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  • 写真でその時を振り返る

    ホームページの見た目を変えたことで新しくやりたい事や書きたい事などが増える気がしている。名は体を表すというが、体は中身を作り名前すらも変えてしまうことがあるだろう、私はそのような思考の姿勢を保っていたいと思う。ひとつの権力がその後ろや下、この前や上の方が素敵、正しい、目指すべき方向、ということにずっと違和感を持っていたいと思うのだ。実際的な位置関係、ポジションというのは実際的にあると思う、上司・先輩、取引先の人、親、店長、初めて行く店の常連、過去の作品、アイデアをはじめにつくった人(これは微妙かも)など。ただしそれに追従しなければならないとか、そこから必ず学ばなければいけないとか、評価を受ける側として振る舞わなければいけないという緊張感を本当は全て取っ払うことができたらよい。本当のことを言うと、その権威的なポジションに事実・実際なっている人がそこのところを十全に意識するべきなのである。初心を忘れずとか、いつも新しい気持ちで向き合っています!とか、そんなのはきれいごとでしかないから、自分がもしそういう立場になるとしたらその取っ払いだけは約束したい、固い決意として今ここに刻む。心の粘土板、石板の一番上の層、ここでも上下がでてくるが石板や粘土板(粘土板は割れるからここではなかったことにしよう)、石板に刻まれた文字に上に書くとき削られていく、重さがゼロになって舞い飛んでいく、あるいはどこか別の場所に蓄積したり別と混ざり合い、全く気付かない内に「他のもの」として存在してしまっている(しまっている、と書いたがポジティブな意味で、ポジティブな意味で?)ような、あえてここでいうが、そのような権力でありたい。

    終わるまではすべてが永遠: 崩壊を巡るいくつかの欠片』を読み進めているのだが、私はなんとなーく反出生主義者である、というかそういう風に言われている人達が書いている言葉を読むとすごく静かに救われる気持ちになる、朝半身浴をしながら、夜眠る前に、そういう言葉、この本で引用される言葉やエピソード、作者の見解にふれることで、当然そこには自分自身の再確認も含まれるのだが、それにとどまらずこれまでにつながらなかったこと、考えが及ばなかったことについて触手が伸びていく気がする。伸びた分、リーチした先の動かせる範囲の暗い部分にあたるもの、それが「知らない」という世界の喜びであると思う。成長や生産性を求める(どうやら本気で求めているようだ)人々は確かにいるし、人間が人間になったのはこの飽くなき生産と消費のサイクルをやれるやつがやりまくっていいんだ!という快感から始まっているから当然そいつらは力を持つし権力ももつし、頭もよいし、金もある。人間が消えない限りこれは絶対に変わらない、とありきたりなことをもう一度思う。自分もこの一員として金を稼ぎ、金を使う楽しさを十分すぎるほどに享受している。晶文社スクラップブックの難波優輝『批判的日常美学について』の連載がとても面白い。2回まで今あるが、どちらもめちゃくちゃ面白い。

    というところでこのホームページが画像をぱっと見せない方向にしたので、こういう本文の中で今後撮った写真を使おうと思うのだ。アイキャッチは普通に表示されているみたいだが。

    これはこのホームページの下にも小さく載せているのだが、今思ったのだが、自分の空き地を作るようで、場所を作るようでホームページというのは非常に何らかの癒しにつながるということ。実際の場所を作り活動をしているアキサトはとてもいいことをしていると前から思う。酔っぱらってアキサトに電話をかけても最近は全くとってくれないが、取ってくれたところで実際に話すことは特にないだろうから、そもそも電話をかけるなよ、という話である。さて、この写真は近所の公園にある鉄棒のポールである。仕事の合間に長めの散歩をするのだが、その際にある場所。この近くには小さな商店街もあり、牛肉コロッケやリースを買ったりしたりするだけで私はとてもいい気分になる。商業的ではないところが本当に末永く、人類が終わりを迎えるまで残ってほしいと勝手に強く願う。願うことはとても勝手な行為であるから、あまり重きを置かないでおこうとも思う。柵越しに、これは夕方なのか曇りなのか、やや暗いのはフラッシュをたいたからであるな、普通に晴天の日だった記憶があるが定かではない、フラッシュはある種権力と搾取。写真を撮ることも同様。シマウマやレオパードの柄がみえるシマウマがレオパードを挟む、肉食と草食の記号を公園の遊具に巻くセンスがわからない、わからないことが写真を撮るひとつの理由になるはずだ。そしてこれは結構遠くから撮っていることもわかる、手前の柵の目の大きさからレンズを望遠に、柵に近づいてとったのだろう。この遊具で遊んだことはなく、ただただ見るだけになるので肉体的な感覚はなく、かなり表面的なふれあいだし遠い、遊具への遠さも感じる。自分は小さいころ母親と長い散歩をして川もわたり、野を通り抜け、川は渡っていないこれは単なる理想であった。砂場でブルドーザーのおもちゃを楽しむ記憶があるが、小さいころの自分の像がそこに対象としてあるからこれもまた写真を見ただけなんだろうなと、これは記憶ではなくイメージだ。

    この前、プール帰りに自転車でいつもの道を通っていると、住宅街の路地を歩く5歳くらいの男児がこちらを見ているので、なんとなくゆっくり走りながら僕も少年の方をみると少年は小さいころの僕であった。少年は口を蛸(イラストのタコ)の口のように窄めてこちらにアピールしてくる、その仕草は小さいころの僕がよくやっていた(今も体操としてやる)変顔である。自転車なのですぐに通り過ぎてしまったが僕は後ろ手にピースサインを送った。久々にプールでたらふく泳いで上陸したあと、たくさんの空気を浴びながら帰る春は気分が最高に爽快なのだ。

  • 2024年7-8月(観た映画など)

    2024年7-8月(観た映画など)

    酒飲む前後に五苓散という有名な漢方を飲むようにしていたんだけど、最近飲んだ日の夜、どれだけ入眠系のヨガやストレッチをしてみても寝れない時がある、4時とか6時とかまで寝れず(そういう時は満月のせいだと思い月の大きさをスマホでみるも、めっちゃ新月だったりする)、9時まで寝て起きるとそれはそうだが体調が悪い。気分も併せて体調が、ただし運動をして午前やり過ごして昼飯後に昼寝すればそんなに問題ない。その漢方のせいだと思って飲むのをやめてみたんだけどやはり眠れず、だから五苓散のせいではない。理由はなんだと、空腹だろうと思い至った。冷蔵庫にあった水ようかんを4時に部屋に持っていき食べると全身が安心して眠れたのである。

    飲みが進むとすぐに空腹を忘れるタイプである僕は、家に帰る道で「腹減ったなあ」と思いつつ酔っぱらっているので風呂入って、シートマスクしたり歯磨きしたり軽くストレッチもする。するとすっかり腹減ったなあとなるのだがそこでまた食べて歯磨くのがめんどくさいから本読んで眠気を作って寝ようとする。が寝れない。だからシンプルに、一杯食べてから飲もうと思った次第。これからはそうする。食べて食べて食べて飲む。これまでは飲んで飲んで食べて飲む、だったので。

    夏の終わりかけに気付いたのが、エアコンのカビ。エアコン内部のファンの部分(専門用語ではシロッコファン、と呼ぶらしい。シロッコファン、自分的には一瞬で覚えられる系の名前。)の羽にびっしり!とカビが生えてこすると真っ黒になる。それに気づいてから冷房を使えずなんか体調も悪いので、AMAZONでセルフで内部を洗浄するキット(”カビッシュトレール”なるもの。カビをシュッとしてとれる小林製薬メソッドのネーミング)を買ってトライした。汚水漏れが心配だったが、しっかりと付属のビニール袋を固定した。すすぎ液が全然足りずベランダに置いてあった強力な加圧式の霧吹きでブシャーっとやる。すると盲点であった右下左下の何か空間から液がぽたぽた。まあ完璧にできないくらいがセルフ〇〇にはちょうど良い。80点。75点。65点。50点。クリーンな空気で再出発である。マジで謎の体調不良が続いている(くしゃみ、せき、だるさなど)場合はエアコンを疑うべし。


    7月に観た映画

    • ホン・サンス 『WALK UP』
    • ブリュノ・デュモン 『フランス』
    • 小栗康平 『死の棘』
    • 佐井大紀 『イエスの箱舟』
    • 武田一成 『のぞき』(”ちょっと冒険してみない?「ORGASM」的偏愛ロマンポルノ”特集)
    • 鈴木潤一 『女教師狩り』(”ちょっと冒険してみない?「ORGASM」的偏愛ロマンポルノ”特集)
    • キム・ボラ 『リコーダーのテスト』
    • 斎藤久志 『フレンチドレッシング』
    • 奥間勝也 『骨を掘る男』
    • 『古代の美』『ドラムと少年』『港をつくる』(”日本映画と音楽1950年代から1960年代の作曲家たち”特集 矢代秋雄/佐藤慶次郎 作品集)
    • 青山真治 『サッド ヴァケイション』
    • 仁同 正明 『コーポ・ア・コーポ』
    • 小栗康平 『泥の河』
    • アリーチェ・ロルヴァケル『墓泥棒と失われた女神』
    • 井口奈己 『犬猫(8mm)』
    • レイチェル・ランバート 『時々、私は考える』
    • 曽根 中生、 Leiji Matsumoto 『元祖大四畳半大物語』

    8月に観た映画

    • 三間旭浩 山田咲 草野なつか 遠藤幹大 『広島を上映する』
    • 黒沢清 『Chime』
    • 斎藤玲児 Aプログラム(SCOOLシネマテーク Vol.4 斎藤玲児レトロスペクティブ)
    • たかはしそうた 『移動する記憶装置展』
    • ヴィム・ヴェンダース 『アメリカの友達』
    • リラ・アヴィルス 『夏の終わりに願うこと』
    • 西村匡史 『“死刑囚”に会い続ける男』

    比較的日本人監督の映画を多く観ているようだ。小栗康平の作品はもっと観たい、かなり面白い。『泥の河』の蟹焼きのシーンは観てしまった…感がある。『のぞき』、『元祖大四畳半大物語』は本当に良かった。下らないことをやり続ける、だらしない魅力に溢れている。こういう笑いを生み出せるムードの人になりたい。『サッド ヴァケイション』はやっぱり何回観てもいい。いつも発見がある。ああ、なるほど、とあれこんなんだっけ、といっつも九州弁慣れないな、とか。母親、父親、兄弟、プライド…。『フレンチドレッシング』(正確には各文字の間に中黒が入る?)はみんなで観た。観終わって居酒屋と東京ドーム前で飲んだのは夏の思い出。観覧車は今度乗りたい。斎藤玲児さんの作品集と『広島を上映する』内、山田咲『ヒロエさんと広島を上映する』を観ているとあらゆる映像記録の意味について、一度ある意味リセットしたように観る体験ができた。あらゆる映像に意味があるとも思えるし、意味などなく、記憶もそれぞれの無限のパターンがありえるし、編集についてもそうだと思える、いつもの自分がいかに便宜的に、上滑りしているのか、とも思える。『Chime』は気分的にはまれない、究極の無意味に乾燥しているように、無駄に思えてしまう。何を求めているのか知らんが。『移動する記憶装置展』、最近『他なる映画と 1』を読んでいて、身体は嘘をつかない、という言葉が出てくるが、実際にいる人の動き、歩き、所作、語り方をみてきいて、これかと体感できたのが嬉しい。そしてそれを再現し、フィードバックする(緩く)、こういうプロジェクト、アーカイブ性をゆるりと実現する姿に憧れる。緩さと真摯さが現在だ。かげやまさんが出てきたのも嬉しかった。斜めに身体を傾けつつ、なんとなく伺う。半分くらい。『リコーダーのテスト』の父親の頭に触れられない気持ち。


    【ナイスプレイス】

    • 『番兵』@仙川駅:ばんべい、と読む。もつ煮込みが、牛モツで、野菜とか入っていない、シンプル。新鮮。新鮮なアブラがめちゃうまい。素晴らしい。店主が鷹狩の服のブランドもやっている。事業の一個として立ち飲み屋をやる。たくさん話してくれる。安い、うまい、中華も本場で学んできた腕前。まな板と包丁でわかる。パチ屋の入口の真向かいから入る路地にあるのでパチ屋のチーム客が休憩がてら飲んでいた。良い。
    • 『和田堀公園プール』@永福町:屋外で、なぜか50m・長水。でかくて雑い。7月の真っ最中の太陽で焼け痛い。シャワーもプールゾーンの境にある大型の一基のみ。去年は受付や中で怠そうな大学生男女バイト達が青春してたが今年はなんか違った風。隣の幼稚園からクラクション音が断続的に続き、事件かと思ったら、車に乗る体験教室が開催されていた。サイドで焼いてるおじさんたちと「危ないやつかと思ったよねえ~」と話した。帰り道の長浜ラーメン世田谷店もうまかった。

  • フィッシング詐欺とWANDS(世界が終るまでは… )

    フィッシング詐欺とWANDS(世界が終るまでは… )

    2022/6/25にフィッシング詐欺に引っかかってしまった。仕事のインタビューを終えて、ベッドに寝転んで休んでいてメールを確認しているとAmazonから支払いの更新ができておらずアカウントが失効する、「もう」アカウントは停止します。ともう、にひっかかったものの、んぼーっっとしていたので、やべえ!早く!と打ち込んだ。一度Amazon.co.jpに飛ぶのもミソで、こんなん引っかかってもしょうがない、と恥ずかしさを打ち消す。恥ずかしい、絶対に引っかからないと思っていた。

    すぐにカードを停止したのち、5時間後、引き落とし不能を告げるメールが来た。私はデビッドカードを使っているのですぐに引き落としがされるのだ。238000円と58000円、20万の方はカーアクセサリー店、5万の方はジェラピケとか販売しているサイトだった、怖い、自分で稼いだお金ではないのに、豊かな生活をしようとしている。怖い、私はとても脆弱、もろく、攻撃を受けやすい、バルネラブルな存在である、カードは怖い。

    この、フィッシング詐欺、詐欺を受けてお金を失ったとしても、もし他人(中国人?)の生活を豊かにするためだけに頑張って稼いだお金を持っていかれたとしても、最近は住民税の支払いが天引きになっておらず意外な請求がきたり、借金の返済や、辞めた時期の関係で前の会社への返金によって結構痛い額を持っていかれたり、損をこうむる、みんなが私のお金を持って行ってしまうイメージ、そんなことはない、全ては私の問題である。

    私が何かしなければ、あるいは、何かをしていれば、お金は持っていかれない。お金はあるほうが幸せなのか?損をしたのは自分なのか?何かをしなければ、あるいは何かをしていれば、ということは、そもそも何も変わっていないのでは?

    そう何も変わらないのである。この世界が終わるまでは、お金があろうと、なかろうと、私の問題であることは何も変わらない、というのは確信にいたるべき存在である。突風でまぶたが裏返ろうと、家が火事で燃え尽きたとしても、私の問題である。

    何が問題なのか?、何の問題が私に関係しているのか?

    「世界が終わるまでは 離れることもない」

    宇宙がなくなるまでは、離れることができない

    世界と宇宙は、それ自体の存在にしか因っていないため、存在していなく存在していなくもない存在である。存在である、といえるだけ、存在である、しかしそれをまるっと認めるさらに大きな容器を持たないため、不確定な、揺らぎやすい、脆弱な存在である。まさにフィッシング詐欺で他人のジェラピケを買わされる人間のような状態である。

    宇宙・世界・神がフィッシング詐欺にあったら、ほんとうに誰も助けてくれない。他者の利益を拡張するために、自分の資産、あるいはもって生まれたもの、資質を動かし、エネルギーの代償として得てきた、培ってきたこの私の一体で離散の結果であるものたちを、誰もが狙っている、そしてそれは、その者自身の問題であるのだ。

    世界が終わるまでは離れることもない、その絶対的確信において、自分こそがすべての問題である、ということ。

    何の問題が自分であるのか?

    • 使命をもって、何かに貢献し、何かを極める必要はないこと
    • 使命感をもってコミットし己の役割を果たすこと
    • 何も考えず、死をまつこと
    • 対価を得る、奪う、圧倒すること
    • 価値を伝えること、またその価値を価値であるということを伝えること
    • 全く無意味なことに耽溺すること
    • 考えている自分自身を愛すること
    • よくわからないことでも、よくわからない、と思うこと
    • よくわからないことでも、わからないといえない人のことをわかってあげること
    • 全てを台無しにすること、また、それを深く後悔すること
    • 寄り分け、間を探し、常に間に存在していること

    そして、圧倒的に何もかわらない。夏の雲、水を浴びた後、それは今では区民プールだ、そしてそのあと夏の空の雲、濃厚な青と白、まるで物のような雲を見るとき、同時に筋肉が動いているあの感じ、空は同じだ、いつでも同じだと思うように、圧倒的に何も変わることはない。小学生のころ、おそらく小学校のプールに昼間に、土曜の昼間に向かう道の空、暑かった。小さいころはよくキャップをかぶっていた、ナイキのキャップ、それをかぶってずっと下を向いて歩いていたが、ふと雲を見ようと顔をあげた瞬間太陽の光、鼻血が水鉄砲のように噴出し、目の前の電柱を真っ赤にした。その赤、しかしそれは現実だったか?夢であったか?あるいは、隣に一緒に歩いていた友達、あるいはその友達にいつもついてきたその弟のものであったか?

    過去と夢は違うのか、過去の夢を現在思い出す、というのは、いったい全体何をしているのか。世界は終わることはない。