SNS上で見られる、昔知り合いで今交流のないその人の今現在の活動は、本当にキツいものがあるのはなぜだろう。実感として、そうなのだ。昔知っていた人で、更新のついぞたとえば5年前以上から止まっているそのアカウントの、さぞ魅力的でどんどんと遡っていきたい。終わらないでほしいと思いつつ遡行の先にあるもうこれ以上前、先には進めないところがきて、そういう人、というよりそのアカウントに書かれていることの方が、方がというよりも、その時点にあるその人は魅力的だ。今まさに関わっている人、少なくとも能動的にアクセスしつつある人にしか、その何段階も経た上にあるなんらかを超えて関係している人だけに伝えたい、言いたい、伝えたいと思う、そういう時代がもう既に、いつもそうであるが気付いたらもう既にそこにある気がする。
コミュニケーションと運命はどちらが先であるのか。運命があってそれを辿ることがコミュニケーションか、コミュニケーションの結果運命らしいものがあるのか。映画は人と人が関わって交流して、話しあって、対話して、ストーリーがあってひとつの運命の途中の一つの通過点をみるものかと思っていたが、対話はもちろん大事、傾聴する、想像力を豊かに思いやる、というのがあるが、コミュニケーションというものは一つのそれも物語・理想でしかない、という哲学が感じられた。この映画を通して様々な会話がもちろんされていく様子がみられるが、途中で気づいたことは「誰もがそれぞれの理想とあるべき状態を求めて、そのために必要となることを選び、伝える」ということをやっているだけだ。これが対話・交流・家族、関係することの実態だった。
また、「運命」について。運命というとなにかロマンチックでどこか激しく、七色のゼリー状の物体とか、分岐するレインボーロード、あるいは向こう側から光の漏れくるたくさんの扉などのイメージが沸くけども、この映画で感じた運命は単なる冷徹な色のない、というよりもありのままの出来事の連続として、まさに気づいたら巻き込まれているようなどうしようもなさである。さきほどのコミュニケーションの実態では子どもは特に巻き込まれて、ただただじっと見るのが印象的。だからこの抗えなさが強く感じられる子ども時代に必要なのが、「おまじない」だったのか、と思う。おまじないは「どうにか変えたい」「変えることへの憧れ」「言葉にならない感情のせめてもの行き場・生き場」であった、僕も小学生のころは『おまじないネコ チャクラくん』に紹介される数々のおまじないに興味をもち、実践していたことを思い出した。両親の離婚による岐阜県の下呂という田舎から中央東京への引越し、これはまず抗えな過ぎてたぶん生涯で一番泣いた記憶がある。楽しい寿司屋での夕食の際に発表された突然の東京行き。「世界はまじで自分と関係なく終わる!知らないうちに終わる!聞いてない!聞いてない!」というのが一番近いと思う感情になったと思う。この大引越しのタイミング、どこらへんでおまじないネコチャクラくんのおまじないと出会ったのか定かではないが、より必要となったのは たぶん引っ越してからの小学校4年生ころであったと思う。消しゴムケースの中に思う人の名前を書く、は代表だろう。他にもたくさんあったが忘れた!なんと陰鬱なことか。おまじない、はやはり女性的なものになるだろうか、直接的な行為・行使ではない間接的かつ抽象的なところにおいて。全く違和感なく取り入れていた当時の自分はかなり必死であった。友達を1から作り直す田舎ものとしてのディスアドバンテージをもつぽっちゃりダサ眼鏡くん、スポーツはまるでダメな僕は、容姿の改善による人気の獲得や、明るさを行使する直接的な交流ではなく、当時のいじめっこという権力者にとりいるための方法として、おまじないを使っていた…。呪いにも通じるヤバさだ。「現実的行為ではない、しかしだからこその、ダイレクトな世界の改変」を本気で望みやっていた。思い出せないくらい色のない記憶。
して、今の普通にスピリチュアルなアキオスピリットにつながっている訳だ。あらためて理解。
この映画を久々に行った恵比寿ガーデンシネマにて観て、坂をくだり喫茶店のルノアール(恵比寿のルノアールは全席喫煙可能である、独自の形態である。)で買ったパンフレットを開く。トレーシングペーパーにカーテンと芦毛の馬のそれぞれが映っている、とっても素敵すぎて震えた。なんていいデザインなんだろう。映画を観たらわかる。病室の窓の外にはためくリボンは、それはそれは美しい「世界の改変」を望む意思。全体を通して説明がないから、わからない、けどいつのまにかわかって、それが運命、説明のない運命で、とってもリアル。こんな映画ははじめて観た気がする。本当に良かった。もう一回観る。監督の早川千絵さんへのインタビューがあるが、編集に相当時間がかかったと書かれていた、それを本当に感じる。とてもすごい編集の凄みを感じられる映画。よくある前後をぼやかすような編集ではない、気づかないようないつのまにか、の運命を感じられる編集。ジャンル分けできないもの、しかしサイエンス・フィクションを何故か感じる。1980年代なのになぜか近未来を感じたりよくわかんない。
そして大半が岐阜県でロケされたのをエンドロールで知る。長良川であった。私はゆかりがあまりないが、岐阜の川でずっと遊び暮らしていた自分は普通に嬉しかった。そして今この文章を書いて、何かがまた救われてもいる。過去と違う面から向き合えたから、この映画を観たのも運命である。