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  • なにを今大人になって、知ったつもりになっておる

    なにを今大人になって、知ったつもりになっておる

    いくつになってもちゃんとすることができない。安心の自分、大切にしている自分ではなく、誰も求めていないところの、誰かのための自分が出てくる。それは本当に誰のためにもならない、おそらくはその周りにいる人たちはそれほど気にしていない、むしろ、ああいつものとおりだな、くらいのちょっとネガ寄りの安心を与えているのかもしれないが。

    また反省しているが、その反省は常に自分のため、である。その場、その次の日の朝のその場、頭なのか心なのかはわからんが、どうしようもない恥ずかしさやうしろめたさや、自分という存在が棄損されないように、なんとか折り合いをつけるための反省である。ことさらに文化的な活動で埋め合わせをしようとしたり、私には仕事がある、そして、結局は何も変わっていなくて、私の心の中の問題なだけである、とすることでことなきを、全く得られない、継続する。そして何か月かして忘れていく。そして、これは事なきを得ているのか?

    それでは「人間的な成長はないじゃないか」としてみる。反省して、態度を変え、行動を変え、そうすることで、人間が変わり、人生が変わるのです。のような言い回しをそれこそ人生で三回ほど見るたびに、なるほど、変えてみるか、とかクソが、とその日の調子によって、言葉は変わるし、私は変わる。その人は、その人が食べてきたもの。みたいな言い回し。You are WHAT you eat. これも似ている。何のこともなく、良いことをすれば良くなる、その可能性が高まる。ということ。そして、印象は変わる、変わらない。

    YoutubeでアルファのMVを観る。腹いっぱいで、かつ下痢気味のとき、アルファとケツメイシのコラボ、「ア・セッションプリーズ」を観たのださっき。決してそのつながりや意味はないだろう。

    これを聞いていたのは中学生のころ、だから14歳とかそれくらいだとすると、20年くらいか、2000年過ぎたころくらいで、歌詞によくわからんものが出てきて、別にそれを調べたりせずに、前後や響きからその意味をなんとなく妄想していた。妄想ばかりしている年代がある。

    そのもっと前、小学生2年生は何歳だ、8歳だそうだ。25年前、小学校2年生から中学校までは10年も開かないのか。そのころはラッキーマンばかり読んでいた。これもまたわからない言葉があるが、調べたり聞いたりせずに、自分の中で妄想で意味をとらえては納得していた。納得はしていないが、事なきを得ている。例えば天才マンの攻撃、頭から光の光線を出すときの『カッ!』というのが技なのだが、その強化版が『ピカッ!』で、さらに上にあるのが『これでもかっていうくらいのカッ!』となっていくのだが、小学生の自分は「これでもかっていうくらいの」がわからない。何かおそらく外してきている、その時は「外し」という概念はないのだが、これまでの流れとは違う表現で、何か面白いことを表現しているのだろうが、それが何なのかがわからない…。という状態に、何とか片を付けるために、これでも/かって/いうくらいの、と文節を分けて理解したのを覚えている。その技が何回か出てきて、どうにか片を付けなければならなかった。

    ”カッ”

    これでも、と、いうくらいの、は理解できる、「これくらいの」という意味だ。「かって」がわからんのだ。しかしわからんままでいた。そのわからんまま、の状態が、逆にいま思い出せんのだ。それが今自分にとても足りていない精神性というか、心の状態というか、自分自身の今ある在り方において、欠損とまではいかないが、その成分が極限まで薄まっているのではないか。

    30歳を過ぎ、子どもはいないからお金を好きに使っている、仕事はうまくいっている、パートナーもいるしうまくやっている、心もまあまあ平穏だが、どこかで同じ失敗をし、周囲を省みず何かをしてしまっている恐れがある。

    はっきりいって感動が薄れている。季節的な問題はある確実に。冬、年末近くから4月あたりまで、感覚が薄れ、春とともに最高、となる躁鬱の通常であるが。その感覚の薄れすらも薄れている、あまり変わりがなく、振れ幅がなくなっている。

    これを良いとも悪いとも捉えないで、ただただわからないこと、として片を付けることをしてみようと思う。心に響くもの、最近心に響くものはやはり「わからない」ものです。かつ、動きや音が少なく、感じるのにじっと時間がかかるものです。楽しいものは多くあるが、もっと生きているとか、目に見えるとか、理解やプロセスをはさまないもの、ちょっと前まではなんだかもっと遠くにあったり、ここではないどこかにある気がしていたが、それは近くのここに、とかでも決してない。ただただ見えていることや、どうしようもなさ、そう感じてしまうこと、わからない、というまなざしを人間としてもう一度みつけていきたい。解釈やストーリーを離れて、その場しのぎでいい。

  • 2022/07/17

    2022/07/17

    住んでいる駅も、都心に向かわない方、午前中に乗ると、それはまた旅の空気だ。

    向かい側のホーム、都心へ向かう人たち、明らかに何か意味を求めるから都心にいく。買い物、デート、文化、お金を使いに、あるいはお金を稼ぎに仕事へ行く。

    1人旅をするとき、向かいのホームの人を見る時間は普段よりも長く、普段向かいのホームの人を見るときよりも想いを巡らせる。それは1人の寂しさ、孤独である時間にしか過ぎらない思いや、1人であるからこその感情の中に存在できるからであり、感情は自分の中にあるのではないことがよくわかる。

    とても関係のない人たちが、自分とは逆に行くのをみるのは、不安も大きく同時にとても心地よく、そこにこそ一人旅の良さがある。

    人間は人間同士、全く異なる風貌をして、全く違った声で話す、しかし大体は同じ、似ている、と言える。どちらにつくか、この違った、と、似ている、について。正しさと虚偽、確らしさと出鱈目、言葉は何かを正しく伝えるために出来たのだから、嘘を嘘であると正しく伝えるために使われる嘘の言葉は全くもって正しいことになる。

    逆に、これは本当で、正しくて、良いもので、素晴らしいもので、為されるべきものごとで、必要で、導いて、決まっていて、明らかで、強い、かっこいい、いけていて、宜しい、ということを言葉で伝える時、言葉はそもそも『言葉にならない、定まらないもの』を伝えるためにできたのだから、その決まったものを伝えるという点で、唯一の明らかな虚偽なのだ。

    ノグッチと清水さんと初の競艇に、多摩川競艇に行く。府中本町からバスで向かう。府中本町には登戸から南武線、こっち側に来ると意味を失いつつあり、とてもやはりというかギャンブルに向いている土地、磁場がある。

    母方の祖父は競艇が好きでよく戸田競艇に行っていたらしい。多摩川競艇には老人がやはり多く、バスに乗りながら、一度祖父と競艇に行き、色々と教えてもらいたかった、その中で話すことも多いだろう、と思ったがもう死んでしまったので、それは一度として実現しない。しかし今のこの思いは実現している、これはこの限りでとんでもなく純粋な真実であると思う。

    清水さんはなぜか財布を忘れてきた。柵越しに100円玉を渡す。入場後、一万円札を貸すと、アメリカンランチのバッグにそのままいれた。

    競艇は、六台のボートが走る、18頭の馬よりも格段に簡単だろうと思っていたが、初めの一レースしか当たらなかった。清水さんは競馬よりも哲学性が高い、という。より当たらないことがわかる。確かに。

    府中本町の焼き鳥屋は良い、洞窟平家の向こう側にあった、自然に店があった。

    選挙や政治、ノグッチの旅の話を聴く。選挙は変えようとする時点でダメだと思う話。民意の反映、という大きなすり替えによってただの民衆大バーゲン祭りの定量を、民主主義という定性的価値にすり替えているだけなのだ、保守に対して逆張りのことは誰でも言える、もっと大切なことはもっとある、もっともっと自分で考える人が政治をやるなら投票したい、投票しようと言いたい。

    変えるためには、自分でやるしかないだろう。

    あるいは清水さんの言う、変えると思うのではなく、変わらないのだから、自分がいかに変わらないでいるかを大切にすること、を大切にしたい。