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  • 習慣化する

    ひとつの決断がその後の行動、その後の自分を決める。当たり前にそうだ。いつから何をきっかけにして始めたのかわからないくらいのことで、今も続けていることなどはひとつもない。逆に言うと、やめようと思うことは明確にちゃんとやめることができる。最近、3か月前ほどから良く歩いている、一回に目標は6500歩として設定しiPhoneの歩数計アプリではなく、専用のアプリをダウンロードしてホーム画面に表示される設定をし、パッと確認できるようにしている。最近渋谷から自宅まで歩いてみて、こんなもんかと思って、やっぱり時間さえあれば歩き続ければどこまでも行けてしまうという事実は自分にとって完璧で嬉しいことなんだと改めて思う。急がず焦らず、疲れたら飯を食ってまた家に着くまで歩くだけ、途中で行きたい店があって休みだったり、汗かいてるからまた余計に汗かくだけだからやめようと思ったり、色々な考えをしたり。肘を曲げ胸の高さまで上げて肩甲骨を引き寄せるようにして、ザ・ウォーキング中、という姿勢で。向こうからくるウォーカーにも、ウォーカーだと認識されていると嬉しい。ウォーカーはウォーカーがわかる。自分と属性が同じ街の人がいると嬉しい。

    下呂に住んでいた頃に、大量の鈴虫・コオロギを二階の物干し場で飼っていた。家から歩いて30秒の放置された駐車場に雑草がコンクリートの脇から繁茂し、その奥には赤茶色に錆びたトタンのこれまた駐車場、こちらは使われているものでそこの笹に似た背の高い草たち、猫じゃらしなどと合流している場所。無限にいるからいくらとってもぴょんぴょんと跳ね、音は鳴りやまず、夕方のチャイムが鳴る前後から最後暗くなるまで取り続ける。姉はもうその頃は虫が触れないようになっていたのだったか。自分はまだまだ虫なんて全く怖くないと、そんなことも考えていなかった。ドクダミの香りが嫌いであった。ドクダミは陰気な場所に繁茂し踏むと、踏む前から、こちらの性格や能力を判断しているかのような冷静なる香り、または友達の家の奥暗く、老人の部屋独特の湿気と暗さ。そのほか、子どもの手や顔を簡単に超えるサイズのやけに大きく、これもまた臭う、産毛の生えた緑色の葉っぱ。これはやわらかく手触りもよく小石などの拾ったものを包むのに適している。オオバコ、という名前が思いつくが、今調べると全然違っている。オオバコは特に大きくない。これら周囲にある雑草、建物の脇や、建物同士の間には雑草が生えていて、私たちはいつも雑草に取り囲まれて遊んでいた。

    いつかの遊びとしてめちゃくちゃ流行った、誰かの家の青い大きなバケツ(今調べると恐らく20ℓ程度のサイズ感)を誰かが持ってきて、そこに水、これも誰かの家の水だろう、なんとなくであるが自分の家ではない気がする。自分はそういう他人と遊んだり喜ばすことに関して積極的ではないし、自分の家に他人の野外アイテムを持ち込む、ということを許されていない気がする今も。単純に汚いと思うし、玄関まではギリギリ良いがそれを水場までに運ぶ、それまでに何かミクロな細かいものが落ちてくることは間違いない。それで気が付いたときには既に自分の制御下ではない何かがしっかりと繁茂していることが恐ろしいのだと思う。だから僕は制御を求め、できる限り制御したい思いはありつつも、制御できない状態を求めている、という全ての人が甘えている自覚に至る。「言い訳」という言葉には「ひとまずの延長」という現況の保留以外に、意味や効果はどこにもない。

    玄関のたたきからの高さは50㎝ほどでしっかりと座れる高さで、今もそのくらいの高さがしっくりくる。高さがある程度ないと靴紐を結んでも歩いているうちにすぐに解けてしまうのはなぜか、今の家は2㎝程度の高さしかないため、ほとんど玄関とは言えないから、必然的に中腰で靴紐を結ぶか、腰骨あたりをついて体育座りの要領で靴紐を結ぶが、これは不自然な姿勢であるから中腰で立ち姿勢に近い形で結んだときよりも高確率で解けてしまう。歩きながら靴紐が解けるからその解けるメカニズムというか流れについて考えるんだけど、「歩いているうちに力がかかって緩む」ということ以外に考えが及ばない。だから最初の結ぶ段階の姿勢が理由として最も大きいのだろうと思い当たるから毎回履くたびにいつもそういうことを考えていることをもう一回また考える。立っている時の足の位置と力の入り方に靴紐の締まり具合が掛け合わさり、結び目の位置などもあいまり、解けるのかどうかが決まっている。少しでも緩みだすと、このまま歩ける、というのとこのまま歩いているとどうせ…とそのことばかり考えてしまって楽しくはないだろう。最近買った靴はどちらも紐靴で、薄く平たすぎる紐と丸すぎる紐であるため、どちらも解けやすくなっている。メーカーは適正なる厚みと摩擦がかかる靴紐にせよ。夜歩くときは音楽を聴きながら歩いている。そのときに聞いているNightwalksというプレイリストを共有する。

    そして玄関をあがってまっすぐ突き当たりまでは幅1.2mほどの廊下が8mほど伸び電気をつけないと暗い。突き当りには大きな絵がかかっているか、物置になっているか、いやそれは二階の廊下の先か、あるいは玄関入ってすぐの…。その大きな絵は砂壁のように砂が全体に貼られていて描かれその中に草、現実の草か描かれたものかはわからないが、が在る。その絵が砂壁の印象から好きでも嫌いでもなかったと思う。砂壁にはふざけ合っているときに腕を擦って擦り傷になったことが数回あるからあまりいい印象がない。湿気などを吸う効果があるのだろうが、良い物だとは思えない。一階の廊下の突き当りは暗いから覚えていないからただの壁なんだろう、なんといってもそこが風呂場への廊下だから、絵を飾ったりはしない、違う、ディズニーの『ふしぎの国のアリス』の大きなジグソーパズルが飾ってあった。縦長の縦80㎝はある大きなジグソーパズルのトランプや風船、騒がしい画像。父親がキャバレーのような場所でバットマンのような革製のヘッドギアを付けタバコか箸かを鼻の穴に突っ込んでいる写真。そこを90度に右側に入るのが風呂場で、洗濯機や洗面所、バスタオルやパンツなどが入る立派な箪笥などが置いてある脱衣所は6畳程あり広々としたものだ。廊下の突き当りの面の奥に広がっていることになる。その風呂場は昼間の光が入る、外に面した窓があり、窓を開けていると湯気がお隣さんの家の庭に向かい、外の道からも見える。

    休日の昼間に外からその湯気をみることはとても幸せな時間だった気がする。そんな場面は実際にあったのか、あった気がするのだ。休日の昼ではない、平日の夕方、夜になる前か。家族の誰かの存在を外から間接的に知る、と状況を解説してしまうとその気持ちは冷めてしまうが客観的。風呂場の床は深い青色の1㎝四方くらいのタイルが敷き詰められていて、風呂桶は薄めの水色。風呂場で小便をするなと言われたりして良いとも同様に言われていた。その風呂場に入る前の風呂マットの横、隅っこのカビの生え方を日々観察していた。点々と広がるその様は昔飼っていた犬の正常な状態ではないだろう乾き切った右脚の肉球のひとつ、の見た目によく似ていた、とそれ以外のものには似ていない様でもある。その肉球の様子も思い返すたび日々観察していた。メロンの網目模様をみるとそのカビと肉球を思い出す。記憶には良いも悪いもなく、感情がそれを都度判断している。

    先ほどのバケツには様々の雑草を水につけて「ジュース」を作る遊びだ。大きくて先のとがった石や、木の棒などで草を潰して色と臭いを水に出し、それをその後一体どうして遊んでいたのか。作ることしか覚えていない。ペットボトルとかがそんなに普通に誰もが持っていなかったと思うから、どちらかというと紙パックの方が確かにしっくりくる、ジュースなので容れるとしたら紙パックだ。紙パックには容れたと思う、そこまでだ。そうなるとそれを握りつぶすことでぶしゃっと放出するのだろう、そこで終わり。決して嗅ぎはするものの飲んだり、飲ませたりはしていない。

  • 写真でその時を振り返る

    ホームページの見た目を変えたことで新しくやりたい事や書きたい事などが増える気がしている。名は体を表すというが、体は中身を作り名前すらも変えてしまうことがあるだろう、私はそのような思考の姿勢を保っていたいと思う。ひとつの権力がその後ろや下、この前や上の方が素敵、正しい、目指すべき方向、ということにずっと違和感を持っていたいと思うのだ。実際的な位置関係、ポジションというのは実際的にあると思う、上司・先輩、取引先の人、親、店長、初めて行く店の常連、過去の作品、アイデアをはじめにつくった人(これは微妙かも)など。ただしそれに追従しなければならないとか、そこから必ず学ばなければいけないとか、評価を受ける側として振る舞わなければいけないという緊張感を本当は全て取っ払うことができたらよい。本当のことを言うと、その権威的なポジションに事実・実際なっている人がそこのところを十全に意識するべきなのである。初心を忘れずとか、いつも新しい気持ちで向き合っています!とか、そんなのはきれいごとでしかないから、自分がもしそういう立場になるとしたらその取っ払いだけは約束したい、固い決意として今ここに刻む。心の粘土板、石板の一番上の層、ここでも上下がでてくるが石板や粘土板(粘土板は割れるからここではなかったことにしよう)、石板に刻まれた文字に上に書くとき削られていく、重さがゼロになって舞い飛んでいく、あるいはどこか別の場所に蓄積したり別と混ざり合い、全く気付かない内に「他のもの」として存在してしまっている(しまっている、と書いたがポジティブな意味で、ポジティブな意味で?)ような、あえてここでいうが、そのような権力でありたい。

    終わるまではすべてが永遠: 崩壊を巡るいくつかの欠片』を読み進めているのだが、私はなんとなーく反出生主義者である、というかそういう風に言われている人達が書いている言葉を読むとすごく静かに救われる気持ちになる、朝半身浴をしながら、夜眠る前に、そういう言葉、この本で引用される言葉やエピソード、作者の見解にふれることで、当然そこには自分自身の再確認も含まれるのだが、それにとどまらずこれまでにつながらなかったこと、考えが及ばなかったことについて触手が伸びていく気がする。伸びた分、リーチした先の動かせる範囲の暗い部分にあたるもの、それが「知らない」という世界の喜びであると思う。成長や生産性を求める(どうやら本気で求めているようだ)人々は確かにいるし、人間が人間になったのはこの飽くなき生産と消費のサイクルをやれるやつがやりまくっていいんだ!という快感から始まっているから当然そいつらは力を持つし権力ももつし、頭もよいし、金もある。人間が消えない限りこれは絶対に変わらない、とありきたりなことをもう一度思う。自分もこの一員として金を稼ぎ、金を使う楽しさを十分すぎるほどに享受している。晶文社スクラップブックの難波優輝『批判的日常美学について』の連載がとても面白い。2回まで今あるが、どちらもめちゃくちゃ面白い。

    というところでこのホームページが画像をぱっと見せない方向にしたので、こういう本文の中で今後撮った写真を使おうと思うのだ。アイキャッチは普通に表示されているみたいだが。

    これはこのホームページの下にも小さく載せているのだが、今思ったのだが、自分の空き地を作るようで、場所を作るようでホームページというのは非常に何らかの癒しにつながるということ。実際の場所を作り活動をしているアキサトはとてもいいことをしていると前から思う。酔っぱらってアキサトに電話をかけても最近は全くとってくれないが、取ってくれたところで実際に話すことは特にないだろうから、そもそも電話をかけるなよ、という話である。さて、この写真は近所の公園にある鉄棒のポールである。仕事の合間に長めの散歩をするのだが、その際にある場所。この近くには小さな商店街もあり、牛肉コロッケやリースを買ったりしたりするだけで私はとてもいい気分になる。商業的ではないところが本当に末永く、人類が終わりを迎えるまで残ってほしいと勝手に強く願う。願うことはとても勝手な行為であるから、あまり重きを置かないでおこうとも思う。柵越しに、これは夕方なのか曇りなのか、やや暗いのはフラッシュをたいたからであるな、普通に晴天の日だった記憶があるが定かではない、フラッシュはある種権力と搾取。写真を撮ることも同様。シマウマやレオパードの柄がみえるシマウマがレオパードを挟む、肉食と草食の記号を公園の遊具に巻くセンスがわからない、わからないことが写真を撮るひとつの理由になるはずだ。そしてこれは結構遠くから撮っていることもわかる、手前の柵の目の大きさからレンズを望遠に、柵に近づいてとったのだろう。この遊具で遊んだことはなく、ただただ見るだけになるので肉体的な感覚はなく、かなり表面的なふれあいだし遠い、遊具への遠さも感じる。自分は小さいころ母親と長い散歩をして川もわたり、野を通り抜け、川は渡っていないこれは単なる理想であった。砂場でブルドーザーのおもちゃを楽しむ記憶があるが、小さいころの自分の像がそこに対象としてあるからこれもまた写真を見ただけなんだろうなと、これは記憶ではなくイメージだ。

    この前、プール帰りに自転車でいつもの道を通っていると、住宅街の路地を歩く5歳くらいの男児がこちらを見ているので、なんとなくゆっくり走りながら僕も少年の方をみると少年は小さいころの僕であった。少年は口を蛸(イラストのタコ)の口のように窄めてこちらにアピールしてくる、その仕草は小さいころの僕がよくやっていた(今も体操としてやる)変顔である。自転車なのですぐに通り過ぎてしまったが僕は後ろ手にピースサインを送った。久々にプールでたらふく泳いで上陸したあと、たくさんの空気を浴びながら帰る春は気分が最高に爽快なのだ。