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  • 2026年7月から9月に観た映画など

    7月

    • 『Our Wildest Days』ヴァシリス・ケカトス;バンドワゴンに乗り込んでいいことがあった試しはない
    • 『あみこ』山中洋子 △:「文化系女子の青春時代におけるかっこいい男子像」をぐいぐい押し付けられる
    • 『欲望の旅』ブリュノ・デュモン 〇:最悪なのは暴力という本能であって、ただそれをしょうがないよね…と認めるだけではないというそこがあるかどうかが最近やっぱ分け目よね。
    • 『I Like Movies アイ・ライク・ムービーズ』☆:「はみだし者の夜」という会を万季と開いている(ただ家で夜映画をみるだけの会)
    • 『生きる』黒澤明 ☆:とにかく志村喬の顔がスゴイ。それはあれだけ「ヒイッ」って実際に怯えられるだろう、本当にそうだなと思うほどの顔。
    • 『春樹』チャン・リュル
    • 『ルオムの黄昏』チャン・リュル:どっちもやや寝てしまった。シネスイッチ銀座は良い映画館なのに全然行ったことがないことが悔やまれる。隣のISSEIミヤケのギャラリーも毎回面白いし近くの本屋も良い。マーク・ボスウィックの展示で布に映されたダンスのコマ送り映像を延々と観ていた。
    • 『よき谷の物語』ホセ・ルイス・ゲリン💤 その昔あったような、古き良き時代が今も、という外からの目線は憐みに近くてちょっと嫌だな。この日から映画館の会員になろうと思っている。テアトルシネマグループのから入会。
    • 『ハッピー・ゴー・ラッキー』マイク・リー ☆:サリー・ホーキンスはスゴイ。会話の内容が本当のような映画を作る人が好き。
    • 『人生は時々晴れ』マイク・リー めっちゃ暗いが最後が明るかった。うんざりするほど暗いなあと最後の最後まで思っていたかった、高熱や微熱、咳がずっと続いていた時期の最後あたりだったから。
    • 『ヴェラ・ドレイク』マイク・リー アンオフィシャルな堕胎を担う一般女性が裁かれるという実話の話。知れて良かった。暗い映画。
    • 『また会えるよね』『リンダとイリナ』ギヨーム・ブラック:リンダとイリナともう一人いるのに、なぜ! 青春お家芸といったところ。
    • 『〈特別上映〉光 ノイズ 煙 そして 光 ノイズ 煙』西川智也 ☆:めちゃくちゃかっこよかった。観れてよかった。観れていない作品がまだまだ、また是非上映の機会をつくってほしい。
    • 『ブック・オブ・デイズ』『エリス・アイランド』メレディス・モンク 💤
    • 『きれっぱしの愛』フリーヌル・パルマソン ☆:フリーヌル・パルマソン。美的ツンデレな映画監督は大好き。本音を簡単には見せないつかずはなれず、カッコいい。けっこう人懐っこい気もする。ずっと良かった、わからない。嫌いな人も多いのか。
    • 『ネネットとボニ』クレール・ドゥニ:何回も観ててもはやいいのかもわからない、この映画なんなのと。全部の映画ってこの映画ってなんなの?ってもんだよな。ギャロが出てきて毎回びっくり笑えてうれしい。
    • 『かぐや姫の物語』高畑 勲:ちょっと歩いたとこにあるブックオフでピンク色のBlu-rayを購入した。買う時に店員の女性が「DVD買取をやっておりますので…」というマニュアルがなぜかずっと残っている…。ぽんぽこがめちゃ好きだからずっと観たかったんだけどそうでもなかった。赤子時代が姪っ子に似ていたので姉に動画を撮って送った。
    • 『親密さ』濱口竜介 △:登場人物のセリフとやり取りがもう本当に格好悪いものに感じて前半で席を立った。前観た時はこんなんじゃなかったんだけど、感じ方は変わる!しばらく濱口竜介作品やペドロ・コスタ作品から離れようと思っている。共通点は「ブレッソンの覚書」原理主義。原理主義って、素敵なようでかなり危うい、それを肌で感じないと現在人間たちがカッコいいとして目指す方向がどんどんヤバくなっている、という直感。
    • 『私の血に流れる血』マルコ・ベロッキオ ☆:ずっと見逃してきたが観れて、ずっと面白かった。良い監督だよなあ。意味がわからないが当たり前に繋がっているという納得感も何故かある。ちょっと広すぎてスゴイ。映画館でしかなんか観る気がしないのも特徴。僕の中で。

    8月

    • 『ピンク・シュレンマー』オリバー・フサイン
    • 『ある日、ピナは尋ねた』シャンタル・アケルマン:二本立てと知らず、ピンクシュレンマーの苦手っぽい世界観のやつが始まって焦って映写機へ振り返ってアピールした俺、スマホを真っ暗にしてプログラムを確認し、汗だく
    • 『メレディス・モンク 踊る声、歌う身体』ビリー・シェバー、デヴィッド・C・ロバーツ △:歴史の教科書系ダメなタイプのドキュメンタリー、映画が対象の賞賛・礼賛一辺倒になってはいけない、最後まで観るのがしんどい。あるいは彼女の音楽やセンスが普通に苦手なのかもしれない。わからない。
    • 『軍服を着た神様』遠藤協 ☆;面白い現象。神の成り立ちは必要性があって、そこに偶然添えられたエピソードなのか、という普遍性を知る。はじまりはネガティブ・マイナスの排除のため、という人間らしさ。普遍的だと思う。あと功徳システムが独自だけど、これも当たり前だよな役立たないと人は集まらない。
    • 『タイガー・ストライプス』アマンダ・ネル・ユー 〇:手作りでカッコいい。私もひとつの自分の作品を作ってみたい。
    • 『パンダコパンダ』『パンダコパンダ 雨ふりサーカス』高畑 勲:子どもワークショップ上映みたいな企画を川崎市アートセンターでやっていた。本音でいうと、少女が母親と妻を、それもパンダの、しっかりと演じられている媚態とかがけっこうキツイと思った。子どもたちもちょっと引いている空気感があった。ゾーニングなしに性的であることの害を感じた。
    • 『A Window of Memories』清原惟:パンフレットを読むことでより。他者の言葉や感想は共感じゃなくて自分のものとして飛んできても、飛んでいってもいいのだ。そういう体験は多くしてみたい。人の言葉がぐっと自分の中に響くとき平和と安心と嬉しさを感じるだろう。トートバック黒を買ってよく使っている。
    • 『ワイズ・ブラッド』ジョン・ヒューストン:役者が原作のイメージ通りでスゴイと思った。原作には勝てない!うんうんと確認するような、自分の作った1年前のレポートを読み返すような自分と向き合うような、感動が起こりえない形の、ちょっと違う体験だよねそれは。
    • 『ユースフル・ゴースト』ラッチャプーム・ブンバンチャーチョーク 〇;予告編で思っていた色物ではなく、社会派の内容であった。穢れについての本を読んでいたのでリンクする。でも忘れた。日記をみながら書いているんだけど、死者の権利は忘れられないことだ、という普通のことが書いてある。直接的なゲイ描写は絶対必要なのかなといつも思う。メッセージとしては必要なのだろうが、私はそれを求めないから、というそれも一方的だよな。映画のセックスシーン全般いらないと思っている自分は。
    • 『火山のもとで』ジョン・ヒューストン 〇:人間のだめさ。人間のもつ溢れてしまう部分が好きなのだろう。原作が読みたいが復刊されてるが、めっちゃ高い。
    • 『床一面こんな感じ』監督:はまださつき|脚本:福岡佐和子 ☆:とっても良かった。あみこではなく、こっち側である37歳男性である。脚本に人間同士の間が、特にその二人の関係性が溢れていて泣けてくる。ギリギリなことを粘り強くやっていこうという関係し続けることの大変さ。パッと手放すのはマジで簡単だからやっちゃえるけどそこを粘り、離れる。その過程にオブセッションがある自分に気づけた今。離別するまでの仮定と離別してからの関係が気になるわけだ。日記の文字からしてめっちゃ酒飲んでるこの日。嬉しくて原宿で会った二人にもおすすめした。
    • 『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』及川啓:二日酔いでダメだった。。あともうやっぱ人気のあるものは楽しめない。薫とのぞみんすまん。わざわざ立川までなぜか見に行ったのにね。
    • 『ナイトシフト』ロビーナ・ローズ:ユーロの券売所の女性が雰囲気がこの映画の雰囲気にあっていて素敵だった。この日にユーロの会員になった。このサイトにツイッター機能を作ったあたり。
    • 『PEAK END』シン・チェリン 〇:こちらも関係性の話。この人と出会えてよかったのだろう、と思える関係性はいい。対象は人でなくてもいい。相手を想う主体であり、同時に想われる対象であることがカメラからまさに伝わってくる。自分自身を編集するというのはどういう体験なんだろうか。
    • 『20thセンチュリーウーマン』マイク・ミルズ:この人の描く父親、母親像はイビツで面白い部分があるのだけど、好きになれない。実録怖い話のような話であると思う。
    • 『星の時』スザーナ・アマラウ:昔の映画ならではのヤバさを、昔だなあって思いながら半笑いもできない感じで観ることが実に面白くないなあと思う。だから今やっている映画を今観ることに意味があるんだろうな。37歳という若くも老いてもいない中年期でも、若い時でも老いてからも古い映画に価値ばかり感じることなく、新しい映画を観ていこう。感じ方はいつも変わっていくし、どんどん自分をなくしていこう。2021年あたりの自分の日記を読むときつすぎて見れないけどみてしまうように。人生の一貫性はポジティブでもネガティブでもないものとして、頼もしいと思う。「頼もしい」っていうのは一見ポジティブだけど、樹齢300年とかの樹のようなイメージのことで、ただそれはずっとそこにあってきたという意味でことさらにポジティブであるわけではない。少しはプラスだけれども。人生は一貫していることを頼りに生きている。
    • 『エレファント6レコーディング・カンパニー』チャド・ストックフレス ☆:ステージに「演者」としてあがらないロバート・シュナイダーの言葉は日常生活でも生きている。「客を楽しませるという意識はいらない」。次回からライブをする機会があったらそのように楽しめるはず。最近のライブは全然楽しめていない。
    • 『マルセイユ』アンゲラ・シャーネレク ☆:カットとカットの連続であるから、その順番やタイミングはめちゃくちゃ重要で、すごく丁寧だから話がはいりつつもストーリーはもちろんいいんだけど、そこではない流れとか表情の切り取り方とその後の街や部屋の空気感や色、どことどこがつながるのか、話す言葉は途切れるが実際は途切れていない、関係も同じように離れていても忘れない限り途切れていない。ただし理解不可能な言葉は守る対象と庇護される受け手に別れる。理解している側が上に立つ。そこを乗り越えるためには言葉を身につけないといけない。
    • 『ある女の復讐』リタ・アゼヴェード・ゴメス 〇;渋い映画であった。書割みたいなセットと時代設定、こちらの積極性が必要となる関わり方が求められる映画で観るのが大変だったけど、その分最後の開け放しがクールだった。今多くがSNSで短期的に暴かれるが、それも必要なことであるが、このような復讐の形もあるのだとわかる。吉岡さんに先ず会って、その後とがちゃんも居て、三人でインド富士子に初めて行く。ナイス。
    • 『Now and Then』西原孝至:国が人間の尊厳を奪っていることを認めない。辛くて涙がでる。国は人がその国があることを実感として認識するからこそ国と人なのに。国民とか言うからよくわからなくなる。
    • 『ケルト・ユートピア』デニス・ハーベイ ラース・ローベン:ユーロの下のカフェの前で友達を待っていたAマッソ加納をみかけた。姪っ子にプレゼントにぬいぐるみを買おうとしてヒカリエの店に行ったけど、ぬいぐるみを触ってはいけない、という旨店の張り紙があり喰らって帰る。ぬいぐるみは、さわらないと、わからないでしょーが!と心に叫んだ。

    9月

    • 『ゴールド・ディガーズ』サリー・ポッター💤:全く訳が分からない。ユーロに毎日行き過ぎ。帰り道、昨日のを取りかえすべくSPBSで絵本でも買うかと、『たぷの里』という変な絵本を買ってしまった。これ売れているらしいけど、家に帰って読んだら子どもに見せたくないなーと思う抑圧的な表現内容(子どもが楽しんでいると、でかい相撲が「たぷっ」と抑えつけて、その場がシーンとなる、これが面白いのだろうが)がリフレインするやつで全く嫌な気分に。もーちょいこう、絵本なのだからさ…。
    • 『黒猫・白猫』エミール・クストリッツァ ☆:意外と観てなかった。やっぱり面白いが、クストリッツァの政治的立場は危険?https://webgenron.com/articles/genron18_001こんな記事も。東浩紀の『平和と愚かさ』チェック。
    • 『沼影市民プール』太田信吾:なんとなく面白いけど違和感も残る。ゲイの人のお母さんとのやりとりはなぜあんな撮り方に?あとプール側の在り方(ハッテン場化)の問題も結構ありそうな印象が得られる中で、足りない学校施設への移転計画は、部外者からしたら至極納得のいくことで。家の近くのよく行っていたプールがなくなるとしたら反対運動に参加するだろうか、と考える。説明が不足していたのは良くない。いつもそうだ。しかしなぜあの息子と母親の「ドラマ」が必要だったのか。どうしても一要素として捉えられてしまう。
    • 『BULLY』ラリー・クラーク:ずばっと終わる。何回も観ている気もするけど。気を付けて、真っ当に生きよう。道徳的に映画を観るのが正しい時もあるはず。
    • 『リンカリンカ~あの夏の先』カンドゥルン:自分の夢が途中で混ざって映画の内容も夢としてあってけっこう楽しい体験だった。この日もひとりで街で飲んで知り合いが増えた。
    • 『The AI Doc: または私はいかにして終末論的楽観主義者になったか』ダニエル・ロアー、 チャーリー・タイレル:クリエイションとして面白かった。
    • 『戦火を越えて』レゾ・チヘイーゼ:グルジアの映画。フィルムがぼろぼろで白い。
    • 『さとこはいつも』沖田修一 △:話が普通に面白くない。この人の映画は原作が面白かったのか。とがちゃんと朝まで飲む。
    • 『拝啓アシタ DEAR TOMORROW』キャスパー・アストラップ・シュローダー ×;良くないドキュメンタリー。利権が絡んでいるタイプ。かなり酷い作品だった。意味のない日本らしいカット、日本ってこうだよねのイメージで酷い。このテーマを海外の人が撮るなら面白そうという予感を全てまっすぐに裏切られた。渋谷の交差点、電車、寺のカットを何度もみせられるとは…。また登場人物が何かしら解決したように終わるが、どうみても何も変わっていないだろうという…。孤独の何が問題なのか、何が孤独を作っているのか、ではなく、こんな国がNPOなどと協力して運営しているサービスがあります、それらが何となーく活用されて、なんかいい方向に彼らの人生が向きを変え始めましたネ、というような内容。酷い。人々の言葉をボイスオーヴァーで引用するのに、意味が通じないのはかなりイライラした。言語の壁があるなら、ちゃんと監修をつけようよ…。
    • 『私のはなし 部落のはなし』満若勇咲 ◎:人権ライブラリーで観られなかったから『にくのひと』を観た。いつのまにかUnextで観れるようになっている。部落問題は父親が名古屋のある地域で生きて暮らしているときにドライブしている時に「ここは部落やで、えたひにんや」といつも言っていてその時は僕は高校生から大学生でああなんかそうなんだ、と特に考えることも話すこともなかった。部落・同和問題は全くいわれのないフィクションのもとになりたつ権力構造だから、差別問題を考えるときにすごくわかりやすいエッセンスがあると思う。関東大震災の朝鮮人虐殺問題にも部落問題は確実に関わっている。部落の人達による朝鮮人差別、というのがあったことが確認できる。『にくのひと』の上映中止についても知った。鳥取ループというかなり大変な存在も知る。

    7月8月は本当に仕事が空いてしまって夏休み状態でたくさんの映画を観ている。時間が空くと映画を観るしかない。しかも飽きないし、帰りに飲みに行っても楽しい。その分今月のお金が全く稼げていない。

    【THINGS OF GOODS大賞】

    成城のシュベールのチャイ珈琲オレ

    チャイラテではないチャイコーヒーオレだ。コーヒーとチャイが絶妙!毎回うまあいと思いながら飲んでいる。砂糖もついてくるけど甘い上にクリームも乗っているからもう十分! 寒くなってきたからさらにうまいだろうな。チャイ珈琲オレを飲みながら現代思想にカキコミをしつつ読みたい、できれば窓側で!

  • 写真でその時を振り返る

    ホームページの見た目を変えたことで新しくやりたい事や書きたい事などが増える気がしている。名は体を表すというが、体は中身を作り名前すらも変えてしまうことがあるだろう、私はそのような思考の姿勢を保っていたいと思う。ひとつの権力がその後ろや下、この前や上の方が素敵、正しい、目指すべき方向、ということにずっと違和感を持っていたいと思うのだ。実際的な位置関係、ポジションというのは実際的にあると思う、上司・先輩、取引先の人、親、店長、初めて行く店の常連、過去の作品、アイデアをはじめにつくった人(これは微妙かも)など。ただしそれに追従しなければならないとか、そこから必ず学ばなければいけないとか、評価を受ける側として振る舞わなければいけないという緊張感を本当は全て取っ払うことができたらよい。本当のことを言うと、その権威的なポジションに事実・実際なっている人がそこのところを十全に意識するべきなのである。初心を忘れずとか、いつも新しい気持ちで向き合っています!とか、そんなのはきれいごとでしかないから、自分がもしそういう立場になるとしたらその取っ払いだけは約束したい、固い決意として今ここに刻む。心の粘土板、石板の一番上の層、ここでも上下がでてくるが石板や粘土板(粘土板は割れるからここではなかったことにしよう)、石板に刻まれた文字に上に書くとき削られていく、重さがゼロになって舞い飛んでいく、あるいはどこか別の場所に蓄積したり別と混ざり合い、全く気付かない内に「他のもの」として存在してしまっている(しまっている、と書いたがポジティブな意味で、ポジティブな意味で?)ような、あえてここでいうが、そのような権力でありたい。

    『終わるまではすべてが永遠: 崩壊を巡るいくつかの欠片』を読み進めているのだが、私はなんとなーく反出生主義者である、というかそういう風に言われている人達が書いている言葉を読むとすごく静かに救われる気持ちになる、朝半身浴をしながら、夜眠る前に、そういう言葉、この本で引用される言葉やエピソード、作者の見解にふれることで、当然そこには自分自身の再確認も含まれるのだが、それにとどまらずこれまでにつながらなかったこと、考えが及ばなかったことについて触手が伸びていく気がする。伸びた分、リーチした先の動かせる範囲の暗い部分にあたるもの、それが「知らない」という世界の喜びであると思う。成長や生産性を求める(どうやら本気で求めているようだ)人々は確かにいるし、人間が人間になったのはこの飽くなき生産と消費のサイクルをやれるやつがやりまくっていいんだ!という快感から始まっているから当然そいつらは力を持つし権力ももつし、頭もよいし、金もある。人間が消えない限りこれは絶対に変わらない、とありきたりなことをもう一度思う。自分もこの一員として金を稼ぎ、金を使う楽しさを十分すぎるほどに享受している。晶文社スクラップブックの難波優輝『批判的日常美学について』の連載がとても面白い。2回まで今あるが、どちらもめちゃくちゃ面白い。

    というところでこのホームページが画像をぱっと見せない方向にしたので、こういう本文の中で今後撮った写真を使おうと思うのだ。アイキャッチは普通に表示されているみたいだが。

    これはこのホームページの下にも小さく載せているのだが、今思ったのだが、自分の空き地を作るようで、場所を作るようでホームページというのは非常に何らかの癒しにつながるということ。実際の場所を作り活動をしているアキサトはとてもいいことをしていると前から思う。酔っぱらってアキサトに電話をかけても最近は全くとってくれないが、取ってくれたところで実際に話すことは特にないだろうから、そもそも電話をかけるなよ、という話である。さて、この写真は近所の公園にある鉄棒のポールである。仕事の合間に長めの散歩をするのだが、その際にある場所。この近くには小さな商店街もあり、牛肉コロッケやリースを買ったりしたりするだけで私はとてもいい気分になる。商業的ではないところが本当に末永く、人類が終わりを迎えるまで残ってほしいと勝手に強く願う。願うことはとても勝手な行為であるから、あまり重きを置かないでおこうとも思う。柵越しに、これは夕方なのか曇りなのか、やや暗いのはフラッシュをたいたからであるな、普通に晴天の日だった記憶があるが定かではない、フラッシュはある種権力と搾取。写真を撮ることも同様。シマウマやレオパードの柄がみえるシマウマがレオパードを挟む、肉食と草食の記号を公園の遊具に巻くセンスがわからない、わからないことが写真を撮るひとつの理由になるはずだ。そしてこれは結構遠くから撮っていることもわかる、手前の柵の目の大きさからレンズを望遠に、柵に近づいてとったのだろう。この遊具で遊んだことはなく、ただただ見るだけになるので肉体的な感覚はなく、かなり表面的なふれあいだし遠い、遊具への遠さも感じる。自分は小さいころ母親と長い散歩をして川もわたり、野を通り抜け、川は渡っていないこれは単なる理想であった。砂場でブルドーザーのおもちゃを楽しむ記憶があるが、小さいころの自分の像がそこに対象としてあるからこれもまた写真を見ただけなんだろうなと、これは記憶ではなくイメージだ。

    この前、プール帰りに自転車でいつもの道を通っていると、住宅街の路地を歩く5歳くらいの男児がこちらを見ているので、なんとなくゆっくり走りながら僕も少年の方をみると少年は小さいころの僕であった。少年は口を蛸(イラストのタコ)の口のように窄めてこちらにアピールしてくる、その仕草は小さいころの僕がよくやっていた(今も体操としてやる)変顔である。自転車なのですぐに通り過ぎてしまったが僕は後ろ手にピースサインを送った。久々にプールでたらふく泳いで上陸したあと、たくさんの空気を浴びながら帰る春は気分が最高に爽快なのだ。

  • 2022/07/29

    やると決めたことが、自分で決めたわけではないが、やってきたやるべきことが、二三個終わって、しかも週末が出勤となると、褒められたりして気分もよく、最近筋トレ、スロートレーニングを一日おきに10分ずつ、できればそのあとにエアロバイクあるいはスイミングを継続的に行っていることで朝からややテンションが高いので、しかしあまり眠れない日も多い。よくもまあ、とこの暑い中全然自分が体力があるから、と、意ともせず、よく考えもせず、仕事を休んで、これまではそうしてきて、間に合うときは間に合うし、クオリティはそれなり、に保ってこれた。しかし、引き延ばしはそれ自体が体に悪い気もする、それがいい具合にテンションになっているから、ストレスはテンション、身体と心の張りを生む。

    20代にまでがヒトの生きるに値する正しい世界だ、ということを読んで、まあ確かに太るしな、生物・動物・生き物としては、確かにそうだろうなと、街を歩く大勢の老人、働く中年、工事現場の焼けたおじいのタバコ休憩などをみていて、僕ももうこちらに入っている。どっぷりとこちらだ。白髪は増え続けている、お腹周りはなかなか減らない、しかしダイエットが楽しいし、仕事で金を稼いで給料は上がっても全然たまらないのが不思議でおもろい、服はいろいろな店に積極的に入るも何も欲しくない、ほしいのは化粧水やボディーソープでいい匂いのものや、アロマオイルなど。あと本しか買ってないのに、競馬や競艇、借金だ。金のかからない趣味、音楽を作ったり、分析したり、お金がもらえるのは不思議だ。

    私は中年に入り、迷いがなくなった。迷いがないというのはきっと、何かを決める、ひとつに決めるのではなく、どちらでもよい、後の祭り状態、帰ってもいいしな、朝を迎えてもいいし、一人で帰ってもいいし、このまま誰かんちいってもいいな、とそのずーっとを引き受けることだ。しかし、ずーっとはずーっと続くし、悩みは増え続ける。このままずっと同じことを?と長い将来を考える。当たり前に。

    確かに面白いことは、かなり少ない。交友関係もかなり狭いし、イベントにも顔を出さんが、ただそうした中でずっと考えている自分と自分と自分。

    ライブがある今度、その準備が楽しくもあり、大変でもある。楽しくもあり大変でもある。楽しくもあり、大変でもある。これが死ぬまで続いていくのみ。絶滅は近い!!!!!!!!!!

  • 2022/07/17

    2022/07/17

    住んでいる駅も、都心に向かわない方、午前中に乗ると、それはまた旅の空気だ。

    向かい側のホーム、都心へ向かう人たち、明らかに何か意味を求めるから都心にいく。買い物、デート、文化、お金を使いに、あるいはお金を稼ぎに仕事へ行く。

    1人旅をするとき、向かいのホームの人を見る時間は普段よりも長く、普段向かいのホームの人を見るときよりも想いを巡らせる。それは1人の寂しさ、孤独である時間にしか過ぎらない思いや、1人であるからこその感情の中に存在できるからであり、感情は自分の中にあるのではないことがよくわかる。

    とても関係のない人たちが、自分とは逆に行くのをみるのは、不安も大きく同時にとても心地よく、そこにこそ一人旅の良さがある。

    人間は人間同士、全く異なる風貌をして、全く違った声で話す、しかし大体は同じ、似ている、と言える。どちらにつくか、この違った、と、似ている、について。正しさと虚偽、確らしさと出鱈目、言葉は何かを正しく伝えるために出来たのだから、嘘を嘘であると正しく伝えるために使われる嘘の言葉は全くもって正しいことになる。

    逆に、これは本当で、正しくて、良いもので、素晴らしいもので、為されるべきものごとで、必要で、導いて、決まっていて、明らかで、強い、かっこいい、いけていて、宜しい、ということを言葉で伝える時、言葉はそもそも『言葉にならない、定まらないもの』を伝えるためにできたのだから、その決まったものを伝えるという点で、唯一の明らかな虚偽なのだ。

    ノグッチと清水さんと初の競艇に、多摩川競艇に行く。府中本町からバスで向かう。府中本町には登戸から南武線、こっち側に来ると意味を失いつつあり、とてもやはりというかギャンブルに向いている土地、磁場がある。

    母方の祖父は競艇が好きでよく戸田競艇に行っていたらしい。多摩川競艇には老人がやはり多く、バスに乗りながら、一度祖父と競艇に行き、色々と教えてもらいたかった、その中で話すことも多いだろう、と思ったがもう死んでしまったので、それは一度として実現しない。しかし今のこの思いは実現している、これはこの限りでとんでもなく純粋な真実であると思う。

    清水さんはなぜか財布を忘れてきた。柵越しに100円玉を渡す。入場後、一万円札を貸すと、アメリカンランチのバッグにそのままいれた。

    競艇は、六台のボートが走る、18頭の馬よりも格段に簡単だろうと思っていたが、初めの一レースしか当たらなかった。清水さんは競馬よりも哲学性が高い、という。より当たらないことがわかる。確かに。

    府中本町の焼き鳥屋は良い、洞窟平家の向こう側にあった、自然に店があった。

    選挙や政治、ノグッチの旅の話を聴く。選挙は変えようとする時点でダメだと思う話。民意の反映、という大きなすり替えによってただの民衆大バーゲン祭りの定量を、民主主義という定性的価値にすり替えているだけなのだ、保守に対して逆張りのことは誰でも言える、もっと大切なことはもっとある、もっともっと自分で考える人が政治をやるなら投票したい、投票しようと言いたい。

    変えるためには、自分でやるしかないだろう。

    あるいは清水さんの言う、変えると思うのではなく、変わらないのだから、自分がいかに変わらないでいるかを大切にすること、を大切にしたい。