簡単で半端なこと、再考を求められてもほんとうはしたくない

吟味したり練ったり待ったりしすぎない、ある程度の部分でさっと満足・完了できるときの良さをいつでも忘れないようにしたい。だいたいのことは微に入り細を穿つことで良くなったりはしないと僕の場合はそう思う。ザクッと適当なところまで戻したりするとき一番楽しいし格好いいと感じられるしきっとそれがあっている。そうではない人達、最後の最後まで気を抜かず、極めていく人達へのリスペクトももちろんある。絶対にこの世はそのようなことが行われないと良くはならないとも確信している。私が単に向いていない、というだけである。これが「逃げ」や「諦め」、「無気力感の演出」ではあるのか。これらの態度はあってはならないものなのか?、道徳的には歓迎されないことであるのか、ということを考えている。努力と成長を続けることについて、仕事で関わった人とも最近話すことがあった。自分の安心や安全を犠牲にしてまで努力できない、という話、僕はとても面白いし共感すると思った。

自分のこだわり、あるいはあるべき姿を追求する、完ぺきさを求めるというのはつまるところ「自己同一性」を高める、世界に対して自己同一性を求める、ということになるのではないだろうか。それが例えば仕事において、音楽や芸術作品などにおいては、世界に対して自己を提示する、そしてその表れつつあるものの自己との同一性を高めていく作業は発生することは想像しやすい。ただしこれは創造性を「現在の自己」のオリジナリティというものに重きをおいている場合の話だ。そうでない場合、例えば創造性を過去・未来のそれこそ世界に依っている人や団体があるとすると、この突き詰めは一体誰が、何のために行っているのか。世界自身の世界同一性を高める先に、それらに触れそれらを媒介する人間は何を感じるのか。そこには媒体であることでしかない宗教性が感じられそうだ。

そういう意味では分かりやすい自己同一性をばら撒く人、というのは迷惑ではあるが、とても可愛らしくて愛すべき存在にも感じられる。敢えていい面を感じるとしたら、ではあるが。

長い時間のはじまりを楽しめる豊かさ。これから来る時間をひとつの物体として重荷として捉えるのではなく、ひとつひとつ、あり得ないくらい細かいから連続としてしか、あるいはいつまでも「まだ来ない」がずっと続いていくような、それは音楽を楽しむ本来的な姿のようである。未来だけでなく、過去に向かっても、終わってしまった過ぎ去ってしまった、取り戻しようがないひとつの「若さ」「希望」「夢」ということを設定しがち、自分自身を「以前」や「先」に一人立たせて放っておいて勝手に祭り上げる、こういうのは自分への酷い行為だ。単純にもっと、いい飲み会、なんども繰り返されてきたようなそんな飲み会の昔話、こんなことがあったよね、いやなかったよ、という無限を繰り返す。そこは個別具体的でありつつも、普遍と化すような時間だ。

いつかは自身の脚を折り畳み、目をつむるその時を、一人だけでは立たせないようでありたい。他は全て勝手にすればよいが、これだけは、私のすぐそば、一体としてすぐここにあるから、どうかそちらからも手を握り返してくれたら嬉しいと思う。このような思いはどこから来ているのかはわからない、単に個である不安とかなのだろうか。これを自己同一性ではない、全く無関係であるが同じく自己である存在性、あるいは世界との同一性に求めているのか。そのような短歌を書きたいが、今は目いっぱいに今、そして思い出そのもののようなことについてのことしか思いつかない。しかしやる、時たまやる。

長続きはほんとうにしない、このような時間は少しだけでもいい、涙がこぼれそうになっていると気持ちいい、その次にはひっこんでいる、本当にすぐ移行していく。次には欲しい服、綺麗に服をなんでも着こなしている人の写真や、当たり前に仕事がある。今は仕事が落ち着いているのでカメラを持って散歩がしたい。

誰の目線でもない、カメラにしか見ることができない風景が気になる。最近本屋で手に入れたのがMark Cohen 『Bread in Snow』でこの写真集は、かなりパッと取っていて狙っていない。即興は目線と姿勢であるな。こういう写真を撮りたいから、そういうカメラが欲しい。

これらの写真は、ウィルクスバリ(ペンシルヴェニア州の都市)の大通りや路地を歩いているとき、自分が見たものと自分との心理的な相互作用から刺激されたものだった。本書で最も早い時期の写真群は、これらのネガから焼いたものだ。1977年には、1年を通じてカラー写真に取り組んだ。このフィルムはジョージ・イーストマン・ハウスの事業の一環として、コダックが現像し、プルーフをプリントした。最後のイメージ群は、1987年に撮影したものだ。この年、私はフジ1600のカラーネガフィルムだけを使用していた。これは高速で撮れるから、素早く接近する私のストリート写真には最適だった。

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