NEXTで最近『コードギアス反逆のルルーシュ』をシーズン2まで一気にみた。パチスロのコンテンツとしてルルーシュ、C.C.(シーツー)、カレンなどのメインキャラは知っていたが、カレンやスザクが敵なのか味方なのかは理解していなかった。こいつが負けて、なんで当たりじゃないのか?、めっちゃこっち側っぽいスザク(その時は名前はしらない)が勝利しているのにハズレなのか?と思っていたが、まさにそういうアニメであったからそれもそのはずであったのだ。ルルーシュはいまもまさに我々の中にいる、自分の中にいるREVELを絶やさず、二項対立に留まらず、使役関係を乗り越えた先にある孤独を抱える。

    U-NEXTでは『モヤモヤさまぁ~ず2』も最近飯を食いながら、よく見ている番組。もともと好きだったのはずだけど、田中瞳アナになってからさらにかなり良いと思う。『秋山ロケの地図』も良い、住人が白地図におススメの場所を記載していく、というフォーマットがすでに良いんだけども、やや秋山さん(私はかなりファンである)のスタイルがずっとアゲな調子でピークを毎回持ってくる、そして意外に本人は控え目な素顔もみえたりするところに、心配や疲れ、などを個人的には感じるときもあるのだと思う。モヤさまについてはそのような心配・疲れは構造上あり得ないのではないか?と思う。さまぁ~ずの二人と田中瞳の作り出すものはそもそもが「どいひー」なのであるからして、真っ向からの面白さとか感動や、あるいはだからこそ本当の「酷さ」からは最も遠いところにいるだろう。「スベる」ことも発生しない、そこにあるのは「おすべり」である。「なんなんすかねー」という気持ちでみていけば、「主観」としてあらゆるものは素晴らしくもない、何となく笑っていられる状態だろう、なんでも話していいような、それとなく誰も話を聞いていないような、ことさらに真剣さを伝える眼差しもいらず、空気のまろやかさややわらかさ、日差しの心地よさに目に入ってくる緑色、美味しいコーヒー、綺麗なトイレ、あこれも話しちゃおう、に包まれるといいのに、いつも。

    『フォーエバー・ヤング』は1980年代後半のパリの演劇学校の試験としての選抜オーディションから始まる。主人公の若い女性は演劇を志す理由を聞かれ、「日々の生活に若さを無駄にしている気がしたから」的なことを答えるのだが、まあこれはいけすかないなと思いつつ、今も非常に印象に残っている。この映画に出てくるメインの人々は老いも若きも、指導者もそれを乞い求める側も、この言葉に溢れているから、ドラッグに手を出したり、怒りをあらわにしたり、人前で演じる、気持ちを表象し伝えてそして他者の中に自分発の感動を作りたいと思っているのだろう。どうしようもなく舞台に立って視線を浴びないといけない、そうしないと生きている意味はない、と真剣にそう思うことが実際に可能であるのだろう。その時代にはそういうことが実際に可能だったのだろう、とどうしても思ってしまう、スマートフォンのなさ、携帯電話のなさ、パソコンのなさ、他人から畏敬を湛えた眼差しによってみられることがとてもとてもあり得ない、稀有な状態であった時代だ。今、これまでの欲求をみるとうざったいなあとか、しんどいわあと思うが、結局はその状態の根本の太さや大きさは変わっていない、ただそれが現在日々の活動によって小出しに薄まり、小出しに満足し、濃度や深さを薄め溶けやすく分子の容易に離れやすいものにしているのだろう。とんでもなく単純な想像ではあるがきっと。

    『シンシン/SING SING』はガール・フイナムの連載である「Girls’ cinema club」で紹介されていたので知って観にいった。映画の情報として非常にありがたい連載である。この映画もどうしても演じることや、演じることに対する思いのぶつかりあい、見られることの必要性、簡易に「見られ」を可能とするメディアからの断絶(この映画は刑務所内の演劇サークルの話)が描かれる。正直言ってやはり想像通りの話の運びではあったものの、それぞれが思い描くプロット、演じたい方向性など、バストリオのワークショップの体験を思い出した。全く形と目的は違うものの…。おそらくバストリオは演じることを目指してはいない、ただそこにあってそこに表れたり表れつつあるそれと観る側に起こっている今まさに、それは今まさにの現在地を超えてしまって遠くにも同時に通じてしまうことだ。前も書いたか?と思うが、川にいる鳥をみているときに、人間の生活とは関係のない時間軸に、でも確かに同じ時と場所にいる存在の、単に在ること、いてくれているとか、どうしてもこっち側のメリットとしての表現になってしまうのだけど、いることへの嬉しさ・喜びを感じる。そういう喜びをバストリオの舞台には感じることがあったりするのだから。そこにはその「若いからどうの~」みたいな欲求ではない別のものとしての演じることがある気がしていて、単にこの演劇で人間性や創造性を回復したり、なんらかの良いこと良い結果を求めてそれはプログラムとしては素晴らしいことなのだけど、そういうところにはあまり共感はできないのだろうなと思う。こう、なにかを伝えるため、自分の感情や想いや記憶、伝えたいことを伝えるため、という表象に対してはもう私は「勝手にやっておいてくれ!」と特に関わりたいとは思えない、ただしこれは今はそう、というだけなのかもしれない。

    さらに最近観た傑作、『ここではないどこかで』がある。アメリカ黒人傑作選という特集、これもGirls’ cinema clubで紹介されていたから観にいくことができた。この日は他に何をしたか、全然思い出せないが、映画の内容については、イメージやセリフがすらすらと湧いてくる!不思議。舞台という人間がこれまでに作ったもののなかでも偉大な発明装置。この前アキサトから聞いて気になっていた黄倉未来さんのフリースタイル落語の「芝浜」も偶々見ることができ、それもまた特に舞台、また違った舞台。かっこよかった。『ここではないどこかで』で繰り返し出てくる「恍惚・エクスタシー」という言葉。実際はそんなに出てきてないか、派手なもの、賞を獲得したり、何かを代表したり、舞台にたったり、栄光を手に入れた後のいくつかの期間、ハレの状態、躁のとき。その状態にある張本人はマジで素晴らしいのだし、それが周囲にも素晴らしさを伝播する、関係者は特に利益を得やすいと思うのだが、ここから先は自分にも言い聞かせている、この映画で批判的に観ている時は自分にも言い聞かせていた。特に非常に近くにいる人にとってはその輝きはウザい、キツイ、嫉妬、輝きに対する嫉妬を持つ側というのは非常に辛いものがあるということをなんとか刻みたい、というのもそうあるときの人間というのは最も「酷く」なれるからだ。簡単に敷居を跨ぐことができるし、そうするのが当然だと省みることなく考える間もない。現代のこのような簡易な見られを作れる時代においても、特に舞台というのは危うさを抱えているということだ。私もこれから先、何度か舞台に立ち、人前に立って何かを表象する機会があることだろう。

    バンド活動を休止するという話し合いをしたとき、それまではかなり頻繁に顔を合わせ、舞台に立ったり表現をするということを繰り返す生活をしていたことから、それらのない生活というものに対して、ぼんやりと暗い不安を抱いた。実際始まってしまえば、その気持ちというのは全く覚えていない。他者の舞台を見に行くことがあっても、羨ましいなとは頭の考えとしては思うことができても、本気でも思うことはなかった。軽い気持ち、口に出さない建て前、というものもあると思う。舞台に立たない生活、のぞみんもポッドキャストで言っていたが、ただそういう生活が続いていて、いつ変わるかわからない、という状態がずっと続いていくだけ、というのは真理だろう。

    一昨日流れで府中のくらやみ祭りが開催中であることを知り、予定もせずに行ってみると、旧甲州街道に人並、そこを競馬式(こまくらべ)という馬が走るイベントがちょうど始まるとこであった。烏帽子を被った人間が葦毛の馬にまたがり道路を走る。「行きます!」という声。そのイベントが終わり、お囃子が聞こえてくる、移動する舞台装置、山車が来る。稼働する舞台装置は自走するから、こちらが追いかけない限り対象は過ぎていってしまう。目で追いかける喜び、全部を見られない喜び、見る人は変わる、みる対象もかわる。それぞれの町、それぞれが持つスタイルがありありと表れている。能のようなタイプ、獅子舞のタイプ、おかめタイプ、などなど。くねくねと舞う動きは、めっちゃやってみたい!舞台に立って何かの仮象となりたい!と強く憧れを持ったのだ。仮面、お面を被ってはいるが、踊りを真似する自分を見てくれていることが直感できる。面越しに合う視線は全く痛くもなく、逆に隔てられるからこその直感的な一体で。祭り、お面は自他をその平面で隔てることで、エクスタシーに対する妬みや負の感情を削いでいてくれるのではないか。そして贈与、対価・経済をいとわない、無意味な金の使いみちが無限にそこら中にひしめく中を回遊する祭りというもの。射的で当てたシャボン玉を喫煙所のすぐ近くでやっている、呼吸の相似も面白かった。喫煙中の母を待つ、父親、娘二人が見てきたので、あげるよ!とあげる。意外に直接的な接触のない、シャボン玉というおもちゃで良かったなあ。

    今朝夢の最後で観たから覚えている感想、「楽しいこと、興奮していること、興味を持っていること」を仮面もなしに、対面でそのままに表現してくれる人、というものは「大変にありがたい存在」であること。